父の先見
ある文人歴史家の軌跡
吉川弘文館 2000
最近、ぼくはこういう本をよく読む。こういう本というのは、なにがしかの人物が自分の人生のなにがしかの場面の一端を、気分にまかせて好きに喋っている本のことで、かつてなら冗長すぎてまったく関心をもてなかった。
むろんこういう本は時間が日だまりのようにあるときとか、8分音符よりも4分音符が長く感じられる気分のときじゃないと、読めない。それもレニ・リーフェンシュタールの人生を読むとか、佐藤愛子の一族の血脈を感じながら読むという本ではない。それでは重すぎる。それは別の時間に読む。
軽い本という意味でもない。軽い本は覗き見趣味で読むもので、これは別の食欲に属する。ここでこういう本といっているのは、酒肴の味がある本なのである。
西山さんには2度お目にかかったことがある。1度目は原稿依頼のとき、2度目は小日向にお詫びに伺ったときで、いずれも「遊」を編集していた時期だった。
2度目のときは茶杓を削っておられた。ぼくのスタッフの連絡ミスをくだくだ詫びていると、茶杓を削る手をほとんど休めずに、それはねえ、あなたが謝ることではなく当人の問題ですよ、ねえそうでしょうといったことをときどき口にする。ぼくは十徳姿で帳場のような定席に坐ったままの西山さんの手元をぼうっと見ながら、あまり話をしなくなっていた。
そうしたら、ふいにお茶でも入れますかと言って、一刻一服、そこから雑談がふわふわ広がった。なるほどこういう人なのかと、そのとき初めて合点した。
編集者には、人柄と暮らしぶりを知らずに原稿を頼んだために、せっかくの原稿依頼の体験が何の役にもたっていないばあいが少なくない。編集者というもの、けっこう怠慢なのである。とくに電話やFAXですますばあいは、ほとんど何の薬にもならない。ぼくのばあいは、スタッフが西山さんに失礼をしたこと、機嫌をそこねたことが“薬”になった。
西山松之助といえば家元研究と江戸町人文化研究である。たしか最初に『現代の家元』を読んだのだったかとおもうが、失礼ながらあまりこれといった感想がなかった。
江戸の町人文化論もときどき覗いてみたが、これまたとくに感想がなかった。が、『家元ものがたり』はルポルタージュのような形式だったせいか、刺激をうけた。とはいえ、この人が当時の江戸学の第一人者だという評判がすっと胸に入ってくるようなものでもなかった。
そのうち塩原勉さんに紹介をうけた九大の日置弘一郎さんと家元と日本文化をめぐる議論をするようになって、これはやっぱり西山松之助を読まなければとおもい、そこで大著『家元の研究』にやっと目を通しはじめたのだが、なるほどにここに出てくる細部には注目すべきものがたくさんあったものの、全体を通すと、やっぱりいったい何が研究の主張なのかわかりにくかった。
こうして、そのまま西山著作物とは縁が遠くなっていたのだが、70年代のおわりに『アート・ジャパネスク』を構成編集する段になって、やはり西山さんの“文人の眼”をいささか頂戴する必要に迫られた。小日向の西山宅を訪れたのはそのときである。
こんなことを通して西山さんのものを読む姿勢がだいぶん変わってきたのだが、正直なところをいうと、あいかわらず文章からは大きなヒントが得られない。なんだか近世文書の解読を読まされているような感じなのである。
それが、5、6年前に西山さんが求められるままに少年時代の回想をした放談記『しぶらの里』(吉川弘文館)を読んで、何かに滲みた。「しぶら」とは西山さんが育った赤穂地方での彼岸花のことをいう。
そうか、これが西山さんの芸談なんだとやっと思えた。おかしなもので、そう見えてからはぼくの西山読みに変化が見えてきた。まさに茶杓の細部がいきいきとするように、読み方も変わってきたのだった。大きなヒントではない。そうではなくて、小さなヒントが大きいのである。
本書は『しぶらの里』の続編にあたる回想放談記で、前著と同様の“語り”になっている。
聞き手は江戸東京博物館館長の竹内誠、この企画の途中で急逝した宮田登、成城大学の吉原健一郎の3人。この3人を相手に西山さんが自在に喋っている。一読、ふうっと引きこまれた。味がある。いろいろ想をめぐらすこともできた。きっと吉川弘文館の担当編集者の構成もうまいのだろう。こういう編集者こそ編集冥利を知っている人なのである。
話は青年期から始まって、しだいに禅の修行時代に移っていく。西山さんの師は釈宗演の嗣法を継いだ釈宗活老師で、そのころすでに「近角常観か、釈宗活か」と並び称されていた。その宗活老師についたのが西山松之助のすべての素地になっている。このことは本書で初めて知った。
宗活老師はなかなかの粋人でもあったらしく、書も堪能だが、夜になると河東節などをたのしんだ。恵直さんという弟子の女性が三味線をひき「助六」などを語る。これが西山さんをしだいに歌舞伎づかせた入口だったようで、その後は歌舞伎研究会をつくってのめりこんでいく。
こんな調子で西山節がつづくのだが、圧巻はやはり茶杓談義である。このくだりは誰にも補えない。独壇場とはこのことだ。ただただ、感心して読むしかなく、そのような独壇場にこちらが身をゆだねるのが気持ちよい。
書いてなんぼというのが知の文化であるのではない。語ってなんぼという知の芸談もあるものなのである。けれども、そういう人が少なくなっている。そういう気持ちで、惜しむごとくに本書を読んだ。