ウィリアム・フォークナー
サンクチュアリ
新潮文庫 1973
ISBN:4102102027
William Faulkner
Sanctuary 1931
[訳]加島祥造

 冒頭、ピストルをもった男と書物をもった男が出会う。ピストルの男は密造酒をつくっているポパイ、書物の男はたったいま妻を捨てて故郷に戻る途中の弁護士ホレス・ベンボウ。二人はなんらの交流もないままに、かりそめの道連れになる。
 春の午後。ミシシッピ深南部ジェファスン。フォークナーのいわゆる「ヨクナパトーファ・サーガ」の主要舞台となる架空の町。いまは廃屋になっているその町はずれの農園屋敷オールド・フレンチマン。ここが密造酒づくりの一味の汚れた根城で、首領格のポパイは性的不能者である。密造酒をつくっているくせに、酒も呑めない。貧乏白人グッドウィンとその妻のルービーと手下のトミーを使っている。その根城にベンボウは招かれ、夕食を共にし、そして別れた。
 数日後、名門判事の17歳の娘テンプル・ドレイクとボーイフレンドが乗った車が、ポパイの仕掛けた横倒しの木に乗り上げ、屋敷に連れこまれる。ボーイフレンドたちはほうほうのていで逃げ、トミーが娘の見張りを命じられる。ポパイはそのトミーを射殺して、娘の陰部をトウモロコシの穂軸でつついて暴行した。アメリカ文学史上、最も有名な犯行場面である。
 ポパイはテンプルを淫売宿に囲って、自分の代わりの若者をあてがうが、二人の仲間が親密になると、この若者も射殺してしまう。

 トミー殺しに乗り出した当局は、血に汚れた穂軸を発見し、ぐずのグッドウィンを犯人とする。一方、事件の真犯人はポパイだと睨んだ弁護士ベンボウはグッドウィンの証言を取ろうとするのだが、うまくいかない。
 そこでルービーから真相を聞き出すために身柄を保護すると、町の連中がベンボウを非難する。この町には面倒な“真実”なんて、いらないらしい。そのうちテンプルの行方がわかったベンボウは淫売宿でテンプルと話してみるのだが、彼女はあまりにも錯乱している。これではかえって“真実”は遠くなる。ベンボウは彼女が法廷で変なことを喋らないことを望む。
 こうして開かれた裁判の第1日目、ルービーがついにポパイの犯行を証言した。ベンボウは勝利を確信する。第2日目、不意にテンプルが現われ、検事の誘導でグッドウィンに犯されたと証言。ただちに有罪が宣告された。
 その夜、町の連中がグッドウィンを監獄から引きずり出し、火あぶりのリンチを加える。そのさなかテンプルは父親に引き取られて町を発つ。
 数カ月後、ポパイは母親に会うため故郷に向かっている途中、警官殺しの科で逮捕される。そんな事実はないにもかかわらず、ポパイは弁護を拒み、看守に髪をなおすように告げると、犬のように首を吊られて果てた。酒も女も知らないままに――。

 ウィリアム・フォークナーはろくに学校など出ていない。高校を途中でやめ、大学を途中で退学した。ミシシッピの名門の家に生まれたが(曾祖父が鉄道敷設者、父は大学の事務官)、好きに、だが、できるだけ静かに、勝手に生きた。フォークナーを刺激したのは親友であり、文学に目覚めさせたのも親友だった。アメリカ文学よりジョイスやエリオットが好きだった。
 フォークナーが南部社会という「過去の幽閉」を描いた書きっぷりには、兜を脱ぐ。その凄まじさに気圧されて、『響きと怒り』や『八月の光』を読みまちがえたほどだった。
 大学3年のころだったか、それまでノーマン・メイラー、テネシー・ウィリアムズカポーティヘンリー・ミラー、ヘミングウェイというふうにアメリカ文学を飛び石づたいに溯っていたら、ここで「ごついもの」にどしんと躓いた。それがフォークナーだった。同じころ観ていたエリア・カザンの映画にもちょっと「ごついもの」を感じていたのだが、その向こうにもちらりとフォークナーが見えた。
 なんだ、こいつは。
 こんな奴は日本にはいない。しかも、アメリカでもない。何かここには別の人種がいる。いや、その人種と向き合った奴がいる。
 ぼくはこの「ごついもの」が秘める怖いような物語の塊りに怯(ひる)み、これをしばらく避けて、また、ヘンリー・ジェイムズ、メルヴィル、ホイットマン、ポーというふうにアメリカの時を溯っていったものだった(第429夜第300夜など参照)。

 ヨクナパトーファ・サーガ。
 ヨクナパトーファ・クロニクル。
 フォークナーの多くの作品は「ヨクナパトーファ郡」という架空の地域を舞台にしている。インディアンの言葉で「水が平地をゆるやかに流れていく」という意味らしい。ミシシッピ州西北部、広さ2400平方マイル、1936年時点で人口は15611人。うち白人が6298人、黒人が9313人。
 そこにジェファスンという郡役所のある町があり、フレンチマン・ベンドというコミュニティがある。ここは「体面」をつくっているコミュニティで(いまの日本のように)、過去の歴史の都合のいいところ以外はすべて放擲するような連中ばかりがひしめいていた。ここには退屈、溺愛、暴力、保身、偽りの家庭、いいかげんな教育が、ぐるぐる渦巻いている(いまの日本のように)。
 フォークナーはそういう架空の町を設定し、そこにありとあらゆる感情と出来事を埋めこんだ。象嵌である。むろん、その象嵌の手法には確固とした方針がある。そのような日々を克明に描き出すことが、もっとくだらないだろうはずの未来の歴史を塗り替えることだという深謀深刻な方針がある。
 晩年だったが、フォークナーは自分が育った南部の町についてこんなことを書いていた、「自分の郷土がたとえ切手のように小さなところであっても、書くに値することはとうてい書き尽くすことができないほどある」。

 しかしフォークナーの小説はまったく売れなかった。売れなかっただけでなく批評家も注目しなかった。
 農園貴族につらなる家族たちの葛藤を描いた『響きと怒り』も、人種の宿命についにメスを振るったジョー・クリスマスとリーナ・グローヴの物語『八月の光』も、あまりにも復相的な人物が入り混じっているので梗概など説明できない『アブサロム・アブサロム!』も、まったく注目されなかった。
 ただ『サンクチュアリ』だけがその過激なシーンで話題になった。以降、フォークナーは長らく“バイオレンス作家”として知られていただけなのだ。
 それでもフォークナーはヨクナパトーファ・サーガをヨクナパトーファ・クロニクルとして書き続けた。評判など気にしていない。そして、ずっとあとになってノーベル賞を授与された。アメリカ人はこれでやっと驚き、やっとフォークナーを読みはじめ、そしてやっと、アメリカという国の体たらくをちょびっとだけ知った。
 が、一般の読者にはフォークナーはやっぱり「ごついもの」だったようで、むしろ映画化されて理解されるほうが断然に多かった。フォークナーはやたらに映画の素材になったのだ。そうなのだ、フォークナーはアメリカではなく南部社会であり、アメリカ文学ではなくハリウッド映画だったのである。

 アリオスト、バルザック、ドストエフスキー、ゾラ、フォークナー、ドス・パトス、ガルシア・マルケス。ときに、このように並ぶのがよい。
 そういうふうにフォークナーを理解できたのはだいぶんあとのことだったが、ぼくはいつしか“それ”に気がついた。“それ”は何かとは言いにくいけれど、おそらくはゲニウス・ロキの宿命を見定めるということであり、歴史は現在でしか語れないという覚悟をあらわすことであり、人間こそが状況であることを凝視することだったろう。
 フォークナーがなぜこのような頑固な小説作法に徹したのかということは、むろんフォークナーの生い立ちや個性にも関係があるが、時代も大きな影響を与えていた。
 フォークナーの青年期はまさしく「ロスト・ジェネレーション」(失われた世代)に属している。1897年生まれ。世紀末の申し子のようなフォークナーは、ダシール・ハメット(第363夜)の3歳年下、フイッツジェラルドの1歳年上、ヘミングウェイの2歳年上になる。この世代にとっては、もはや良き時代のアメリカなんてもうなくなっていて、そんな時代が2度とくるとは思えない。

 フォークナーも大戦従軍を志願し、カナダのイギリス空軍に入隊もした。戻ってきても職業などなんでもよくて、そのへんの臨時郵便局長でもなんでも、一時しのぎになれば、それでよかった。
 アメリカの過去は立派だったかもしれないが、今は何もない。むしろ大戦で傷ついたヨーロッパのほうが人間らしい。ヘミングウェイが海やパリやキリマンジャロに出ていったように、フォークナーはそのぶん外に出ないことにした。フォークナーは自分が育った小さな町をモデルにヨクナパトーファ郡に蟄居することにした。虚構の中に人間のふるまいの多様いっさいを封じ込めた。

 フォークナーの主人公たちは(いや、大半の登場人物たちは)、もはや自分で自分をつくりだすしかなくなっている連中である。
 たとえば、『サンクチュアリ』の不能者ポパイは自分の内なる欲望を、愛やペニスではなくトウモロコシの穂軸に託さねばならず、自分の外なる罰を、自分の罪ではないもので引き受けたい。そうでもしなければポパイはポパイでいられない。
 また、『八月の光』のジョー・クリスマスには“生誕”がない。孤児院に捨てられた日付を名前が暗示しているだけである。過去が不明なかわり、そのあとの生き方には自分で決められる選択がある。過去に戻れば黒人になるしかないが、過去を塞いで白人まがいとして生きることも、黒人でも白人でもない自分になることも、オプションになる。
 オプションではあるけれど、どのオプションを選択することになったかで、人生は千変万化する。白人女のジョアナ・バーデンが好きになり、彼女に頼ったらどうするか。そのときは彼女から自分の中の黒人性を要求されるのだ。リーナ・グローヴに惚れれば、どうするか。そのときは白人っぽくなれるけれど、自分を明るい喜劇にするしかない。ジョー・クリスマスはそういう選択創作の人生を歩んでいった。

 フォークナーはまず、そういう登場人物をこそ次々につくっていったのである。ポパイもテンプル・ドレイクもホレス・ベンボウもそういう人物だった。
 次に、そのように自分で自分をつくれない人間たちを、描くことにした。混沌たる物語『アブサロム・アブサロム!』がそのことをまさに書いたのだが、こういう人間たちは自分で自分の過去をつくることになる。
 そういう人間も、世の中にはいっぱいいるはずだ。過去をでっちあげながら生きている連中だ。しかし、そんなことはうまくいくはずはない。きっとすべてが露見する。かくして主人公たちはそこで窮し、そこで新たな人間に着替えせざるをえなくなっていく。
 フォークナーはそういう二つのタイプの人間を次から次へと選び出し、そういう住民ばかりで埋まったヨクナパトーファを濃密につくりだしたのだ。すでにおわかりのように、この手法に驚き、これを日本の虚構に移したのが大江健三郎であり、安部公房であり、松本清張だった。
 こういう魂胆を抱えたフォークナーの作品を、若造だった松岡正剛がわかるはずはなかった。ぼくは自分の加齢とともにフォークナーをやっとこさっとこ再発見できただけだったのである。

 数年前も、最後の大作『寓話』を読んだとき、フォークナーに打ちのめされたばかりだった。何に打ちのめされたかといえば、ぼくの中にフォークナー思索がなおまだ決定的に欠乏していることに、打ちのめされた。
 この物語は第一次世界大戦と第二次世界大戦の両方の「戦争」を主題にしたもので、前半は、第一次大戦下のフランス前線部隊における12人の奇妙な兵士たちを部下にもった伍長の運命を描いていた。そこにおこる出来事はまことに複雑怪奇、しかもそれが、まるで12人の弟子に何かを伝授しなければならなくなって受難したキリストのようなのだ。後半は、第二次大戦下の人間像が次々に採り上げられて、すべての矛盾が噴き上げてくる。
 フォークナーはこれらを『寓話』と名づけてじっと堪忍しているのだが、この作品にこそ「怒り」と「響き」が満ちているのはあきらかだった。しかし、なぜフォークナーは堪忍できるのか。ぼくにはそこが掴めなかったのだ。
 あと数年後なら、ひょっとしたら『寓話』をここ(千夜千冊)に採り上げたにちがいない。でも、いまはそこまでは飛び切れない。お手上げではないが、ぼくの言葉にフォークナーは嵌まってはくれそうもない。
 ぼくにとっては、ウィリアム・フォークナーこそがいまなおサンクチュアリなのである。

追記。
 フォークナーが抱えた世代(1895年~1900年に生まれた世代)は、日本なら三木清・伊藤野枝宇野千代・山名文夫・横光利一・川端康成石川淳などの世代にあたっている。
 この顔ぶれでわかるように、日本ではこの世代をロスト・ジェネレーションとは言わない。それでもかれらはそれなりの“ロスト”の感覚だけはもっていた。すなわち、この世代は自分で自分たちの主人公を、どこにも所属しない者としてつくりだすしかなくなっていた。横光『旅愁』や川端『雪国』はそういう人間を描いていた。かれらはまさにフォークナーやヘミングウェイに連なる者たちで、結局は大戦を同じ年代で体験し、そこから外れた人間をつくりだしたのだ。 
 しかし周知のように、これらの作家の作品は淡いものである。失ったものも淡かった。つまりはこの世代からはフォークナーやヘミングウェイは生まれなかった。何を“ロスト”したかという問題がまったく異なっていたからだ。
 その後、日本は日本なりに“強いロスト”を描くことになる。その大半は、戦後の、しかも高度成長に向かってからの、平均的な日本社会から外れてしまった“日本のヨクナパトーファ”を描いたものだった。それが安部公房・大江健三郎から始まって、中上健次からいま阿部和重に及ぼうとしているものである。

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