才事記

ゼビウスと横須賀功光

ぼくの半生はさまざまな才能に驚いてきたトピックで、髪の生え際から足の親指まで埋まっている。小学校の吉見先生との一緒の遊びや南海ホークスの飯田のファースト守備に驚き、藤沢秀行の碁の打ち方や同志社大学の平尾ラグビーに驚き、電子ゲーム「ゼビウス」のつくりや井上陽水のシンガーソングぶりに驚き、亀田製菓の数々の「サラダあられ」や美山荘の中東吉次の摘草料理に驚き、横須賀功光が撮った写真やコム・デ・ギャルソンの白い男物シャツに驚いた。

ファミコンゲーム《ゼビウス》

いずれも予告なし。ある日突然に出会ってたまげたのだ。これらの代わりにマイルス・デイヴィスを聴いたときとかヴィトゲンシュタインを最初に読んだときとか、そういうものを挙げてもいいのだが、できればナマっぽく体験したことと向き合ったほうがいいので、こんな例にした。

まずは何に驚いたかということが大事なのだが、それにとどまってはいけない。そのときこちらを襲ってきた唐突な感動が、その日その場のシチュエーションや当日の体調や別の記憶との共属関係とともに新たに残響してくることが、もっと大事だ。

われわれは当然のことながら、幼児期には何にでも驚いてきた。子供になってからもアサガオの開花やセミの羽化に出会ったこと、土中の化石やホタルの点滅を初めて見たのは、忘れられない体験だ。ただし、これら植物や動物を相手にした感動はのちにも体験可能になる率が高いけれど、それにくらべて誰かがもたらしてくれるものは、その時その場にかぎられることが多い。

この誰かによる感動とどう付き合えるかということから、世の「才能」というものへの陥入がおこっていく。

感動や共感について心すべきことは、出会って驚いた瞬間の感動というか逆上といったものを、その後どのように保持できる状態にしておけるのか、またその感動をここぞというときに脳裏から自在にリコール(リマインド)できるようにしておけるのかということにある。

感動も共感も誰にだっていろいろの機会におこるものだけれど、それをどこかに転移しても(時と場所とメディアを移しても)、その鮮やかさをそこそこ賞味できるかということが、キモなのである。

たとえば、誰かの講演を聞いて、おおいに痺れたとする。内容にも共感したとする。では、この感動をどのように保持するかなのである。またどのように再生するかなのである。これがけっこう難しい。

驚きをもたらしてくれたものには、当然にそれをあらわした当事者の才能が光っている。横須賀のモノクロ写真や陽水の歌においてはあきらかに格別の「個の才能とスキル」が発揮されたのだし、「ゼビウス」や「サラダおかき」には開発チームの「集団的で統合的な才能」が結実したのである。しかし、その秘密に分け入るには、たくさんの分析や推理が必要だ。

たとえば第1に、その才能が開花するにあたっては、少年少女期や青春期に何をめざしていたのかということがある。栴檀は双葉より芳しと言うけれど、小さいころの能力の芽生えがそのまま開花することは少ない。なんらかの深堀りやエクササイズが生きたはずなのだ。横須賀や陽水はそこをどうしたのか、これは覗きにいく必要がある。

第2に、その才能開花に預かったメンターや技の協力者やチームはどういうものだったのかということがある。ゼビウスはどのようにチームを組んだのか。一人で独創をはたしたかに見える棟方志功だって、実はたくさんのメンターがいた。志功はそのメンターに強く影響されたいと思った。指導者や師や影響者の存在は、メンターの資質に選択肢があるというより、むしろその師に掛けたほうの強度がモノを言う。

のちのちそんな話もしたいと思うけれど、ぼくの場合はいったん選んだ影響者のことを、その後もまったく疑うことがなかった。

また第3に、その才能によってどのように同時代の競争を抜きん出たのか、そこにはどんな時代の水準がわだかまっていたのかということも才能分析の対象になる。セザンヌが人気があったときとカンディンスキーが「青騎士」として登場したときとウォーホルがシルクスクリーンで登場したときとでは、時代のアイコンも驚きの関数も違っていた。そのため、その時々の勝負手がちがってくる。こういうときは、自分で才能を懸崖に立たせる必要がある。イチかバチかに向かう必要がある。

横須賀功光《射》

横須賀功光が颯爽と出現したときは、日本の写真界はキラ星がひしめいていた。ファッション写真や広告写真で腕を磨いた横須賀は、ここで全裸の若者をモデルに『射』というモノクローム作品に挑んだ。若者が壁に向かって跳び移ろうとする肉体を、撮ってみせたのだ。ライティングも絶妙だった。誰も見たことがない写真だった。

第4に、才能開花のためのエクササイズやレッスンや機材はどういうものであったかということがある。棟方志功のように「板と刀」だけが武器だということもあるけれど、多くの場合、才能開花にはいくつもの道具や機材が関与する。レンブラントの版画には日本から取り寄せた和紙が、プレスリーのギターにはマイクやアンプの性能が、アンセル・アダムスのf/64のカメラにはレンズやプリントペーパーの質がかかわっていた。

顔料やコンピュータをどう使うか、録音機やプロジェクターをどうするか、釉薬や鉄材は何を入手するか。テクノロジーは才能の信頼すべき友人なのである。このことも才能にまつわっている。

ぼくは執筆には、いまだにシャープの「書院」を使っている。発売されていないだけでなく、いまや修理ができる工房もない。

第5に、なぜその当事者たちは「ゾーン」に入れたのかということだ。才能に自信がもてるには、どこかでゾーン体験がいる。ゾーンに入るとは、予想を超えるノリに入ったことをいう。俗にエンドルフィンやアドレナリンが溢れることだ。

しかしながら、為末大が言っていたけれど、あるときゾーンに入っていけたとしても、その継続は必ずしもおこらないし、その手前でそうなるとはほぼ気が付かないものなので、そこをどうするか。そのため、アスリートの多くはゾーンを思い描いたイメージ・トレーニングをしたり、ルーチンを確実なものにしていくということをする。

けれども意外なことだろうが、スポーツ以外ならいくらだってゾーン体験は引き寄せることが可能なのである。一番有効なのは誰かとコラボすることだ。スポーツは必ずチームや相手がいてスコアを争っているのだが、他の才能開花は一人で自分の才能の発揮に悩む。そういうときは、誰かとともにその才能を試すのがいい。編集能力の発揮なら、学習仲間とともにさまざまなことを試みたり、メディアを変えたりするといい。

たんに感動したといっても、そこにはざっと以上のようなことが準備されていたり、参集していたのである。これらを無視しては才能は発揮できないし、才能を云々することも叶わない。

しかし、ここまでの話は、ぼくがこのコラムであきらかにしたいことの範疇のうちのまだまだ一端にすぎないのである。どちらかというと、ここまでは才能議論の準備やアプローチに必要なことで、実は序の口の話なのだ。クロート向きとは言えない。
 才能に痺れたのちに重視してみたいのは、驚かされた相手の才能は当方(受容者)にどのように伝播されたのか。その後はどうなっていったのか、ここを抉るということだ。

ラグビーの平尾やシンガソングライターの陽水の才能は、ほおっておけばすぐに「スポーツの才能」とか「音楽の才能」というふうに一般化されてしまう。また他のプレイヤーとの比較分布にマッピングされていく。ジャンクフードや料理の個別の感動は、たちまち無数の「おいしさランク」にいいねボタンとして回収されて、平べったくなっていく。

ゼビウスはその後は無数の電子ゲームが乱舞していったので、おそらくいま遊んでみても当初の感動は色褪せているにちがいない。

愛用の”お古” シャープ《書院》

コム・デ・ギャルソンの黒い紐付きの白シャツはいまでも気にいってはいるけれど(イッセイのスタンドカラーの白シャツなどとともに)、それははっきりいって「お古」なのである。

が、大事なのはこの「お古」との付き合いのうちにも、あのときの感動とそれをもたらした才能とを交差させられるかどうかということなのだ。

そもそもプラトンも人麻呂もバッハもゴッホも複式夢幻能も、これらはすべて「お古」なのである。「お古」だからこそ、何度もプラトンを読みなおしたり能楽を見なおしたりするのだが、そしてそれで少しは自分が感動した才能の位置や重みに気がつくこともあるし、少しは「お古」を脱したと感じるのだけれど、これでは甘いままになる。それよりむしろもっと「お古」を相手に才能と向き合うべきなのである。「お古」をバカにしてはいけない。

これは思うに、感動は転移しつつあるあいだも(AからBに、BからCやDに)それなりの主張をしているはずなのだから、その転移のなかでの様変わりな変容も捉えておいたほうがいいだろうということだ。ぼくが何を一番鍛えてきたかといえば、おそらくはこの「お古」をいつも甦らせる状態で自分の編集力をリマインドしたりリコールできるかということだった。

感動や驚嘆には才能の楽譜やレシピが刻まれている。ぼくの編集力はそのことをヴィヴィッドな状態でホールディングしたり別の場所にキャリングする(移行させる)ことを、試行錯誤をくりかえしながらも何度も試みることで、そこそこ鍛えてきたように思う。ただし、そこにはいろいろの秘伝もある。そのあたりのこと、おいおい話してみたい。

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海の帝国

アジアをどう考えるか

白石隆

中公新書 2000

シンガポールのラッフルズ・ホテル。
東南アジアで最も有名で、最も美しいホテルだ。
では、そのラッフルズとはどんな男だったのか。
シンガポールを建設した男だ。イギリス人だ。
それとともに「海の帝国」を構想した。
しかしイギリスは、ナポレオン戦争後に方針を転換した。
そして自由経済市場の実験を施行した。
かれらは東アジアにいったい何を仕掛けたのか。
そこに、今日のアジアを考える原図がみえてはこないか。

 東南アジアの現在を考察するために、日本を含む東南アジアの近代を問うた好著である。ぼくはこのところ、アメリカの「暴走するグローバル・キャピタリズム」を問題にするには、そもそもイギリスを見なければまずいのではないかと考えていて、それには「列強の近代」にまで動向をさかのぼらなければならないと思い、その一端を『世界と日本のまちがい』(春秋社)にも書いたりしてきたのだが、それは以前に本書を読んだこともひとつのきっかけになっていた。
 話はちょっとさかのぼることになるけれど、平凡社東洋文庫の『アブドゥッラー物語』を読んだときに、なぜか本書のようなコンテキストがきっとどこかで書かれているのではないかという“読書デジャビュ”のようなものがはたらいたことがあった。まだ、そういう本にはお目にかかれないでいたのであるが、そのうち本書に出会えたのだ。(実際には「中央公論」に連載されていた)ああ、やっぱり“ここ”を書ける人がいるのだと感動した。“デジャビュ”が蘇ったわけだ。
 中原道子の名訳で知られる『アブドゥッラー物語』は、これを読まなければこの男のことは何もわからないというアブドゥッラー・ビン・アブドゥル・カディールの自伝である(そういう本は世界にいっぱい満ち溢れている。とくに東洋文庫には)。アブドゥッラーは1797年にマラッカに生まれ、『コーラン』で育ち、タミール語に習熟し、シンガポールに移ってからはマレー語も英語も駆使してイギリス人たちと仕事をし、そして1854年にメッカ巡礼に向かう途上に死んだ。
 そのイギリス人というのがトーマス・ラッフルズで、アブドゥッラーは19歳でラッフルズの書記となっていた。本書はそのラッフルズの話から始まっていて、そこが“デジャビュ”に結びついたのだ。

 ラッフルズはシンガポールを“建設”した男である。やはり東洋文庫に信夫清三郎の『ラッフルズ伝』がある。
 1771年に西インドのジャマイカに生まれ、14歳でロンドンに来てイギリス東インド会社の職員になると、1805年にペナンに派遣された。ペナンでマレー語を習得、原住民を雇って「マレーの王」たちのあいだで知られるようになった。『アブドゥッラー物語』や『ラッフルズ伝』によると、ともかくマレーの歴史文化風俗については何でも集め、何でも記録しようとしたようだ。欧米の遠征者によく見られる“文明コレクター”だったのだろう。
 そのあとラッフルズは、1819年にいまでも有名なラッフルズ・ホテルなどを建て、「新帝国」の構想に乗り出した。領土支配を目的としない自由貿易だけが広がっていく「海の帝国」である。それが、マラッカ海峡からスマトラ、バリ、セレベス、モルッカ諸島、はてはニューホランド(オーストラリア)に広がった。
 しかし、このラッフルズの構想は実現しなかった。イギリス人による「海の帝国」は「東インド」ではなく「東アジア」として姿をあらわし、ラッフルズが決して組むまいと見ていたイギリスと中国が同盟関係に入り、シンガポールは華僑の中核拠点になった。なぜ、そうなったのか。
 本書の前半は、このラッフルズ構想が生まれた背景と、それが転換していった経緯を追う。後半は話がぐっと飛んで、20世紀現代の東南アジア諸国、タイ、インドネシア、フィリピンの動向を扱って、そこに与(くみ)する日本と、それを背後で操ったアメリカのグローバリズムを解説している。いわば前半がイギリス19世紀前半のアジア戦略のシナリオの解読、後半が20世紀半ばの戦後体制のなかでのアメリカのアジア戦略の解読になっている。
 今夜は執筆動機がぼくの個人的な“デジャビュ”の蘇生によるものだったので、前半だけの案内にとどめるけれど、戦後アジアにおけるアメリカと日本の蜜月関係については、いずれ何かの一冊を選んで千夜千冊する。

 19世紀初頭、シンガポールは人口300人ほどの漁村だった。ヨーロッパはナポレオン戦争の渦中にあって、イギリスはナポレオンのフランスとの対抗策を練っていた。

19世紀初頭のシンガポールの風景

 1795年、オランダがフランスの同盟国としてイギリスに宣戦したとき、イギリスは喜望峰・セイロン・マラッカを占領した。かつてのオランダの「海の帝国」をぶんどったのだ。オランダはそれまでは、喜望峰・セイロン・マラッカ・長崎をつなぐ海上帝国を築いていた。それをイギリスが落とした。ナポレオンは弟のルイ・ボナパルトをオランダ国王にすると、さっそく1808年にオランダ人ヘルマン・デーンデルスを東インド総督としてバタヴィア(ジャカルタ)に送りこんできた。
 イギリスはただちにジャワの海上封鎖をおこない、東インド総督ミントーにジャワ占領を命じた。イギリス東インド会社の指示でもあった。東インド会社の方針は、オランダ=フランスの勢力をジャワから駆逐して、その後はジャワを放棄せよというものだった。しかしミントー総督はジャワを暫定的にイギリスの占領下におくべきだと判断していた。1811年、トーマス・ラッフルズがマラッカにいたのは、このジャワ占領工作のためである。
 ここでラッフルズがミントー総督に「海の帝国」の構想を提案した。まずジャワを占領して、マラッカ海峡を掌握する。ついでベンガル湾からマラッカ海峡、バンカ、スマトラ、ジャワ、バリ、セレベスを経由してモルッカ諸島を囲む。そうすれば、そこに南太平洋を含む「海上帝国」がイギリスの支配下にはいるのではないかという構想だ。

ッフルズの「新帝国」の構想(地図は現在のものを使用)
マラッカ海峡を通る海路上(図の下部の太い点線)に
「海上帝国」を築こうとするラッフルズの構想

 ここには同時に「われわれのマレー政策」というものが含まれていた。ラッフルズは、オランダがその植民地経営で原住民であるマレー人やジャワ人を抑圧し、中国人を支援しているのが気にいらない。中国人はその土地で何かを得ると、そこに成果をもたらすのではなく、本国に送金してしまうか、中国人地域を画定してそこに成果をためこんでいく。これを阻止するべきだと見ていた。
 ラッフルズはまた、アラブ人とアメリカ人にも警戒すべきだと考えていた。アラブ人はマレーに来ると中国人同様に貿易独占をしたがるし、そのくせよく働く中国人にくらべて、まったく働かない。のみならず自分たちを「シェイク」(有力者)だとか「サイード」(ムハンマド=マホメットの子孫)だとかと名のって、「マレーの王」を騙す。一方、アメリカ人はイギリスから独立したばかりなので、東インドの物産・資産を中国市場に売りさばいて対抗してくるだろう。太平洋交易の独占も狙っている。とくにアメリカ人は銃器や兵器の扱いに長けているので、いずれ東インド中に銃を売りさばく。これは警戒すべきだ。
 そこで「われわれのマレー政策」はこれらと異なって、自由貿易に徹し、領土を支配することなく「海の帝国」を築くべきだろうというのである。そのためにはまず海上の軍事的優位を独占しようというものだ。ラッフルズは、そのようにミントー総督に提示した。

 ラッフルズの構想とは何だったのだろうか。今日からみれば、イギリスが初めて「アダム・スミスの見えざる手」を導入して、世界の一角に自由経済市場をグローバルに実現しようとしたものだと位置づけられよう。本書も、「いまはやりのことばでいえば、グローバル・スタンダードに適った法律・制度・政府・政策を導入する、自由主義プロジェクトの最初であった」というふうに指摘する。むろん植民地を前提にしての植民地資本主義のことだ。
 しかし、ラッフルズの海上帝国構想は実現しなかった。イギリスはベンガル湾・マラッカ海峡・ニューホランドを結ぶ線ではなく、カルカッタ・ペナン・シンガポール・香港・上海を結ぶ線で、東アジア構想を組み立てることになったのである。そのため、1819年にシンガポール建設が着手されたのだが、それはラッフルズが警戒した中国人と、イギリスが密約したことを物語っていた。
 どうして、こういうふうになったのか。ひとつには、ナポレオン戦争が終結し、フランスとのあいだでパリ条約が締結されると、これによってイギリスはマルタ島・喜望峰・セイロンを獲得し、ジャワはオランダに返還されたからだった。これでイギリスは「東インド」ではなく、この時点で「東南アジア」を選択することになったのだ。本書では、イギリスが「東南アジア」および「東アジア」に自由経済市場の拠点を移動したことが、のちの「列強」(パワーズ)の確執と野望に大きな変化をもたらしたことが、暗示されている。
 が、このとき、もうひとつイギリスが踏み出してしまったことがあった。それは、シンガポールを「ドラッグ・マネー」の仲介地として浮上させてしまったことである。当時のドラッグ・マネーとはアヘン交易だ。これがイギリスのもうひとつの宿命、いわばグローバル・キャピタリズムの先鞭としての世界戦略を決定づけるものになっていく。

 そもそもシンガポールは自由港として成長した。その担い手となったのはイギリス人と中国人である。ただし、イギリス人は中国人の商売のやりかたを信用していないから、特別の商人を特定して交易しようとした。イギリス人はかれらを「リスペクタブル・チャイニーズ」と呼んだ。
 交易の中心は胡椒とガンビルと錫である。1820年代には今のシンガポールのオーキッド通りあたりに、胡椒栽培とガンビル栽培の農園が拓けていった。この栽培については資本・労働・市場ともに、「三合会」とか「義興会」などとよばれた中国の秘密結社が握っていた。しかしイギリスの植民地政府としては、これらの相手となんとか組んで、胡椒とガンビルうまく交易に乗せて、錫かお金に替えるしかない。自由港であるから関税はとれない。そこで、ここに活躍したのが「リスペクタブル・チャイニーズ」だったのである。
 イギリス植民地政府は、このリスペクタブル・チャイニーズたちに徴税請負の名目で、シンガポールにおけるアヘンの独占販売を許可することにした。かれらは上っつらだけは入札して、アヘン独占販売と賭博税徴収の権利を請け負ったのだ。なぜこんな特別措置が必要だったのか。なぜアヘンまで必要になったのか。

19世紀シンガポール
中国人が集まるアヘン窟の様子

 このようなことが“成立”した背景には、東インド海域がそもそもどのような交易圏であったのかという事情が絡んでいる。
 本書はそのあたりのことも詳細に描いているが、一言でいえば、ここには古代中世を通じて「ブギス人」たちの海と商圏があった。その前提には、アジアにはもともとアジア独自の「朝貢貿易システム」があったということが控えている。
 巨大な中国の交易圏を下敷きにした朝貢貿易システムは、古代このかたすこぶる“多中心”だった。東南アジアでは、カリスマ的な力をもつ「王」が各地にあらわれ、人口集住するマレー世界のヌガラやタイ世界のムアンなどに「国」を建て、これらがネットワークされながら中国との朝貢貿易を拡張していった。
 かつてオリヴァー・ウォルタースは、このしくみを「マンダラ・システム」と名付けたものだった。「海のマンダラ」「陸のマンダラ」があったわけである。ちなみにヌガラについては、クリフォード・ギアツの『ヌガラ――19世紀バリの劇場国家』(みすず書房)の解説が有名だが、クリフォードの解説がヌガラを独立した単位として扱っていたのに対して、ウォルタースは「王」と「華僑」によってネットワークされたヌガラを描いてみせた。

南アジア世界
「海のマンダラ」「山のマンダラ」の多中心モデル
東南アジア固有の政治システムは内政と外政を分けず
王のカリスマ力が及ぶ範囲を「国」とした

 ともかくもそのように、ブギス人の海と陸にまたがるマンダラ・システムがあったのだが、このうちの「海のマンダラ」は1511年のポルトガルのマラッカ占領によって、変形する。続いてオランダが、東インド会社の勢力をもって「陸のマンダラ」を変形していった。
 しかし1635年に徳川日本が鎖国に転じ、鄭成功が台湾からオランダ勢力を放逐し(その前に朱舜水が明室再興を懸けて海外経営に乗り出したわけだが)、さらに明に代わって登場した清朝が海禁政策をすると、ここに東アジア世界は変形されたままではあるものの、半ばこれを近代に向かって閉じるかのような時代に突入していったわけだった。これが東アジアに朝貢貿易システムを19世紀まで温存させた原因になる。

 一方、東南アジア世界ではその朝貢システムが解体し、いったん「王と華僑のネットワーク」は寸断されていった。そこで、こうしたことを背景にして、イギリスの交易商人が1760年代には、アヘンをブギス人を通して東インド交易にもちこんだのである。アヘンを渡し、錫を調達した。この地域は錫の鉱山の宝庫でもあったのだ。こうしてドラッグ・マネーが東南アジアを動きまわることになる。
 当初、オランダ東インド会社はこれを警戒した。艦隊を派遣して、イギリス交易商人とブギス人の結託を阻止するべくリオウを占領、そのため、イギリス商人たちはマラッカ海峡、南スマトラ、ボルネオに動いていった。ラッフルズがマラッカに来て、シンガポール建設に着手したのは、この時期になる。ということはつまり、ラッフルズは「海のマンダラ」の再生によって、新たな海上帝国を形成しようと構想したわけなのだ。

ギリスのカリマンタン(ボルネオ)での海賊鎮圧風景

 けれども、さきほどのべたように、その構想は転換され、陸と海のマンダラは、結局はイギリスの自由貿易帝国の出現によって「世界システム」のほうに組みこまれていったのである。このとき、このイギリスの野望を組み立てたのがリスペクタブル・チャイニーズとのあいだの特別措置としての、アヘン交易だったのである。
 その後の1840年、イギリスと清とのあいだにどのようにアヘン戦争が勃発したかについては、『世界と日本のまちがい』に詳しく書いておいた。「ナポレオン戦争→ウィーン体制→フランスとオランダの後退→イギリスのアジア進出→アヘン戦争→太平天国の乱→アロー戦争」という進行だ(本書は1837年に即位したヴィクトリア女王以降の、いわゆる「パクス・ブリタニカ」以降のイギリスとアジアの関係は扱っていない)。

イゴオ・ドローイング
『世界と日本のまちがい』第4講‥列強の誕生とアジアの危機より

 ついでにいえば、これを太平洋の向こうから虎視眈々と凝視していたのがアメリカである。1848年の米墨戦争を片付けたペリー提督が、アメリカの世界戦略のシナリオをもって黒船を日本に向けることになったのは、この虎視眈々の結果であった。このときのアメリカの世界戦略のシナリオとは、マハン提督が描いたアメリカ版「海の帝国」のシナリオのことをいう。パナマ運河を掌握して、カリブ海、キューバ、ハワイ、太平洋、フィリピン、グアム、日本をつなぐ赤道以北の「海の帝国」である。
 つまりは、イギリスとアメリカが「海の帝国」を、一方はマラッカ海峡を中心に、他方はパナマ運河を中心に、それぞれ同時期に構築しようとしていたわけなのである。日本の開国も、この二つのシナリオのもとに仕組まれたといっていい。

 さて、本書が好著であるのは、ラッフルズの「海上帝国の構想」が東アジアと東南アジアが交差する歴史のツボに当たっていて、それがしかしその図面通りではなく何度も書き換えられ、それでもなお結局は今日のアメリカや日本がかかわろうとしているASEAN問題にもその影響をもたらしているという、その“遺伝子”を伝えてくれたからだった。
 そのことについて、本書の後半の案内を省いてしまったうえでは申し訳ないけれど、ひとつ、ふたつの感想を綴っておきたい。

 本書は「アジアは海である」という視野で貫かれている。これはフェルナン・ブローデルが『地中海』で見せた詳細で鋭利な視野に似ていなくもないが、ここに強調されているのは「海の資本主義」としての海アジアなのである。これは郷神や農民を主人公とした陸アジアとは、やはり異なっている。たとえば、中国の浙江・福建・広東は清末にいたるまで海アジアであり、その後の香港や今日の上海も、また海アジアなのである。
 そういう海アジアに、イギリスが植民地資本主義をねじこんだ。それがラッフルズの時代におこったことだ。そしてこれが、東アジア近代の原図になった。
 しかしここから始まった海上帝国の変遷は、本書の用語でいうなら、ずうっとインフォーマルな帝国だった。一方、フォーマルな帝国は植民地・自治領・租借地・条約港の上に成立していった。こちらのほうは陸アジアを制し、東南アジア近代の原図をつくった。

18世紀末の東南アジアの勢力図
各国の勢力は周辺国と係争関係にあり、
「国」はインフォーマルにその領地を拡大収縮する

19世紀末の東南アジア
ヨーロッパの支配により植民地国家とその国境が定められた

 ここに東南アジアに植民地国家が出現し、東アジアにフォーマルな帝国を生み出されなかった理由がある。近世の中国と日本と韓国がそうであったわけだが、東アジア諸国はついに外国に支配されることなく、しかし半分封建・半分交易という恰好のまま、近代に向かう道を歩むことになった。それに痺れを切らして立ち上がったのが明治近代国家というものだったけれど、それはすでに英米によって、その原図を握られたあとのことだったのである。
 逆にいえば、中国や日本は「世界システム」に参加する以前にフォーマルな帝国を作りえなかったから、インフォーマルな帝国をその周縁に出入りさせる「動く帝国」にはかわれなかったわけである。他方イギリスやアメリカは、「動く帝国」こそ各地に分配する戦略を巧みに実現していった。この違いが、いまなおアジア政策においての英米と日中との差を生んでいると言える。

 イギリスが先駆し、アメリカが追随したのは、植民地資本主義だけではなかったのだ。インフォーマルな帝国を海アジアに魔術のようにつくりだす「方法」をつくりだしたことだった。それを象徴するのが「条約港」を設定する方法である。開国日本が悩まされた領事裁判権、沿岸貿易権、内河航行権、軍艦常駐権、関税互定権などが、こうしてつくりだされたのである。
 陸アジアはネーション・ステート(国民国家)の道を正当に歩まざるをえない。しかし、そのように歩み出す前に、陸アジアの諸国は海アジアに仕掛けられた「条約港」によって、すでにその力の半分以上がもぎとられていたわけなのである。
 まったく同じことをアメリカが、当初から日本やフィリンピンやベトナムに仕掛けていたことは、いまや説明するまでもない。
 しかし日本はそれではガマンができず、海アジアを日清・日露で引き寄せると、すぐさま英米型の「条約港」制度を見よう見まねで流用し、しかしそのまま今度は陸アジアに進出していった。満州問題や日韓併合とはそのことだ。日本軍がインドシナや東インドに向かったのは、そのことだ。「大東亜共栄圏」とは、そのことだ。
 しかし、そこにはラッフルズが描いた原図はなかったのである。日本は陸アジアの植民地体制に挑んだけれど、またその半分ほどに列強の植民地体制の終焉をもたらしたけれど、それを太平洋戦争においては海アジアにはまったく適用できないままにした。これでは、日本が最初から「海上構想」をもっていなかったと言われても、しかたない。

附記:著者の白石隆さんは1996年から京都大学の東南アジア研究センター教授をしておられる。ずいぶん前に『インドネシア』(リブロポート)でサントリー学芸賞を受賞し、その後は『スカルノとスハルト』(岩波書店)や『崩壊』(NTT出版)を発表した。本書は吉野作造賞をとった。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』(821夜)を訳したのも、白石さんである。
 本書をめぐる参考書はいくらもあるが、著者が薦めているのは濱下武志の『近代中国の国際的契機――朝貢貿易システムと近代アジア』(東京大学出版会)、東京大学社会科学研究所編の『20世紀システム』シリーズ(東京大学出版会)、中村隆英『昭和史』1・2(東洋経済新報社)などである。