父の先見
東ゴート興亡史
白水社 1994
これを書いている今夜も、1ヵ月前から開始されたアメリカによるアフガニスタン空爆が容赦なく続いている。このぶんではラマダーンに入っても執拗な空爆はやまないだろうし、アフガン難民のパキスタン流出もさらに波状化していくだろう。
アフガニスタンはどうなってしまうのか。かつてはソ連の暴力的な侵攻を、8年にわたってムジャヒディンたちが耐えつづけたのに、いまではかれらが攻撃にさらされている。ぼくはこうした軍事攻撃のニュースをテレビの画面で遠くから見ているだけのことであるが、さすがに数年後のアフガニスタンがどんな状態になっているのかを予想せざるをえない。そのうち歴史の非情はたえずこうして国土を荒らし、不幸な民族を分断させ、新たな支配者や新たな分割者によってその姿を不断に作り替えていくのかという“定め“めいたものさえ感じられてくるにちがいない。それが、しばらくすると物部氏や北条氏の宿命のようにも見えてくるにちがいない。
本書の著者の松谷さんも、民族の宿命や国家の運命というものに深い関心があるようで、すでに発表された『カルタゴ興亡史』や『ヴァンダル興亡史』(ともに中公文庫)でも、歴史のなかで何がおこって、何がおこらなかったかということを直截に書いている。松谷さんは、すぐれた翻訳家でもあって、『エッダ』(平凡社)やレマルクの『リスボンの夜』(早川書房)を訳しているときすでに、そのカーソルが疼いていたのだろう。
いま、アメリカと中東とのあいだで何がおこっていて、何がおこっていないのか。日本はそのおこっているほうに加担するのか、おこっていないことに参画しているのか、この問いに答えるには日本の歴史的現在性というものを見る必要がある。それには歴史のなかの任意の現象を現在化する必要がある。
建国後たった数十年で滅ぼされてしまった東ゴート王国という歴史――。いわゆるゲルマン民族の大移動のなかで蜃気楼のように立ち現れて、そして泡沫のように消えていった民族王国――。本書はこうしたはかない歴史を扱った。しかし、歴史の動向は最初から蜃気楼などめざしてはいなかった。
あのころ、東ゴート王国だけが勃興して滅亡したわけではなかった。スエヴィ王国も西ゴート王国もゲピデ王国もランゴバルド王国も短期間でなくなってしまったし、サクソン族やノルマン族やバルト諸族は王国も築けず、さまよっていた。
うまく国土をせしめて居直った国もあった。今日のフランスの原型をつくったフランク族は、ライン左岸とローマの属州ガリアに侵入して、かつてはカエサルが征服した地の多数のケルト人やローマ植民者にのしかかり、少数者が支配するフランク王国を築いている。東ローマ帝国の軍事力ならこのフランクの簒奪を撃破することもできたはずだろうが、そうはしなかった。フランクの拠点のパリに大軍を進めるには、アルプスを越えなくてはならなかったからである。
こんなことは現代の戦争ではまったく関係のないことかと、ぼくは思っていた。アルプス越えの困難など、ナポレオンの戦争でとっくに終わっていたのかと思っていた。少なくとも今日のミサイル時代では。けれどもアフガニスタンの山岳に散在遊走するタリバンに手こずるアメリカを見ていると、地勢と民族との深い関係はいまなお世界一の軍事力をも苦しめるのかと、そこに気がついた。
本書の内容を少しかいつまんでおくのは、なんだか今日のアメリカの軍事力やタリバンの抵抗がかかえる無謀を諫めるようで、どこか示唆的に思われたのである。
紀元前1世紀、スカンディナヴィアと北部ヨーロッパの気候が冷えた。そのため、それ以前にそれらの地に住んでいたゲルマン人たちが温暖を求めて動き出す。武装難民の群れだった。その武装難民の一族にゴート人がいた。
かれらはバルト海を渡ることを決断し、いまはポーランドに入るダンツィヒ(グダニスク)に上陸した。ここはかつての「ゲルマニアの地」である。このときそこにいたヴァンダル族が蹴散らされ、のちのことになるけれど、なんとアフリカにまで渡って王国を築き、そして短い栄華を終えた。ヴァンダル王国だ。
ゴート人の武装難民のほうは南東に進み、ドニエプルの大河に着くとキエフを都として定着させて、南ロシアを版図とする王国をつくった。この前後でゴートは東ゴートと西ゴートに分かれ、それぞれが勢力を伸ばした。東ローマ帝国のコンスタンティヌス大帝はあわてて西ゴートと協定を結び、手なずけようとした。ところが、そこに時ならぬ大事件がおこる。
遊牧民フン族がおそらくは北東の大草原の寒冷化のためであろう、大挙して南下すると、ゴート人を追い散らしたのだ。フン同盟の族長はアッティラである。北東同盟軍ともいうべきを束ねている。アッティラの獰猛な指導のもと、フン同盟軍はヨーロッパを荒らしまわった。
やむなく東ゴートも南下する。西ゴートがアフリカまで行ったのにくらべれば持ちこたえたほうだが、それは東ゴートの新たな英雄テオドリックの軍事力によっていた。やがてアッティラのフン勢力が衰退すると、ここに東ゴートが復活してきた。
こうしてテオドリックの時代がくるのだが、それはあいかわらず戦乱と周辺有事だけが打ちつづく時代であった。この事情は周辺の“外国”にとっても同じことで、隣りあう西ローマと東ローマが東ゴートの挙動を警戒し、経済封鎖をしたり貢物交易を押しつけたり、辺境警護の“防人”としての地位を与えて懐柔に出たりした。アメリカがアフガンに経済制裁をし、ムジャヒディンに対ソ連の義勇軍としての地位を承認したのとほぼ似ていよう。
しかしテオドリックは撹乱されなかった。イタリアに複合軍を進め、ゴート人の安住の地づくりに乗り出していく。傭兵を集めたイタリア王オドアケルと激しく戦い、これを殺し、西ローマを圧迫して、ついにイタリア全土を支配下に収めた。これが歴史に名を残した東ゴート王国である。
けれどもテオドリックの王国は安定しなかった。東ローマ皇帝アナスタシウスはなかなか屈しなかったし(アフガニスタンに対するパキスタンのように)、すでに勃興しつつあったフランクの軍事力とも対抗しなければならなかった(ちょうどアフガニスタンがNATO軍にも対応しなければならないように)。それからまもなく東ゴート王国は東ローマ帝国(ビザンティン)によって滅ぼされることになる。493年にテオドリックが東ローマ皇帝によってイタリア王として認められてからわずか六十年ちょっと、一人の人生の消息すら感じさせて、ひとつの王国はあっけなく壊滅した。おもえば、北海から地中海におよんだ巨大旅団の死のようなものだった。
いったい民族国家というものは何なのだろうかと思う。エスニック・ステートはどこでネーション・ステートになるのだろうか。民族が国をつくろうとするのはあたりまえのことであるはずなのに、なぜ滅ぶのか。
東ゴートの60年間の短命な盛衰を見ていると、こんな小さな民族の動向でも、それが過熱したとたんに周辺のありとあらゆる民族や王国との摩擦が大きく振幅しておこることが、よくわかる。「強さ」というものが周辺に極端な不安をもたらし、そこに相対的な安定をさぐる試みがまさに現代政治とまったく同様におこり、しかしそのいくつかが首尾よく進まないと、それらの相対しあう民族や王国はたちまちにして戦乱に巻きこまれることになってしまうのである。そしていつしか滅亡がくる。
これは宿命というものなのだろうか。宿命だとしたら、それは民族の宿命なのか、国家の宿命なのか。それとも歴史というものの「掟」なのか。いろいろ考えさせる。しかし民族の王国が滅亡しても、なかなか消滅しないものもある。ゴート人の生き方や在り方というものは、民族国家の消滅によってなくなるわけではなかった。
東ゴート王国の出来事でいうならば、ボエティウスの『哲学の慰め』(岩波文庫・筑摩書房「世界古典文学全集」26)もカッシオドルスの文治政策も、ゴート語訳の聖書も残った。カッシオドルスがいなければ、ヨーロッパはベネディクトゥスに始まる修道院文化をつくれなかっただろうし、あの写本室スクリプトリウムを生むこともなかったのである。仮にそういう文字による直接の影響が伝わらなかったとしても、時代をおいて、ゴート人の在り方は何度も蘇ったともいえる。それが中世ヨーロッパを覆った「ゴシック様式」というものだ。ゴシックとは「ゴート人らしさ」という意味である。
ゴートは死してゴシックを残した。けれども王国が滅び、民族が四散して、そのモード(様式)とプラウジビリティ(らしさ)だけが蘇りつづけるというのは、なんとも無常を感じることである。