父の先見
インドへの道
筑摩書房 1970
Edward Morgan Forster
A Passage to India 1924
[訳]瀬尾裕
そこが、フォースターの文学が芽生えた踊り場なのです。
はい、ホモセクシャルで、ちょっと紫色で、
ついつい神より尊い場所に赴いて、
そしてひたすら「未知の教養」を綴っていくのです。
そうなんです。そこが、
フォースターの文学が醸成された寝室です。
それにしてもフォースターは、
どうして西洋知を見限ったのでしょうか。
そして、なぜ東洋の香りを綴りたくなったのでしょうか。
ええ、そのことに応えるべきは、
いまや、われわれでこそあるべきですね。
すでに日本の少女マンガ家たちが
いちはやく呼応してくれてきたのですけれど‥。
E・M・フォースターを綴ってもいいだろう夜がやってきた。何かがうまく書けるような気はしないけれど、今夜は苦悩が柔らかくて巨きく透きとおり、とても高潔でセクシーな知性に包まれたままにいたいからだ。
フォースターの小説を知ったのはずいぶん前のこと、『ハワーズ・エンド』を集英社の世界文学全集の吉田健一訳で読んだのもだいぶん前のことだったけれど、急にフォースターに近づいたのは映画《モーリス》を見たことによる。
原作の『モーリス』は長らく禁断の書だった。一九一三年の執筆にさかのぼるのに、出版は一九七一年まで見送られていた。フォースター自身があまりにスキャンダラスなので自分の死後にしか出版できないと言っていたためで、その本人が一九七〇年に死んだから、やっと陽の目を見た。日本語版はさらに十七年ほど遅れたろうか(フジテレビ出版→扶桑社)。
そんなわけで噂しか知らなかったのだが、一九八七年に製作された映画《モーリス》を見て、びっくりした。この美しい青年たちは何なんだ! これを綴ったフォースターに、こんな文明美学が二十世紀初頭にしてすでに宿っていたことにも驚いた。主人公モーリス・クリストファー・ホールの名は、ワイルドのドリアン・グレイやトニオ・クレーゲルのように、今後ますます輝きつづけるだろう。そう、感じた。それほどにモーリスは、痛ましくも愚かで、そして美しい。
監督ジェームズ・アイヴォリー、主演ジェームズ・ウィルビー。ヴェネチア国際映画祭の男優賞・監督賞・音楽賞をとった。音楽はリチャード・ロビンズ。二十世紀初頭のケンブリッジ学舎の雰囲気がノスタルジックに描かれていて、痛ましくて美しいフラジリティが伝わってきた。
小説のほうは、モーリスがクライヴ・ダラムという秀才に出会って恋に落ちていくという発端から、途中に森番のアレック・スカダーに誘惑され、ついに森で生活するという決断をする結末にいたるまで、「存在のアンビバレントな否定と肯定」がちらちらと燃えつづけているというもので、映画とはちがって全篇に痛みが哭いている。その痛みは存在学の深みのほうに向かっていく。
映画のほうは、小説の中の青年どうしの鶺鴒の尾のピコピコした動きのような、そんな恋の痙攣に照準をあわせて謳っていて、たいそうノスタルジーが潤ませてあった。そのぶん話題になった。
いったい小説と映画のどちらにフォースターはいるのか。それはおくとして、このような話はたとえばロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』(新潮文庫・光文社古典新訳文庫)のごとく、ふつうなら男と女の冒険になることが多い。チャタレイ夫人は森番と激しい恋をした。そのぶん描写がセンセーショナルな話題になって発禁された。
フォースターはそういう恋愛沙汰をいとも軽々と、男の感性の接触だけに生じた出来事として描きえた。まことに驚くべきことだ。フォースターがブンガクしていた時代は十九世紀末から二十世紀の初頭なのだが、ホモセクシャルな出来事を書いたり、あからさまにすることはほぼ御法度だったわけで、よく知られているようにオスカー・ワイルドはそのため投獄されたほどだった。
フォースターの綴ったゲイ感覚は、その後の二十世紀文学におなじみのカポーティやバロウズのものとはまったくちがう。テネシー・ウィリアムズのような、いわゆるカミングアウト的な臨場感などもない。それなのにいったん読みはじめると、そこからいっときも離れたくなくなるような質の高い美的快感が伝わってくる。それは、映画《モーリス》を見た者ならわかるだろうが、あるいは美少年が出てくる竹宮恵子ふうの少女マンガのファンならもっとわかるだろうが、女性にとってもとても気持ちのいいものだ。ここがフォースターの驚くべきところなのである。
『モーリス』は、ケンブリッジの眩しい学生生活を舞台にしている。ケンブリッジでは一八二〇年代に「アポスルズ」あるいは「ソサエティ」と名付けられた“使徒会”が自由討論会をひらいていて、そのソサエティに参加していた“会員”たちは、のちにまとめてブルームズベリー・グループと言われた。
有名どころでは、ヘーゲル研究のマクタガート、当時は記号数理学者だったホワイトヘッド、バートランド・ラッセル、ケインズ経済学の例のケインズ、のちにヴァージニア・ウルフと結婚するレナード・ウルフ、当時のアカデミック・カリスマだったリットン・ストレイチーなどが会員だった。一八九七年にケンブリッジ大学に入ったフォースターもそのソサエティに属していた。ソサエティでは、男女ともに同性愛が公然たる秘密になっていて「知の青春」が発芽した。
その仲間たち
資料をいろいろ見ると、フォースターは『小公子』(新潮文庫)のリトル・フォンテルロイそっくりに、女の子のような服装をさせられ、髪を肩までたらした幼少年期をおくっている。これはロラン・バルトの幼年時代に似ている。バルトも女の子のような恰好をさせられていた。また、青少年期にはどんな猥談を聞いても気分が悪くなっていたらしい。ぼくも猥談がひどく苦手で、それが男社会の中でできないということをいっときコンプレックスに思っていたほどなので、多少のことならわかるのだが、フォースターはそれどころではなかった。さらにこれは本当かどうかはわからないけれど、三十歳のころまで男女のセックスの仕方を知らなかったという。
これだけの条件が揃っていれば、フォースターがケンブリッジで筋金入りのホモセクシャルな感性を磨いたということは、まあ、あきらかなのだが、それだけではなく、その価値観にはちょっと変わったところがあった。
たとえばダンテは大好きだったのに、中世のスコラ主義や神学や悪魔学は大嫌いなのである。そのためキリスト教美術が表現しているありとあらゆる聖像が受け入れがたかったらしい。キリスト教の「知」そのものについても、ああいうものはなんだか猥雑だというふうに随所で述べている。せいぜいエラスムスかモンテーニュなら尊敬できるとも言っている。
ナイーヴなのではない。鋭すぎるほどの感受性なのだ。こういう見方はどこからきたのかといえば、きっと若き日々にヨーロッパ文明が仕上げた「知」に対する疑念のようなものが形成されていたせいだろうと思う。それがゲイ感覚でいっそう磨かれたのではないか。そんなふうに感じた。
今夜は世界文学史上の高潔な傑作『インドへの道』をとりあげる。この作品についてのフツーの評判を言っておくと、西洋的な知の無惨な姿を捨てたフォースターが、微妙な見方をもって東洋的世界に触れていった物語だということになっている。そして、このような作品を書く見方をフォースターがもったのは、アレキサンドリア旅行やインド旅行をしてからのことだったというふうになっている。
しかし察するに、それは青少年期から芽生えていた文明に対する美学と疑念にもとづくもので、フォースターには最初から「非西洋的な知」というものが見えていて、そもそも「知」と「性」とを分断していなかったように思うのだ。
かつて『ハワーズ・エンド』(集英社)を読んだとき、フォースターの作品の描写や文体には、ほとんどどぎまぎするような箇所がないという、なんだか裏切られたような感触をもったことがあった。
淡々としているというと誤解されそうだから、あえて比喩的に言うけれど、なんというのか、熱力学的平衡を僅かに破ってみせるというような、描写を丸出しにしないのにそこから少しだけ破れ目が見えるというような、そんなZEST(熱中)をもって綴っているのにそれを羞恥しているような、そういう書きっぷりなのである。登場人物たちもめったに過激なことを言わないし、謎めいた言葉をのこさない。
のちにほかの作品も読んでみると、だいたいそうなっていた。小説技法からいえば目立った出来事や過激な発言をあれこれ適当に入れておいたほうがずっとラクなのに、それをしない。もどかしいといえばまさにもどかしいのだが、ところがふと気がつくと、何でもなそうな場面にも実はいくつもの象徴が含まれていて、われわれは「象徴の回遊」をさせられていたのだということに思いあたるのだ。そしてそのあげく、そのようにフォースターが仕組んだ「知」の巡礼体験だけが大きく残響しつづけるというふうになるわけなのである。
フォースターが好きになるのは(そして偉大なのは)、ここなのだ。これこそはフォースターの「象徴の回遊」のための橋の架け方というもので、いわば「シンボリック・ストーリー」の手法というものだった。
さきほどから例に出している『ハワーズ・エンド』という作品は、一九一〇年に書かれた。『インドへの道』に先立つこと十四年の作品で、これによってフォースターは作家としての地位を固めて、いくつかの短篇や紀行文、それに『モーリス』を書き上げ、そのあと十年にわたり書き継いだ『インドへの道』を発表した。『ハワーズ・エンド』はターニング・ポイントに立つ作品になる。
物語は、ヘンリー・ウィルコックス父子とシュレーゲル姉妹の静かな葛藤を描いたもので、筋書きはそれだけ。たいした事件はおこらない。
目立った事件はおこらないからといっても、状態はある。それがハワーズ・エンド邸であり、楡の木であり、ウィルコックス夫人の秘められた意志であって、ひたすら鳴り響くベートーヴェンの交響曲なのである。ただしこれらはことごとく“非雄弁”というものなのだ。無言でも沈黙でもなく、そこに現れるべくして現れ、消えるべくして消える「状態の寛容」なのだ。そういう状態がじりじりと深まっていく様子をひたすら綴ろうというのが、フォースターなのだ。
こういう作品からブンガク批評は「柔らかなシニシズム」などを受けとりがちなのだが、ここにあるのはむしろ「プロポーション」と、その僅かな破れなのである。均衡と比例と平衡感覚が曳航されながら少しずつ崩れ、しかも保存されていく。その様子なのである。
それは言葉の風景によるプロポーションなのだから、もともと微妙にゆらいでいる。そのため、ちょっとしたことでこちらも平衡を失うような心境になる。いや、必ずそうなる。よく出来た少女マンガや江國香織や川上弘美が感じさせるものに近い。フォースターの作品がもっているのは、そういうフラジャイルなプロポーションだった。
こういうふうに書いてきても、さて、これが何かの説明になったのか、あいかわらずたいへんおぼつかない(まあ、そういうふうに今夜は千夜千冊しているのだが)。とりあえずのフォースターの入口くらいは見えてきたというふうにしてほしい。が、念のため、もう一つ、二つ、ぼくが気がついてきたことを加えておく。それはフォースターにおける「マナー」と「リベラルアーツ」ということだ。
マナーとは、作法とか所作事とか習慣のこと、もともとは「手」を意味するラテン語の「マヌス」から派生した。そのマヌスを使って生まれたものがマナーであり、マニュアルであり、マニエリスムであってマネージャーであり、マニフェストだ。きっとフォースターは、そのマナーの管轄と価値観を作品に織りこんだはずなのである。
このことは、フォースターの一九〇五年の最初の長編『天使も踏むを恐れるところ』(白水Uブックス)にすでにしてちりばめられていた。天使が二の足を踏むような状況を選び、そこに登場人物たちの戸惑いを綴りながら、そのうえで深く描きたかったのは、人々にひそんでいた「マヌスの力」というものだった。
もう一つのリベラルアーツとはむろん「教養」ということだけれど、フォースターの好きなリベラルアーツは、「こちら側にある教養」と「むこう側にある教養」とが出会って、なにかのぐあいで衝突し、そして捩れていくところに発生する。
その「こちら」とか「むこう」というのは、あえて断定するのなら「こちら側」とはやっぱり西洋であって、キリスト教なのだ。「むこう側」はフォースターにとっては東洋だった。フォースターがそれは東洋であろうと確定するのは、評者たちも言ってきたようにアレキサンドリアやインドに行ってからのことかもしれないが、それ以前にすでに、「こちら側の教養」というものが、金や贅沢や儲けにまみれながらも、それを強引に道徳で糊塗しておおげさな楼閣にしたものだということが、はっきり見えていた。それに対して「むこう」にはきっと「むこう側の教養」というものがあるはずだと確信していたにちがいない。
この直観は、きっと小さなころに掴んでいたのだろう。そして、これこそが二十世紀文学の「フォースターの知」の最初の綴り方になったのではないかと、ぼくは思っている。ブルームズベリーの“モーリスの青春実験”とはそのことだった。
ふつう、そういう「むこう」は鏡台や町はずれやサーカス小屋や、せいぜい近くの山のような大きさのものであることが多い。けれどもフォースターは、物語のなかではその光景を見えないほどの巨きさにした。これがフォースターの拡張景色型のリベラルアーツなのである。それは、西洋から見放されていても、あたかも宇宙のリズムや世界に寄せては返す波のような、何か根源的なものがいまなお残響しているだろうようなものだった。
ということで、話はようやっと本題に入ることになる。以上の、仮に名付けた「シンボリック・ストーリー」「プロポーション」「マナー」「リベラルアーツ」といったものの組み合わせを、ついに全面展開させたのが、『インドへの道』だった。
フォースターが最初のインド旅行をしたのは一九一二年である。当時のインドはイギリスの植民地だった。ヴィクトリア女王がインド皇帝になったのが一八七七年だから、イギリスによる支配はすでに三十年以上にわたっていた。ガンジーやネルーが立ち上がるのは、まだまだ先のこと、インドに栄えていたのはコロニアル・カルチャー(植民地文化)ばかりで、そこにはヨーロッパにない有象無象のものが悠然とのたうっていたと、フォースターには感じられた。
そのうちヨーロッパは世界大戦に突入する。西洋知識人を困惑させたこの戦争が、何を痛切にもたらしたかはもはや言うまでもない。トーマス・マンもヴァレリーも、D・H・ロレンスもオスヴァルト・シュペングラーも、心ある者ならひとしく「西洋の没落」を感じた。
カーキ色の制服を着たフォースター
一九二一年、二度目のインドに行く。それから三年、足掛けではたっぷり十年をかけて『インドへの道』を書き上げた。入念な仕上がりだ。ひとまずアメリカで大評判になるのだが、フォースターは「それは、アメリカ人がイギリスの失敗を知って勝手な優越感をもったにすぎない」と唾棄した。
アメリカ人によろこんでもらっても困るというのだ。むろんヨーロッパの良識派たちは眉をひそめた。『インドへの道』によって、ヨーロッパの良識が砕かれたように見えたからだ。
物語の梗概はこういうものだ。なるべくぶっきらぼうに説明することにしておくが、舞台はチャンドラポアという架空の町である。イギリス人の官僚たちが支配している小さな町で、そこへ若きアデラ・クウェステッドが、年老いたムア夫人に付き添われてやってくる。
ムア夫人は、アデラを息子のロニーのフィアンセにしたい。ロニーはすでにイギリス人居留地に住んでいた青年判事で、日々の仕事と生活に退屈しきっていた。夫人とアデラのほうはインドの未知の魅力に惹きこまれ、もっとインドを知りたいという気持ちになっていく。
これはロニーにとっては迷惑なことだった。すでにインドのひどいところも知っていたからだ。それでも象にでも乗せてやれば、二人の女たちはすぐに飽きてくるだろうとタカをくくっていた。けれどもムア夫人のほうはめげる様子もなく、周囲から「やめておきなさい」「危険です」と言われていたイスラム寺院にも足を踏み入れ、そこでイスラム教徒の青年医師アジズと知り合いになっていく。
アジズは、土地のイギリス人たちの高慢と偏見が大嫌いな青年である。イギリス嫌いなのだが、ムア夫人にだけは格別な優しさを感じる。二人は温かい心情をもちはじめ、その輪にアデラも加わっていった。
アジズはこの二人のイギリス女性を、もう少しインドに近づけたいと思うようになっていく。なんとかして「深いインド」を知らせたい。そこでマラバール洞窟への旅行を計画した。一行には、チャンドラポア大学のフィールディング教授とヒンドゥ教徒のゴドボレ教授も加わる予定だったが、二人は汽車に乗り遅れた。そこでやむなく従者たちを連れての洞窟観光が始まることになった。
インドのバラバール洞窟の入り口
洞窟に入ってみると狭くて深い異様な空間で、さすがのムア夫人も変な気分になっていく。そこは「深いインド」あるいは「本物のインド」なのである。夫人は失神しそうな自分を抑えるのがやっとのことだったので、みんなに迷惑をかけないようにと、洞窟を出ざるをえない。
洞窟の奥には、アジズとアデラと従者たちだけが入っていくことになった。けれどもアデラも、この「深いインド」にそれ以上の関心をもてない。それよりアデラはロニーとの婚約にいろいろ疑問をもっていたので、ついついアジズの結婚生活を詮索するような、偏見のまじった質問をする。これにアジズが傷ついた。ヨーロッパ人は教育あるインド人を見下しているのではないか。このあたり、フォースターのペンは潤々としてデリケートになっていく。「深さ」に対して繊細なのだ。
そこに、アデラが持参してきた双眼鏡の紐を誰かが引っ張って切ってしまったという、ちょっとした出来事がおこる。たいしたことではないし、従者たちのせいだったかもしれないのだが、アデラはアジズが自分に襲いかかろうとしたのだと思ってしまった。アデラは洞窟を出て、アジズが自分にこんなことをしたと、周囲に言いふらす。
一行がチャンドラポアの町に戻ってくるなり、アジズは逮捕され、告訴されることになった。イギリス人たちはこの処置に沸き立った。インド人たちは反英感情を高ぶらせた。裁判が近づくと、アジズの有罪は確定的になりそうだった。ムア夫人とフィールディングの二人は、こんな暴行未遂事件などありえないと感じていた。これはきっとアデラの幻覚なんだと判断していた。
あまりにアジズの無罪をみんなに主張したフィールディングは、イギリス人から爪はじきになっていく。ムア夫人のほうはロニーの面子や自己保身もあって、ついに本国に帰らされる。が、途中の船中で帰らぬ人となる。
こうしてアジズの裁判が大詰めにさしかかり、周囲はアジズを非難する興奮に包まれていく。そのさなかアデラの幻覚がぷつりと消えた。すべては幻覚だったのかもしれない。アデラは我に返って、告訴をとりさげる……。
プロットを縮めてしまえば、こんな物語なのである。ぶっきらぼうにしたせいもあって、奇妙で単純な話だと思うかもしれないが、これが読んでいくとそうとう深い。深いだけでなく、洞窟のように懐境が広い。つまりは、まさにプロポーションがゆっくりと裂けていくのが見えてくる。
原題の『インドへの道』の「道」は英語のロードではなくて、パセージ(パッサージュ)である。そのパセージが文明のパセージのように伝わってくる。植民地にのさばっている者と原郷に生きつづける者との対比や対立が、圧倒的なパセージとして立ち上がってくる。
この小説は第一部「回教寺院」、第二部「洞窟」、第三部「神殿」というふうになっているのだが、この構成はとんでもなく重大なゲニウス・ロキ(地霊)を三つに分けていたものだった。ゲニウス・ロキは土地がもっている「マナスの力」のことだ。
それは、イスラムとヒンドゥを異様な洞窟がつないでいるとも、死にゆくムア夫人と生き抜くアジズをフィールディングの孤立がつないでいるとも、フォースターの幼年と晩年をこの作品そのものがつないでいるともいえるような、そういう多重のパセージである。
ところで『インドへの道』はデヴィッド・リーンが一九八四年に映画化した。あの《アラビアのロレンス》の監督が十四年ぶりにメガホンをとったのだ。ぼくは岩波ホールに引きつけられるように見にいった。
ジュディ・デイヴィスとペギー・アシュクロフトの二人の女優がよく、西洋が眺めてきた異文化インドが叙情的にも劇的にも人間的にも映像化されていた。見ていて日本人のぼくにも名状しがたいものが沁みこんできた。日本人がアジアやインドを考えるのに、うってつけの映画なのである。
西と東の文明のプロポーションに僅かな亀裂が走っていくと、向こうのほうに理解を絶する「象徴の回遊」が見えてきて、そこから近代や現代が熟知していなかった「未知の知」ともいうべきものがあらわれてくる。そこをデヴィッド・リーンが、かつて「アラビア」を撮ったように「インド」であらわしてみせた。それはひょっとすると、オーソン・ウェルズやキューブリックがコンラッドの『闇の奥』(岩波文庫)で「アフリカ」を撮りたかったものに近かったかもしれない。
ついで一九九二年、アイヴォリー監督がエマ・トンプソンとアンソニー・ホプキンスを配して《ハワーズ・エンド》を映画化してみせた。《モーリス》以上のすばらしい仕上がりで、アカデミー主演女優賞・脚色賞・美術賞をとった。
こんなことを書くと、今夜のぼくのフォースター頌は、映画《モーリス》《インドへの道》《ハワーズ・エンド》の外に出られなかったままおわりそうなのだが、まあいいだろう。実のところぼくの周辺にはフォースターを語りあえる友がいなくて寂しく思ってきたので、せめて映画からでも共振者がふえていってほしいのだ。先だって池澤夏樹個人編集「世界文学全集」(河出書房新社)に『ハワーズ・エンド』がエディションされたのは、そういう事情からして快挙であった。
『モーリス』(扶桑社)は片岡しのぶさんの訳で、単行本で読めます。それから『ハワーズ・エンド』(集英社)は上にも書いた吉田健一訳が単行本になりました。池澤夏樹がかんたんな解説を書いていますね。そのほか研究所や評伝もいくつかあって、ぼくがもっているのは小野寺健の『E・M・フォースターの姿勢』(みすず書房)、ライオネル・トリリングの『E・M・フォースター』(みすず書房)、阿部義雄の『E・M・フォースター研究』(成美堂)くらいですが、近藤いね子編『フォースター』(研究社)、長崎勇一『E・M・フォースター』(英潮社)、岡村直美『フォースターの小説』(八潮出版社)などもあるようです。 まあ、読んでみてください。最後に付け加えておけば、このフォースターのちょっと前に、ジョーゼフ・コンラッドの『闇の奥』(1070夜)が書かれているんですよ。