才事記

エスケープ・ヴェロシティ

マーク・デリー

角川書店 1997

Mark Dery
Escape Velocity 1996
[訳]松藤留美子

 国防省のアーパネットがインターネットに突然変異して奇妙な自律リズムをもちはじめたころ、アメリカの若者たちはそこへ行ってくることを“there”と言った。そして、できればそのときにサイバーデリック・カルチャーのエスケープ・ヴェロシティ(脱出速度)を感じたい、そこにできるかぎり凝りたいと考えた。そう感じた若者や少年少女は、そのまま濃度の深いネットジェネレーション時代に突入していった。
 本書は「われらは生きるために自分に向けて物語を語る」というサイバーエゴの視線で綴られている。これはもともと英国ジッピーたちが言い出した哲学だった。ジッピーとは東洋の禅に触発されたペイガン・プロフェッショナル(職業的異教徒集団)のことをいう。そこに電子製のネットがつながった。電気羊がアンドロイドの夢を見たのだ。こうして“there”ができた。だからパソコンはかれらにとっては最初からスマート・ドラッグなのである。合言葉は「ターンオン(覚醒せよ)、ブートラップ(起動せよ)、そしてジャックイン(没入せよ)」である。
 そのために動員されたサイバー・シソーラスはおびただしい。この本一冊がまるまるサイバーデリアで、電子認識増強剤のようでもある。だから本書には、これまで千夜千冊でとりあげてきた本のなかではあまりお目にかかれない情報感覚と用語感覚が洪水のごとく溢れている。ここではそのサイバー・シソーラスの切断面だけを紹介することにする。

 登場するのは「テクノ異教主義」である。
 そもそもスティーヴ・ジョブズがインドに行き、LSDに耽っていた。そこに人間機械共生系とウルトラヒューマニティと電子アシッド系とカウンターサイバネティクスとが加わった。ようするに情報生命オタクだ。
 ただし、ここまでだけならMac神話の創生期とあまり変わらない。インターネットとマルチメディアがネット合金のアマルガム状態になり、ウェブサイトに企業のHPから自殺志願者のHPの“現実”までが遠慮会釈なく入りこむようになってくるはずだ。そうなると、その“現実”とは異なった“new there”のためのメタフィクションが必要になる。そのメタフィクションは新たなテクノグノーシスを伴ったサイバーパンクな感覚を、意識と技術の相互におよぶリバースエンジニアリングで補強したハイパーコミュニティの登場というものになるだろう(このカタカナの放列、意味わかりますか。でも、本書はこういう調子なんである)。
 ただし、お手軽オンデマンドな宇宙意識とやらだけは避けておきたい。それはあまりに安直だ。なぜなら神話学者のジョゼフ・キャンベルがデストクップ・コンピュータを手に入れたときすでに、キャンベルはこのマシンのことを「たくさんの規則をもつが、慈悲はもたない旧約聖書の神」と呼んだものなのだ。むしろこのマシンは「ハイパーインストルメンタル」とでも呼ばれるべきものだった。

 それでは、このマシンとネットワークの間を好む住人たちは、いったいどういうヴェロシティ(velocity)が好きな部族なのか。どんな速度に酔いたいのか。
 この部族はナード(おたく)であって、ロッカーハッカーであって、モーフ(MorF)であろう。これらは場当たり主義と共感呪術派ではあろうが、必ずしもテクノラディカルとはかぎらない。科学者にまではなりたがらないし、その能力もない。いずれにしても大半が中途半端なテレプレゼンスな存在で、いっぱしのインフォノート(情報飛行士)気取りなのである。
 けれども、かれらはすでにMUD(マルチ・ユーザー・ダンジョン)の脱出速度を感じてきた連中でもあった。またMUSE(マルチ・ユーザー・シミュレーション・エンバイラメント)にそこそこ飽きた連中だった。それよりもテキストセックスをしたがっている。画像複合融合に飢えている。かれらは動かずしてアーバン・サージェリー(都会的手術性)に手を出したくてうずうずしているわけで、その手法の数々を、たとえていえばリッパー(切りさく)、ピールアウェイ(剝ぎとる)、バストアウト(割りきる)をどのように使おうかという、禅機をもって待っているわけなのだ。
 そのくせウィリアム・ギブスン原作の『記憶屋ジョニイ』(ロバート・ロンゴ監督《JM》)に出てくる部族のように、ローテク・ルンペンでもありたい、オートエロティシズムに酔っていたいという願望もある。そこは平気で矛盾したままなのだ。勝手なのである。
 奇妙なことだが、そしてこのへんはいささか愉快だが、この記憶と再生の「あいだ」にとどまりたがる世界の住人たちは、ネットワーク部族主義で、自動ミラーリング主義であって、かつトランスグレッション主義(境界侵犯好き)なのである。

 話は以上だ。
 以上だが、このように本書のそこかしこの情報速度の断片を粗雑につなげてみると、はてさて、このようなサイケデリック・スペースを自分の脱出速度を感じるところだとみなす非局所的電子網文化というものが、はたしてかつてのダダや未来派や人工知能を超えるものなのかどうかというと、いささかあやしい感じがしてくる。そのひとつの象徴が、本書の最後に出てくる「ダウンローディング」という提案だ。
 これは、カーネギー・メロン大学モービルロボット研究所の所長ハンス・モラヴェックが提唱したもので、コンピュータ・ネットワークに人間の意識をダウンロードしようという綿密なプランのことである。
 モラヴェックはマーヴィン・ミンスキーに似て、人間と機械のちがいは計算機の速度の問題と考えている。マシンヴィジョンにおける着目点高品質化(ROI)の技法を開発した。したがって、モラヴェックの計算によると、10兆個の命令を1秒で実行するシステムができればダウンローディングはおこるはずだということになる。
 ダウンローディング派は自信があるらしい。ポスト進化論はここからしかおこらないとも考えている。
 それかあらぬかモラヴェックの『電脳生物たち』(岩波書店)や『シェーキーの子どもたち』(翔泳社)はよく売れた。ぼくもけっこう愉しんだ。それもあってのことか、ロスアンジェルスを中心にしだいにファンをふやしているともいう。「エクストロピー」という機関誌もできた。そして、ダウンローディングができるなら、逆に、ウェブの世界を脳の方にアップローディングもできるはずだなどとも考え出した。そう、本書の著者のマーク・デリーは伝えていたのである。
 しかし、はたしてどうなのか。サイバーパンクそのままに、意識まるごとジャックインというのは、いささかシェーキー(スタンフォード大学が60年代後半に開発設置した初期AIロボット)の父権像を過信しすぎているようにも見える。エスケープ・ヴェロシティが、結局はダウンローディングだという結末は、申し訳ないけれど、いささかつまらない。本書はやはりサイバー・シソーラスを遊ぶための本なのである。