才事記

レンズ汎神論

飯田鉄

日本カメラ社 2002

 この人の写真が好きだった。好きになったのは『遊』をつくっていたころで、もう25年ほど前からのことになる。そのころはモノクロームの写真ばかり見ていたが、その静謐なプリントを手にしていると心が鎮まった。
 それから「日本カメラ」を見るたびにこの人の写真をちらちら見てきた。久しぶりに会いたいな。見るたびにそう思ったが、会わずじまいになっていた。そのうちポンカメ(写真誌「日本カメラ」のことをギョーカイではこう呼んでいる)に「レンズ汎神論」が連載された。
 1年ほどたって見たら、まだ続いていた。2年目、3年目、まだ続いている。毎月ポンカメを見ているわけではないので、これはさしずめ『ガラスの仮面』かちばてつやの『プレイボール』か高橋留美子の『めぞん一刻』並の連載だなと思っていたのだが、さらに4年目も、5年目も続いていたので、さすがに本屋で立ち読みするたびに畏敬さえおぼえた。
 本書はその連載がやっと一冊にまとまった成果である。あらためて通して読んだ。カメラにズブの素人のぼくが読んでも、なんだか有り難い気分になれた。

 最初にパンケーキレンズと魚眼レンズが出てくる。パンケーキレンズは扁平一眼レフ用レンズのことで、こんなニックネームをつけたのはアメリカ人である。かつてリチャード・アベドンが工作舎に遊びにきたときに、その話を聞いたことがある。
 魚眼レンズでは全天周レンズが採り上げられている。対角線レンズはフレームを四角に区切って擬似パノラマが撮れるようにしているが、全天周はまるごと世界を吸収してくれる。これがパルミジャニーノ感覚とでもいうもので、かつて北代省三さんにその蘊蓄を聞かされた。本書にも書かれていたが、甲南カメラ研究所が球形フラスコでその原理をシミュレーションしたものだった。
 さあ、こんな調子でカメラ・レンズの数々が変わった順序で登場してくるのだが、そのたびにそのレンズ付カメラの物体写真とそのレンズで著者が撮影したカラー写真が掲載されて、文章を読みつつこれらを見比べて、また次に進むというふうになる。2800円の定価の本なのに、ほとんどひっきりなしに2枚のカラー写真と、加うるにそのカメラのレンズ構造の模式図とが提供されていて、これではポンカメ(本書の発行元も日本カメラ社)は損をするのではないかと思った。

 著者は撮影レンズの性格はピントの合ったところよりも、かえってピントのはずれたところで見えてくるという。
 これは納得がいく。パンフォーカスの写真はシャープはあるが、よほど写真家の腕がよく、かつ被写体として選んだ光景がよくないと退屈である。逆にデフォーカスの写真はそれだけでちょっとファンタジックに見えたりするだけに、写真家はより以上に注意しなければならない。つまりよけいなボケが出てくるので、計算がさらに必要になる。このときレンズのもつ性格が浮上する。1970年、フォトキナで発表されたミノルタのロッコールHH100ミリT5.6というレンズは、世界で初めてデフォーカスをコントロールした試みのレンズだった。ピントのこないところの像をどのようにまとめるかという設計だったのである。
 われわれの視像というものは、全ピンにはできてはいない。つねにソフトフォーカスの視像が動的に含まれている。また定位性にも弱い。つねにフラクチェートする。だいたいわれわれの目は2つのレンズで平行視をしているわけである。これをカメラ・レンズは別のメカニズムで定着的に再生しようとする。いや正確な再生ではない。写真という別世界で“再生的なるもの”をつくっていく。この“再生的なるもの”をどこで決着させるかということが、写真の一番おもしろいところなのだ。
 しかし、どのように擬似再生するかということによって、ここで遠近の変化や被写界深度というものが問題になる。われわれは動きながら対象を見ているので、遠近感や深度感は動的に情報処理する
ようになっているのだが、写真はそのうちのたった一面だけを瞬間的に取り出すわけだから、その一瞬の切り取りの中には意外な遠近と深度が露呈されてくる。それをどのように見極めて写真にするかが、写真家の真骨頂の選択になる。
 一焦点と多焦点と軟焦点と無焦点。
 それらが一枚の写真には複雑にあらわれてくるわけなのである。しかもレンズによっては、その一焦点にすら硬いものと柔らかいものが見えてくる。なんともものすごい別世界であることだ。
 ところが、最近はソフトフォーカス・レンズというものがたくさんできていて、誰もがミルキーな写真が撮れるようになった。これがいかにもだらけたものになる。あれはいけません。ソフトとは名ばかりで、むしろ“再生的なるもの”が最初からハードに固定されてしまうのだ。

 本書の標題『レンズ汎神論』は、著者がレンズ・フェティシズムに傾倒したのかとおもわせるものを香らせているが、読んでいくとそんな物神力はあまり発揮されてはいない。あくまで「部品としてのレンズ」を凝視しようとしていて、心地よい。
 しかし、レンズに対してフェティッシュがまったくないのかといえば、そんなことはない。本書に登場する、たとえばフジナーW15センチF6.3レンズ、マクロ・スイター、虫メガネ、デュアルレンジ・ズミクロン、ミノルタオートコード用ロッコール75ミリF3.5レンズ、ビオゴン38ミリF4.5レンズ、メニスカスの一枚玉、オリンパスOMのズイコー200ミリF5レンズ、マミヤセコール交換レンズ群、ベルチオ製35ミリレンズ、SMCペンタックスA645マクロ120ミリF4レンズなどには、ぼくの勝手な憶測だろうものの、ちょっぴり著者のレンズ・フェティッシュが窺えて、キンキンとした気分にさせられた。
 とかなんとか他人のことを持ち出しているが、実はかくいうぼく自身が少年期以来のレンズ・フェティッシュだったのである。呉服屋に育ったぼくにとって反物を巻くためのボール紙の筒は事欠かない。問題はレンズで、小学生・中学生のころはどこかが欠けて疵が
いっぱいついたレンズを夜店で買ってきて、これをボール筒になんとか貼り付けて、近くの別世界をボーッと眺めたものだった。
 その懐かしきフェティッシュ感覚の一端については、かつて『自然学曼陀羅』(工作舎)に書いた。滋賀県のレンズ磨きの名人・木部成麿さんを訪ねてしまったほどなのだ。

 それにしても本書を読んでみて、レンズにはいろいろなキャラクターがあるのだということがよくわかった。
 本書にも、円満なレンズ、優雅なレンズ、罠のあるレンズ、危険なレンズ、地味なレンズ(ミランダ)、複雑なレンズ、気張らないレンズ、グラマーなレンズ(ロッコール)、アナーキーなレンズ、身軽なレンズ、粋なレンズ、鮮鋭なレンズ、きわどいレンズ(ベルテレ設計のレンズ)、シビアなレンズというふうに、いろいろの表現がつかわれている。なかには、あがた森魚の音楽にあうレンズなどというものもある。
 レンズ。こいつやはり只者じゃない。しかし全部が全部、神様というわけでもない。では神様など関係がないかというと、そうでもない。ときに神様がさあっと走り抜けることがあるという代物たちなのである。