市橋芳則
キャラメルの値段
河出書房新社 2002
ISBN:4309727212

 名神小牧インターから名古屋高速に入ってしばらくすると師勝町(現在は北名古屋市)があって、歴史民俗資料館がある。別名「昭和日常博物館」といわれるほど、昭和の戦後社会を日用品で埋め尽くして懐かしい。
 その資料館の学芸員である市橋芳則さんが本書の著者で、前著が『昭和路地裏大博覧会』(河出書房新社)、本書が『キャラメルの値段』、ほかに『昭和夏休み大全』(河出書房新社)がある。資料館に立ち寄ったときも目が子供時代の日光写真に舞い戻ってくらくらしたが、この三冊ともに実にうまい編集をしていて、何度でも目をとめて覗けるため、ぼくの時計の針はさらに戻ったままになる。
 アートディレクターが写真をセピア調色ではなく、かなり赤く仕上げたのが絶好だった。あるいは資料館のライティングをそのまま撮影で生かしたのか。どちらにしてもこの赤すぎるカラー写真は、リヤカーやホーロー看板や貧しい茶の間を今日に映し伝えるに、まことに上々だった。

 ぼくは昭和十九年の一月生まれだから、昭和三十年が十一歳である。京都は下京の新町松原の修徳小学校にいた。本書にあるように、この昭和三十年代はまだ十円で買えるものがいっぱいあった。
 学校が終わると、校門の前ではたいてい変なおっさんが怪しげなものを売っていた。針金細工の鉄砲、ハッカのパイプ、粘土を入れて金をまぶして型をとると大判小判になるおもちゃ、安物の洋雑誌、竹ヒゴ模型、グロテスクな指人形、原色の袋の印刷が本物くさくない花火たち――。それらが十円だったかどうかはすっかり忘れたが、いや何も買わずにずうっと見ていただけなので値段は知らなかったのだが、おっさんの口上に酔って、似たものを家に戻ってつくろうとしては失敗していた。はっきりしているのは、あのおっさんこそは子供専門のフーテンの寅さんだったということだ。
 学校からの帰りは市電に乗った。烏丸松原からチンチン電車で烏丸二条の電停まで、そこで降りると二条通りの漢方薬屋の町並みを抜け、東洞院を下がって押小路に出る。荷台の大きい自転車、オート三輪、べったりしたスクーターがゆっくり走っていた。向こうからプープーとゴム喇叭を鳴らしてくるのが自転車リヤカーの豆腐屋だ。
 家に行き着く前に、高倉通りに入ったところに駄菓子屋がある。ここで買ってはいけませんと言われていた駄菓子屋だが、ほとんど毎日そこで足を止め、一ヵ月に一回くらいは禁を犯してアイキャン(アイスキャンデー)やらフーキャン(風船キャンデー)やら大きなポンポンせんべいを買った。十円もしなかった。
 
 西岸良平の『三丁目の夕日』というマンガがあって、たしか昭和四五年以降のマンガ誌に連載されたのだと思ったが、しきりに昭和三十年代の日本の横町の生活を描いていた。滝田ゆうほど下町主義ではなく、つげ義春ほど反社会な問題意識もなく、ただ自分が暮らした日々をそのまま描いていて、ぼくはこれを読むのが好きだった。
 自分の子供時代の近所は懐かしい。町がレトロに想い出せるからではない。何もかも小さくて、ごちゃごちゃとして、それでいて銭湯のおやじも町工場の兄さんもパン屋のおばさんも、町の藪医者も小さな神社の神主も、みんなそれぞれがいっぱしだったのだ。モノとコトとヒトとが同寸だったのである。
 それが五十年ほどで、すっかり変わった。ただひたすらに高度成長と安定成長とバブルを続けてきたせいで、中間個性ばかりを求める小じゃれた生活感覚と、どこでも同じパスタが食いたいなどという都市感覚のつまらぬ癒着によって、大事なものを次々に捨ててきたようにしか思えない。
 その大事なものが何なのかといえば、これがわかりにくいから捨てたのである。リヤカーやオート三輪や赤い郵便ポストが大事だというのではない。
 そのようなものから変なおっさんの口上まで、夕方を知らせる豆腐屋から禁じられた駄菓子を口にしたい好奇心まで、あんまりきれいなので捨てられないチョコレートの銀紙からその家が捨てたゴミをバタ屋さんがきて丁寧に縛って積んでいく仕草まで、それらが互いに妙に連なりあって辛うじて支えあっていた「わずかな近所」と「ちょっとした始末」と「誰かにられるかもしれない快楽」とが、なくなったのだ。モノとコトとヒトとの同寸の状態がなくなったのだ。
 
 本書に登場する日用品にはたいしたものはない。相場を相対的に平均すれば必ずしも安くない。それでも食パンや渡辺のジュースの素や電車賃がすこしでも上がれば、それで十分に会話が成り立っていた。
 われわれは昭和三十年代の「キャラメルの値段」を失ったのではない。われわれはもっと重要な「菫色の選択力」を失ったのだ。
 いったいいつから何を失ったのか、はっきり言えないが、おそらくは昭和三四年(一九五九)に尺貫法を廃止したときに、その後の歯止めの基盤を失ったのだ。皇太子と美智子さまの結婚の年である。ゴダールが《勝手にしやがれ》を撮り、ウィリアム・バロウズが『裸のランチ』を発表した年、「週刊現代」「週刊文春」「少年マガジン」「少年サンデー」が一緒に出た年、天覧試合で長嶋がサヨナラホームランを打った年だ。いま、美智子さまの正田邸が壊されるというので人々がそれを見に行き、いま長嶋が「やっぱりぼくの野球の原点はあの、いわゆる天覧試合の、ひとつのサヨナラホームランですね」と言い切るこの年が、どうやら黄昏の昭和というものなのだ。

 もちろん、そこから先でも歯止めを試みる機会はいくらもあった。ごくごく象徴的に言うことにするが、ひとつは昭和四六年(一九七一)のドルショックとスミソニアン体制への移行の時である。このとき円が初めて三六〇円から三〇八円に動いた。せっかくプリゴジンが『構造・安定性・ゆらぎ』(みすず書房)を書いたのに。ぼくが「遊」を創刊した年だったのに。
 もうひとつは、ロッキード事件と毛沢東が死んで四人組が逮捕された昭和五一年やCNNが放送を開始して『なんとなく、クリスタル』と「フォーカス」が出版された昭和五五〜六年あたりがあやしいが、もっと端的にはゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任して日本にエイズが到達した昭和六十年(一九八五)ではあるまいか。筑波万博が開かれ、テレビというテレビが「やらせ」に走り、パック・ジャーナリズムが大手を振った時期である。このあと日本はただただ傲慢になっていくばかり。「経済大国」や「生活大国」なんて、まったくふざけたスローガンだった。

 なぜこんなことになったかといえば、「恐いもの」を除去し、摘発し、封じこめすぎたのである。それまでは町に不良やチンピラがいて、そういう場所はびくびくして歩いていた。通りにはなんちゃっておじさんもいたし、ときどきヤクザの兄ちゃんが尖った革靴で肩で風を切って歩いていた。自動車は汚れていたし、ゴミも散らかっていたし、煙草の吸殻も落ちていた。
 そういうものが一掃されたのである。「恐いもの」「汚いもの」「危ないもの」が一掃されたのだ。代わりに何が浮上してきたかといえば、「安全」と「安心」がキャッチフレーズになった。通りの街灯が明るくなって、やがて監視カメラが付いた。食べてもらっては困るものを母親が注意しなくとも、成分でも賞味期限でも数字にあらわした。ついでに教師は手を上げることができず、父親はわが子をらない。上司は部下を罵倒しなくなった。これではどこにも歯止めはおこらない。
 おまけにすべての歯止めの準備と計画は政府と官僚にまかせているのだから、その計画に対する文句は自分にも家にも学校にも会社にも戻らない。それで「自分探し」もないものだ。「国を憂う」もないものだ。こんな衛生無害な町と家と学校と仕事場では、そんなところで探した「自分」や「日本」など、おもしろかろうはずがない。
 時代のなかでの「恐いもの」「汚いもの」「危ないもの」とは何か。自分や国家にとっての壊れやすさを感じるものが、周辺や近所に目に見えて去来しているということである。それを一掃しようと思ってはいけない。オウム真理教や阪神大震災のような膨らみすぎた恐怖がくるまで、「恐いもの」がないわけではない。いつだって、ちょっとしたところに何かの変調はおこるのだ。その変調は排除の対象とはかぎらない。キャラメルがどうしてもほしかったころの、あの価値とは何だったのだろうかということ、その具合に出入りしてみるということである。

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