ダニエル・デフォー
モル・フランダーズ
岩波文庫 1968
ISBN:4003220838
Daniel Defoe
The Fortunes and Misfortunes of The Famous Mol Franders 1722
[訳]伊澤龍雄
ロビンソン・クルーソーは
イギリス資本主義の原型なのだろうか?
デフォーが描いたのはそれだけなのか。
ぼくはそうは思わない。
悪女モル・フランダーズの社会のほうに、
ずっと危険な魅力を感じてしまう。

 ジャン=ジャック・ルソー(663夜)の教育論『エミール』に、エミールが最初に読むべきもので、かつその後の長期にわたる最も重要な蔵書となるべき書物は何かというくだりがある。ルソーは「アリストテレスがいいか、ビュッフォンがいいか」と問うて、「いや、やっぱりロビンソン・クルーソーだ」と答えている。
 子供の教育にも人生の一冊にもダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』が最もふさわしいと見たわけだ。
 カール・マルクス(789夜)が『ロビンソン・クルーソー』を愛読したこともよく知られている。だいたい経済学者はロビンソン・クルーソーが大好きなのだ。ヨーロッパ社会における最初の「ホモ・エコノミクス」の体現者だという説を唱える学者も少なくない。デフォー、アダム・スミス、マルサス、リカードという系譜は、ある種の学者にとってのメインストリートなのだ。ブラム・ダイクストラには御丁寧にも『デフォーと経済学』がある。
 わが大塚久雄も、ロビンソン・クルーソーを「中産的生産者層に属する経営者」のかなりティピカルなモデルとみなし、「さまざまな資材と労働をむだなく、しかも合理的に組み合わせ、そこに人間労働の合理的な組織をつくりあげた」と絶賛した。嘘だと思うなら大塚の『社会科学の方法』(岩波新書)を読むといい。
 しかし、クルーソーがなぜ「ホモ・エコノミクス」の純血種のようにもてはやされるのか、実ははっきりしないことも多い。だいいち、デフォーは経済的純血種を描きたくてクルーソーを作ったのか。いささか疑問だ。

『ロビンソン・クルーソー』初版の口絵(1719年 ロンドン)

 クルーソーがどういう生涯をおくったかということは、いまさら説明するまでもないだろう。無人島に漂着して28年をおくった。その島で穀物を栽培し、家畜を養い、住居をつくりあげた。
 これを日本人はサバイバルゲームの典型のようにみなし、ときに横井庄一や小野田寛郎のルバング島における不屈の生存能力のように解釈するのだが、クルーソーが無人島で心に決めたことは、神と父に背いた報いをはたすということだった。ピューリタニズムの実践だった。
 柱に刻みを打って日付を確認していたクルーソーが、漂着して365日目の1660年9月30日を記念する場面がある。クルーソーは敬虔な祈りを捧げ、この日を今後も断食日とすることを決意するのである。サバイバルをしたかったわけではなかった。
 ついで地面から数本の緑色の茎が出てきたことに驚き、それがイギリス種の大麦であることに気がつき、天に感謝する。ところが大麦がすくすく育ち、それを収穫し、また種を蒔いてそれが成長していくことを何年も体験していると、これが天の恵みというより自然のサイクルだということを理解する。こうしてクルーソーはしだいに「自然経済の本質」にめざめていったということになる。ここにクルーソーの「神から経済へ」の進展があった。
 けれどもそれでクルーソーがホモ・エコノミクス(経済人間)になったというのは、どうか。

 漂着18年目、近海を横行する人食い人種たちが上陸してきていくつかの痕跡を残していった。人間の骨である。
 クルーソーはそれを見て、人間は人間の肉を食うのだという“現実”を知り、まさかの時のための防衛が必要であることにめざめる。さらに23年目には人食い人種たちが再上陸し、まさに捕虜の人肉を貪りあっていることを目撃した。
 クルーソーはしだいに、世の中というものが神の摂理や経済の確立だけではなく、社会の悪によっても成立していることを知る。「シンパシー」(同情・共感)と「神の見えざる手」をもって経済の誕生を示したアダム・スミスより、クルーソーのほうがずっとラディカルで、ずっと早い納得だ。
 25年目、30人ほどの人食いたちが上陸したときは、ついにその捕虜の一人が脱走してクルーソーのところに転がりこんできた。これが有名なフライデーである。クルーソーはフライデーとともに防衛戦闘体制を整えつつ、しばし暗澹とする。「人が人を食う」ということに社会と経済の本質があることまで感じはじめたのだ。これはどう見ても、ホモ・エコノミクスの純粋確立だけの話とは思えない。クルーソーは「ホモ・セキュリタス」(防衛人間)にもなっている。
 たしかにクルーソーにはピューリタニズムが大好きな勤勉精神が生きていて、マルティン・ルターの「ベルーフ」(天職)を思わせる選択がある。また、破損した自分が乗ってきた船の残骸からことごとく物資や材料を運びこんで、これをもって日々の生活の材料としていった展開には、まるで近代制工場生産の基本システムが芽生えているようにも見える。
 しかしその反面、クルーソーをたえず脅かしたカニバリズム(食人習慣)の横行は、社会や人間というものが「悪」を抜いては語れないことも告げていた。経済学者たちはそこを見ていない。経済学者は、ジュルジュ・バタイユ(145夜)などの僅かの例外をのぞいて、善意の経済学を信奉しすぎるのだ。「悪の経済学」がない。
 そこでぼくとしては、ロビンソン・クルーソーもいいけれど、モル・フランダーズはもっと現代に物語ってくるものが多いのではないかという、そんな見方を強調してみたくなる。

 それにしてもロビンソン・クルーソーはまるで実在の人物か、歴史の一角を飾った本物の人物であるかのように思われてきた。これはあたかもシャーロック・ホームズがベーカー街に日々実在していたかのように思っていることと似ていて、イギリス人の嗜好(それとも思考?)のペダンティックだが、妙に即物的な側面を暗示する。
 しかしぼくは、それなら「男のロビンソン・クルーソー」に比して、「女のモル・フランダーズ」がもっと語られていいと思ってきた。これは「善なるロビンソン・クルーソー」に対するに「悪なるモル・フランダーズ」ともいえるし、親鸞ふうにミメロギアをするなら、「欲望を管理したクルーソー、煩悩を浄化したフランダーズ」ともいえる。そういう一対だ。
 もっとはっきりいえば、モル・フランダーズこそ、今日なお実在している社会者そのものなのである。そのことに気がついた者もいた。
 そもそもイギリス人がダニエル・デフォーを見直したのは、20世紀まもなくのブルームズベリー派によるところが大きかった。ヴァージニア・ウルフは『ロビンソン・クルーソー』や『モル・フランダーズ』を「民族そのものの作品」だとみなし、E・M・フォースターは「小説の原型を構築した絶品」だと評価した。
 しかし、この見方はあまり広がらなかった。クルーソーだけはあいかわらず民間に親しまれ、子供の童話にすらなっていったのだが、モル・フランダーズの数奇な物語のほうは無視された。毒婦や悪女の物語では、とうてい子供にも伝えられなかったし、アタマが堅い経済学者たちには悪女の社会学など、とうてい敷延できるものではなかったのだ。さすがのイギリス人たちも、この物語にはついていけなかった。

 モル・フランダーズとはどういう女なのか。少しだけ説明しておくことにする。これは「かわいくない女」の典型なのだ。
 モルが世にも稀な数奇な運命を辿ることになったもともとの遠因は、母親にあった。母親は窃盗と淫売を糧とする日々をおくったすえ、捕まってニューゲート監獄に収監され、絞首刑になるところをすんでの妊娠中ということで7カ月の執行猶予となり、そのどさくさのあいだにモルが生まれた。
 そんな出生だったから、モルは生まれてすぐに監獄から親戚に移されたのだが、両親がいない幼年少女時代がおもしろいはずがない。あるときジプシーの群に紛れこんで、そのままエセックスのコルチェスターの貧しい女のところへ引き取られた。ともかく最初っから流転の人生なのである。
 やがてモルは男を取っ替え引っ換えすることをおぼえ、母親そっくりの掏摸や窃盗にあけくれる。あげく、銀食器を盗んだときに現行犯で逮捕(『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンの先行モデルだ)、これまた母親同様にニューゲートに送監される。

 モルの数奇はそれだけにとどまらない。やっと結婚した男が、なんと母親が別の男と交わって生んだ男だった。モルは父親ちがいの弟と結ばれてしまったのである。この血族相姦の事実を知ったモルはさすがに懊悩する。自身のおぞましさに苦吟する。
 こんなことばかりがモルを襲いつづけるのであるが、モルは自分が犯した犯罪や自分が溺れた欲望には罪悪感がない。そういう意味でも「かわいくない」。それにもかかわらず、モルはロビンソン・クルーソーとはまったく逆に、自然や経済のサイクルにまったく無頓着で、それどころかそのサイクルを逸脱することにおいて生き抜いていく。
 まことに奇怪な女なのである。人生だけを見れば、12年間は娼婦として暮らし、5度にわたって人妻となり、12年間を盗賊として鳴らし、8年をヴァージニアの流刑地の重罪人としてすごしたのだ。
 こんな女はめったにいない。しかも、あとでも案内するが、デフォーがこれを書いたのは17世紀末から18世紀にかけてのことなのだ。こんな女が主人公になっていることが、破天荒で、桁外れで、ありえないことだった。

 いったいモル・フランダーズとは何者なのか。デフォーはこの女性の生涯に何を折りこんだのか。なぜデフォーはロビンソン・クルーソーについで、こんな極端な人物像を描いたのか。
 あえて文学史的にいうのなら、モルは、のちにエミール・ゾラ(707夜)フランソワ・モーリアック(373夜)ダフネ・デュ・モーリア(265夜)が描いたヒロインに似て、悲惨と恐怖の体験をしつくしている。つまりはモーパッサンの『女の一生』(558夜)の先行モデルになっている。
 けれどもその一方、モルは快楽を求めるマルキ・ド・サド(1136夜)のジュスティーヌの先行モデルであって、また窃盗を肯定するジャン・ジュネ(346夜)の思想の先行モデルなのである。耽美も逸楽も体験した女なのだ。
 これだけでもそうとうに変わった過剰なヒロインだということになるのだが、さらに他方、そうした近現代の作品の主人公とちがって、モルはきわめて特異な救済感をもたらしたヒロインでもあった。
 それは、モルが「お母さん」とよぶ女によって救われているという点にあらわれる。物語のなかでは、「お母さん」は実の母親以上に母親的で、モルが子供を産むときや数々の苦難のときに現れてこれを助ける役割になっている。しかし、彼女自身はモルや実母に勝る淫行と犯罪のかぎりを尽くした女であって、それなのにどこかに聖性をもっている。
 つまり「お母さん」は「悪」に染まった女なのである。その悪女がモルという悪女を救っていく。ここに『モル・フランダーズ』の独特の仕掛けがあった。
 なぜデフォーはこのような仕掛けが書けたのか。ぼくはデフォーについてはまだまだ素人なのだけれど(たとえば、ブラム・ダイクストラのような究明についていけないところはあるが)、それでもデフォーを新たな観点で擁護しておきたい向きがある。

 ずっと以前から感じてきたことであるが、もともとデフォーが書いたものには、『ロビンソン・クルーソー』であれ、ロンドンにおけるペストの蔓延を克明に描いた『疫病流行記』であれ(この作品は寺山修司がぞっこん傾倒していた)、ぼくにはジョーゼフ・コンラッドの傑作『闇の奥』(1070夜)の大胆な先行作品と思える『シングルトン船長』であれ(アフリカ探検の物語なのだ)、それを物語の筋書きそのままに放置しておけないような奇妙な魅力が出入りする。
 文章も筋立ても、決してうまいわけではない。アラ探しをすれば、陳腐なところはいくらでもある。だいたいデフォーは何であれ、まるで見てきたかのように書く“誇張リアリズム”と“説教主義”ともいうべき悪癖を押し通しているので、随所に「嘘っぽさ」も「これ見よがし」も目立っている。英文学の研究者であるにもかかわらずイギリスを嫌った漱石は、「そこにうんざりした」という感想を洩している。
 それにもかかわらず、デフォーの作品には脱帽せざるをえないものが見え隠れする。とくにロビンソン・クルーソーとモル・フランダーズという一対の男女を創出したということにおいて、同時代のジョナサン・スウィフト(324夜)がどう逆立ちしても敵わないものがあった。むろん漱石には思いもつかない構想だ。
 いやいや、構想ではない。そういう高尚なものじゃない。仕掛けなのである。デフォーの魂胆なのだ。では、なぜデフォーはこのような仕掛けが書けたのか。
 これについては、デフォーその人の数奇な人生を見ることからしか窺えないものがある。そのなかにデフォーの魂胆を見る必要がある。ともかく前半生は失敗ばかりした男で、後半生の半分は右顧左眄ばかりした男だったのである。ところが最後の最後になって、デフォーをデフォーが裏切った。
 ちょっとした時代背景とともに窺いたい。

 ダニエル・デフォーは一応は1660年のロンドン生まれということになっている。1665年のペスト大流行の5年前のことだ。
 一応は、と言ったのは、生年がつきとめられないほど下層の出身だったということで、デフォー自身の説明で父親が肉屋か獣脂蝋燭業だということがわかった程度の生い立ちだった。が、デフォーの精神史にとって最も重要なところはわかっている。父親が非国教派(ディセンター)だったので、非国教派の私立学校で育ったということだ。イギリスの国是とされた国教派と対立していた社会に属していたということになる。
 20歳をすぎると靴下の仲買人として商売を始め、ついでさまざまな事業に手を出しては失敗をした。32歳のときの債務は17000ポンドに膨らんでいた。詐欺で何度も告訴された。そのあいだに、ロンドンではジェームズ2世が即位して、これに抗したチャールズ2世の庶子マンモス公が反乱をおこすのだが、デフォーはなぜかこの末席に連なって敗北を味わった。
 これで落胆するか失望するか、道をまちがうか、そういうひどい退落がおこっていてもいっこうによさそうなのだが、デフォーはまったくへこたれなかった。示談を成立させて、まず債務をくぐり抜けたのだ。続いてジェームズ2世がフランスに逃亡して、オレンジ公ウィリアムとメアリーが王位につくと信教自由令が出て、デフォーは自分の社会的信仰の烙印にさらにほっとする。
 ついでウィリアム3世の統治が広がった時期には、エセックス州ティルベリーに煉瓦タイル工場をつくり、これがけっこう繁盛した。金まわりがよくなっただけでなく、巧みにウィリアム3世にとりいって、スパイまがいの諜報員として政治活動に手を出した。実際にもスコットランドに情報収集に行っている。これが日本でいえば元禄10年(1697)のことだった。ロンドンがコーヒーハウスで賑わう時節、デフォー37歳である。

 ここからのデフォーの活動は、もっと怪しいものになる。いや、何が本気で、何がブラフやダミーなのか、わからない。デフォーこそ“ロンドンのロビンソン・クルーソー”で、“男のモル・フランダーズ”なのである。
 まず『企業論』(An Essay upon Projects)というものを書いた。一種のアジテーション・パンフレットで、こののちデフォーが得意とする手法の開陳だった。アン女王が即位すると、『非国教徒最短処理法』などというパンフレットもぬけぬけと書いた。きっと女王が非国教派を弾圧するだろうことを予測してアン女王派になりすまし、非国教派を弾圧するアジテーションを書いたのだ。二枚舌である。匿名だったが、これは物議をかもし、正体をつきとめられて逮捕に至った。有罪になった次には晒し台に陳列された。この騒動は数カ月続き、結局、煉瓦工場が破産した。
 それでもデフォーはへこたれない。仮面としての御用ジャーナリストの職能をいっぱいに広げた。
 そこに目をつけたのがトゥーリー党のロバート・ハーリーだった。デフォーもハーリーの要望に応えた。あるいは、そのフリをした。
 有名な週刊誌『レヴュー』(1704年創刊)にさっそくハーリーのための論陣を張り、次から次へとアジテーションを書いた。ハーリーがいっとき失脚すると、今度はホイッグ党の政治家ゴドルフィンの肩をもち、ハーリーがふたたび勢いを盛り返すと、またまたハーリーの手先として諜報員になって、トゥーリー党寄りの文章を書いた。48歳になっていた。
 筋金入りの二枚舌だ。まるで両棲類である。最悪低劣な右顧左眄ジャーナリストに見える。
 当然、同業者からは非難を突き付けられた。ジョナサン・スウィフトからは「手前勝手なことしか言わない詐欺師で、とうてい我慢がならない」と批判され、かの『スペクテイター』のジョセフ・アディソンからは「嘘つき、ごまかし、言い逃ればかりするごろつき」とこっぴどく罵倒された。
 当然だ。デフォーはひたすら世の目先をくるくると渡り歩く文筆家にすぎないとみなされたのだ。

さらし台にかけられるデフォー

 しかし、しかしである。ユトレヒト条約が締結され(英仏戦争が終結し)、アン女王が亡くなり、ハーリーが失脚し、さらにハーリーがロンドン塔に幽閉される段になってからのことなのだが、55歳をこえたデフォーがこれまで伏せてきた才能をしばらく陶冶したのち、一挙に開示することになったのだ。
 それが1719年、日本でいえば還暦間近の59歳のときに発表した『ロビンソン・クルーソー』だったのである。
 晩年のデフォーの才能はひたすら一代記に向けられた。60歳で『シングルトン船長』を、62歳で『モル・フランダーズ』(これはときに『モル・フランダーズ一代記』と訳される)と、休む暇なく『疫病流行記』と『ジャック大佐』を、さらに64歳で『ロクサーナ』(美貌のロクサーナの淫靡な遍歴物語)と『盗賊ジョン・シェパード』を書きまくり、続く66歳ではやはり大盗賊の一代記を扱った『ジョナサン・ワイルド』をたてつづけに書いてみせたのだ。
 念のため比較しておけば、スウィフトが『ガリヴァー旅行記』を書いたのは、やっとデフォー66歳のとき、その後の71歳で老衰死したデフォーの人生からすれば、その最後の最後になってからのことだった。

 デフォーの物語は、一言でいえば度が過ぎた作り話であろう。さきほども書いたように、嘘っぽさも目立っている。政治パンフレットは右顧左眄もいいとこだ。
 けれども、よくよく時代を見ると、ウィリアム3世時代やアン女王時代のイギリスそのものが右顧左眄していた。とくにコーヒーハウス時代というのは、第491夜に詳しく案内しておいたけれど、コーヒーハウスごとに主義主張がちがっていた時代なのである。イギリスは議会政治を発祥させたというものの、その実態は乱立するコーヒーハウスに依拠する党派を適当に糾合し(最近の日本の政党政治のように)、これをやっとトゥーリー党とホィッグ党を仕立てたというもので、それに合わせて議会を用意したというだけだった。ただ、イギリス人はそうした成果を後生大事に延命させただけだった。
 こういう時代に、文章を専門に書くという職能が初めて登場したのである。それまでは文筆家なんていなかった。まして小説家もいない。それがコーヒーハウスのなかでジャーナリストとも小説家とも政治家ともレキシコグラファー(辞書執筆者・第6夜『辞書の世界史』参照)ともなったのだ。スウィフトもそうだった。
 もっとはっきりいえば、この時代に書かれたことはすべてがノヴェルやノヴェリティ(新奇)だったのである。『レヴュー』にしてからが、正式タイトルは「新聞記者や諸派の小政治家どもの誤謬と偏見から脱却するための情勢についてのレヴュー」というものだった。どんな書き手もノヴェルをめざすしかなかったのだ。そのノヴェルがデフォーとともに小説(ノヴェル)にもなりつつあったばかりだったのだ。
 そうだとすれば、デフォーはそういう「小説という新たなジャンル」を開拓した男だったということになる。そのための二股であり、そのための右顧左眄だった。

 いまでは日本でも、売れっ子の作家は実生活の日々とは別の専門職になっている。世の中や歴史の日々を適当に取材して、それを想像力を交えて書けばいい。
 それでもデビュー当時の作家の多くは、最初のうちは自身が体験した貧困や差別や苦悩や快楽を描いて文学賞をとったり、話題になったりするものだ。それがデフォーの時代では、実生活そのものが文章だった。
 しかし、デフォーはそこに仕掛けを装置した。自身の日々を実験台にして、それがあらかたケリがついたところでノンフィクションをフィクションに切り替えた。いや、もともとルポルタージュやアジテーションそのものを虚実皮膜で実験しつづけていたわけで、それがアン女王の死によって時代の落着がおこったことを見届けると、デフォーはまったく新たな「物語作家」という職業の確立に向かったのである。
 その物語は同時代に生きる極端な人間の一代記というものだ。そのためにデフォーは自身のすべての体験をフィクションに仕立て上げた。これはダニエル・デフォーだけが、デフォーの編集能力だけがなしとげたことだった(のちにはチャールズ・ディケンズがこれに再挑戦した→407夜)。

 ところでぼくは思うのだが、一般に、いったい誰が右顧左眄をしない日々をおくっているなどと言えるのだろうか。少年期から壮年期まで、少女期から熟女期まで、誰が一貫した志操や思想を、趣味や行動を貫けているといえるだろうか。
 われわれの周辺は、仕事を変え、勤め先を変え、ときには交わる相手を変えて、つねに変身の日々をおくっているのがふつうなのである。まして失敗や失意があれば、これは自分が向かう矛先を変えるほうが尋常だ。ふつうだ。そんなことは文章に残さなければ、おそらく誰もが黙ってやりつづけていることなのである。
 こういうことは誰もがしていることであるけれど、ただ、それをあからさまになんか、しない。日記にすら、事実を克明に綴りはしない。漠然とした自我や自己というものの継続のため、自分の日々の変節などできるだけ忘れたがっている。その実、みんな生活と仕事の右顧左眄にひたすら苦しんでいるだけなのだ。
 ところがデフォーは、その変化のいちいちを書きつづけた。自身の向かう方向とテーマと相手を、いちいち書いた。パラメータそのものを書いたといっていいだろう。伝記者たちによれば、デフォーが書きあげた作品やパンフレットは250作に及ぶという。これはほとんど実生活の変化ぶんすべてが文章(いまならブログだと思えばよろしい)になったといっていいだろう。
 そんなこと、サミュエル・ピープスのように日記を書きつづけた例外をのぞけば、デフォーの時代の誰一人としてなしえなかったことだったのである。
 デフォーを擁護したくて、こういうことを書いたのではない。いまこそブログ時代のなかで、自身の内なるデフォーを発見するべきだと言いたいのだ。

ロンドン中心部にたたずむデフォーの墓標
附記¶日本はダニエル・デフォーにとんと疎い国である。すでに嘉永年間に蘭学者によって『ロビンソン・クルーソー』が『漂流記事』として漢文になっていたわりに、ほとんど注目されてこなかった。漱石がデフォーを軽視した影響なのかもしれない。そのためか、デフォー研究もほとんどめぼしいものがない。ぼくが知らないだけかもしれないが、古くは天川潤次郎の『デフォー研究』(未来社)が、やや近くに宮崎孝一の『ダニエル・デフォー』(研究社)があるばかりなのである。
 したがって作品の翻訳も著しく少ない。さすがに『ロビンソン・クルーソー』だけは各社で出していて、なかには吉田健一の闊達なもの(新潮文庫)や伊集院静の無頼なもの(講談社)もあるのだが、ほかは『モル・フランダーズ』が岩波文庫で、『疫病流行記』(『ペスト』)が現代思潮社で、『ロクサーナ』が槐書房で出ているくらいのもの、さっぱりなのだ。
 翻訳の研究書もまったくないといっていい。ブラム・ダイクストラの『倒錯の偶像』(パピルス)がややデフォーを浮き彫りにしているが、これとてダイクストラの『デフォーと経済学』が未訳では、まったく資料とはならない。ちなみに大塚久雄のクルーソー経済学は、上記に案内した岩波新書とはべつに『文学と人間像』(東京大学出版会)にも見えている。なお、『モル・フランダーズ』はペン・デンシャムの監督で1996年に映画化された。てっとりばやくは、ここからデフォーに入るのもいいだろう。

コメントは受け付けていません。