父の先見
二重らせんの私
早川書房 1995
二つのことだけ、少しくらいは関係があった。
ひとつは学生時代、本郷の「いわしや」という実験器具屋にときどき通っていたことである。著者も大学時代やアメリカから帰ってのちの時期、ここで実験器具を揃えて自分が向かいやすい実験室づくりをしたようだ。
もうひとつはコロンビア大学の東洋研究室を訪れたとき、図書館にも案内されたとき、そこから少し行くと噴水があって、その右手にアルマ・マターの女神像があった。頭に月桂冠を戴き、両手をあげて腰掛けている。
顔も衣もまことに美しいのだが、ぼくはその膝元に大きな書物が広げられていることに、なんだか胸つまるものを感じていた。日本の大学にこういう像はない。ところが案内者はもっと驚くことを言った。「足元の衣の中を覗いてみなさい」というのだ。
女神の足元の衣の奥を覗くなんて大それたことだとおもったが、いそいそとアルマ・マターのスカートの中を覗いてみると、そこになんとフクロウがいた。ミネルヴァの梟である。ぼくは、あっと声をあげた。
著者はお茶の水女子大の3年のときにコロンビア大学の遺伝学研究生と婚約し、卒業と同時にニューヨークにわたってコロンビアの大学院に行っている。アルマ・マターの女神にいつも何かを勇気づけられていたようだ。ついでに余談だが、コロンビア大学は映画『いちご白書』の舞台であった。
本書は、一人の生命科学者が研究に向かっていく姿を青春期を中心に淡々とのべた半生伝である。日本エッセイストクラブ賞をとっただけあって、むろん読ませる。
むろん読ませるが、すでに『卵が私になるまで』や『お母さんが話してくれた生命の歴史』で、ぼくなりにその考察力、説得力、文章力には敬意を払っていたので、どちらかというと胸襟をひらくというか、ひざまずくというか、そんな気持ちで読んだ憶えがある。
著者が病に倒れて研究生活を断念し、文章のみで生命の科学の何たるかを伝えつつあったこと、その著者が初めて自分の生い立ちをふりかえったということを、ある程度は知っていたからでもあった。
本書は生命を探求した科学者たちの研究心の流れのほうを次々に描いていて、著者本人のエピソードは極力抑えてあった。それでも、その混ぜ方がさすがに実験の名手だったせいか絶妙で、読者はついつい生命科学の歴史と最前線を教えられ、かつ著者の勇ましくも慎ましい魅力に包まれるようになっていく。この啓蒙力たるや並大抵のものではない。
著者のお父さんは植物学者で、著者が4歳のときに旧制松山高校に赴任した。
7歳のときに原爆が広島に落ちて、戦争が終わった。その年のサンタクロースは枕元の靴下の中に『トゲのないサボテン』を入れてくれた。育種家バーバンクの自伝である。
こういうお父さんをもてば、なるほど娘は生物学者にもなれただろうにとおもうのは、「そいつはやっかみだよ」と言いたいところだが、実は、このお父さんにして、この娘あり、であったことは本書にたっぷり滲み出ている。
しかし、お父さんが娘に教えたことは生物学のことではなく、自然にかかわろうとする人間にリスペクト(敬意)をもつということ、もっと広くいえば挑戦する人間に、強いリスペクトをもつということだった。このお父さんの教えを彼女はどんなときにも絶やさなかった。
そこで感じたことがある。
本書は、彼女が科学者になっていくプロセスを丹念に追いかけつつ、そこに生命科学の冒険をまことに適確な順で挿入していくという叙述になっているのだが、そのつど感心するのは出てくる科学者たちについて、言葉はけっして多くはないのに、まるで立体裁断をしたかのような称賛の衣裳がエレガントに次々に着せられているということである。
だから、本書を読むのはほんとうに気持ちがいいものだった。ひざまずくというより、ケイコさんと一緒に読めた。
さいわい、ぼくには本書で述べられている生命科学の成果の大半は理解できていたけれど、彼女が着せる衣裳の色や柄は、それでもついつい見とれるものになっていたのである。
著者がお茶の水の授業に失望していたときに出会ったのは、紀伊国屋書店で見つけたブラウンの『細菌学』だったようだ。これを一晩で読んで目標が見えた。
ブラウンはその本のなかでシュレディンガーやデルブリュックを解説していて、細菌を貪り食うバクテリオ・ファージの正体をつきとめたプロセスを追っていたが、著者の目が釘付けられたのはペニシリンに対する抵抗性の実験だったようだ。抵抗比が1、2、3、4というように整数比で上昇することに驚いたのだ。
こうして最初の実験が組み立てられた。大腸菌を相手の実験で、これが卒業論文にもなった。
大学を出ると、彼女は日本を離れた。結婚相手のタケシを追ってコロンビア大学のライアン教授の研究室に入ったのは1960年である。
研究室は全部で18人、うち4人が日本人で、その全員が大腸菌の突然変異を課題にしていた。アメリカの学生はケネディとニクソンの選挙に対して、一人一人が「ケネディに投票しよう」といったバッジをつけるようなとろがあって、そういうアメリカ人にまじって勉強をするのは気の抜けない日々だったが、著者もしだいに自己主張をするようになっていく。
ただし、自己主張だけでは誰も評価はしない。アメリカではそんなことは誰もがしていることであるからだ。
日本人が本書で知るとよいのは、アメリカの大学のものすごさと競争ぶりであるが、そこでは競争に勝つことが使命づけられているとともに、つねにリーダーシップが求められていることである。こういうところは、アメリカにあって日本に欠けている。
かくて彼女はコロンビア大学で鍛えられて、筋金入りの生命科学者としての訓練をうけていく。
ところが他方、彼女はコロンビアでの日々を送るにつれて、しきりに望郷の念を抱いている。こんなふうに書いている。
「私は日本を離れ、いろいろな民族の中で暮らしてみてはじめて自分が日本人であることを強く意識した。いったいこれはなぜなのであろうか。理性ではどうにも理解できない感情であった。
私のからだの中を流れる民族意識。世界の歴史の中でたくさんの民族が戦ってきた心がおぼろげながら理解できそうに思えた。抑圧されてはじめて民族意識が強く感じられるのではなかろうか。日本という島国はその点でも世界の歴史の中で特異な存在のように思われた」。
こういうところが、柳澤桂子が世界を自分の目や体で見ているというところなのだろう。
本書は、1960年代という世界の分子生物学が革命をおこしつつあった時代に研究期の青春を送った一人の生命科学者の、飾りのない体験記である。
そのため、いつDNAのATGCの配列が解読されたのか、ニューヨークにジャック・モノーが来て講演したときにどのような驚きがあったのか、イングラムの講義がいかに美しくうっとりするものであったのか、コロンビアのシャーガフにノーベル賞がこなかった事情、ニューヨークで開かれた分子生物学のシンポジウムでどこでルリアが手をあげて質問したのか、すべてのアミノ酸に対する遺伝暗号が解明されたときの驚きといった、そんな分子生物学界のビッグニュースに次々に立ち会っている光景が、あたかもニュース映画のように見えてくる。
ぼくの1960年代とはずいぶんちがう日々だが、そのころ古本屋で見つけたウォディントンを毎晩読みながら、一人で「アロステリックなスイッチのしくみ」を夢想したことがぼくにもあったことを思い出した。
それはジャック・モノーの『偶然と必然』を読む前のことだったが、ぼくはそのときに科学者の道を選択しなかった。訓練をしていなかったからだ。訓練というものは、できるときにやっておくものである。