ヴァルター・ベンヤミン
パサージュ論|全5巻
岩波書店 1993
ISBN:4000029606
Walter Benjamin
Das Passagen-Werk 1982
[訳]今村仁司・三島憲一 他

 これはベンヤミンの「千夜千路」あるいは「千夜千境」である。また、ベンヤミンの「書物売立て目録」である。だいたいは1927年から1935年までに書かれた。最晩年だ。そのあいだに、ベンヤミンはナチスから逃れてパリに移住したりしていた。
 パサージュとは「移行」であって「街路」であって「通過点」である。境界をまたぐことである。ベンヤミンはパサージュへの異常な興味をことこまかにノートに綴り、そしてそれを仕事(Werk)にした。だから『パサージュ論』は本というより、本になろうとしている過程そのものだ。しかし「本」とは本来はそういうものなのである。
 ベンヤミンはこう書いた、「パサージュは外側のない家か廊下である、夢のように」というふうに。

 この夢はベンヤミンの関心では「集団の夢」というもので、時代社会の舞台としては19世紀の都市におこったことをさしている。そのことをベンヤミンは「19世紀とは個人的意識が反省的な態度をとりつつ、そういうものとしてますます保持されるのに対して、集団的無意識のほうはますます深い眠りに落ちていくような時代なのである」と説明した。
 その深い眠りに落ちるものを都市から掬い出してみる。ベンヤミンはそれを試みようとして、メモとノートを執りつづけた。厖大だ。それが『パサージュ論』である。生前にはまったく刊行されてはいない。それどころか、ベンヤミンはこれをジョルジュ・バタイユに託して図書館に消えていった。
 いや、実際に消えたのは1940年にドイツ軍の接近にともなってパリからルルドに逃げ、そこからマルセイユに飛んで、最後にピレネーからスペインの入国をはかって足止めにあい、強制連行の直前に服毒自殺をとげたときだった。
 このような亡命者ベンヤミンが、最後まで“目の言葉のアーカイブ”として綴り残した『パサージュ論』が活字となって陽の目を見たのはずっとのちのことだった。
 ともかくも、まことに奇妙なのに緻密、あくまで外見的なのに内密な「本のパサージュ」である。これまで「千夜千冊」が案内したものではこれに類する「本」はほとんど見当たらない。たとえばベルナール・パリシーの道具手記(第296夜)とも、今和次郎の考現学(第863夜)ともまったく違っている。どちらかといえばハンフリー・ジェニングズの『パンディモニアム』(第248夜)がその近くに先行する。

 もともとベンヤミンは「個人にとって外的であるようなかなり多くのものが、集団にとっては内的なものである」ということに関心をもっていた。
 個人の内部性と集団の外部性を問題にしたのでは、ない。逆である。個人の外部性と集団の内部性に関心をもったのだ。それがベンヤミンの「集団の夢」なのだ。
 ベンヤミンが一貫して、個人よりも、こうした「集団の夢」に関心をもちつづけたことは、近現代思想のレパートリーではかなり特異なものである。なぜなら近代社会ではやっと個人や自我が歴史や社会と対応して、その確立と懐疑に向かえたからだ。それなのにベンヤミンは20世紀の半ばに向かっても、むしろ19世紀の集団が夢みた痕跡の解明にこだわった。それはヘタをすれば資本主義が商品や製品に託した幻影のようなものの追慕になりかねない。
 けれどもベンヤミンはそれをした。そしてその資本主義社会が19世紀の都市の隅々に投下したファンタスマゴリ(幻像)に、今後の社会がそれ以上のものを付け加えるのは不可能ではないかというほどの原型の羅列を見た。あとは「複製の時代」になるだろうと予想した。
 これはアナクロニズムだろうか。ぼくはそうは思わない。このような思索態度や記録態度こそは、これからやっと重視されるだろうと思われる。

 ベンヤミン以降の時代、それは大戦後の社会ということになるのだが、どんな場合でも集団よりも個人が重視されていく。まして集団に排除された個人や集団に埋没した個人については、その集団の意義を無視してまでも擁護されていくようになった。ベンヤミンはそれとはまったく逆の方向に歩んでいた戦時者だった。
 これはアナクロニズムだろうか。ぼくはこの点についてもそうは思わない。ベンヤミンにとっては「配列」と「布置」こそがすべてであって、そこから何が抽出され、そこに何が引用されたかが最大の問題なのである。個人とはその抽出と引用の質量の代名詞であったのだ。
 このことが示唆する意味は、ベンヤミンが若い頃から書物を偏愛し(これは予想がつくが)、それ以上に装幀に稠密な好奇心をもっていたことにあらわれている。ベンヤミンにとって書物とは、それが見えているときと、それが手にとられるときだけが書物であったからである。その書物の配列と布置と同様に、ベンヤミンには都市が抽出と引用を待つ世界模型に見えた。
 しかし、書物も都市もそれを「外側から内側に向かって集約されたもの」と見るか、それとも「内側が外側に押し出されたもの」と見るかによって、その相貌が異なってくる。

 そこでベンヤミンはさきほど述べた「個人にとって外的であるようなもの」と「集団にとっては内的なもの」との線引きに関心をもつ。
 そして、その線引きを「敷居」(Schwelle)とよんだ。ファンタスマゴリな閾値をともなう敷居である。
 のちにヴィフリード・メニングハウスがベンヤミン論でそう述べているのだが、ベンヤミンの業績のすべてにお節介な学問の名をつけるとすれば、それはやっぱり「敷居学」というものなのだ。
 しかし、意外にもベンヤミンは敷居そのものではなく、また個人が敷居を跨ぐ意識のことではなく、そのような敷居をつくった都市や百貨店や商品の現象のほうに記述の大半を費やした。それゆえ誰しも感じることだろうが、『パサージュ論』を読む者が驚くのは、その都市の敷居がトポグラフィックにも、精神科学的にも、また現象学的にも文学的にも、個人の意図も集団の意図も消しているということなのだ。
 ベンヤミンは敷居(たとえば門や呼び鈴)に意味を与えようとしなかっただけでなく、敷居を通過させるようにした装置そのものにのみ関心を注いだのである。

 さあ、これが「数寄のパサージュ」でなくて、いったい何であろうか。これまで多くのベンヤミン論者がパサージュの解明に挑んでいて、その多くがベンヤミンがたまさか使った「遊歩者」や「遊歩の弁証法」という言葉にこだわったけれど、これはどう見ても茶室の構造をその内容にも意図にもこだわらずに、そのパサージュのすべてを詳細にメモしようとした試みそのものなのだ。
 いやいや、茶室や数寄屋でなくともかまわない。ベンヤミンのようにその記述の対象はパリであってもかまわない。ボードレールの目であってもかまわない。
 いずれにしてもそこに「数寄のパサージュ」として記録されるのは、ベンヤミンの言葉でいえば「過去についてのいまだ意識されない知の覚醒」であり、「それによって視覚がずらされたのに、そこから出現してくる積極的な部分」なのであって、つまりは「寓意の数寄」を認証するための部分品リストなのである。

 こうして『パサージュ論』はさまざまな現代思想との対立の様相を呈してくる。なぜ、そうなるかといえば、ベンヤミンにとってはいっさいの主題はいっさいの方法によって包含できると思えていたからである。
 思想というものは主題にしがみつく。職人と商業は述語と方法を神とする。
 パサージュとは最初に書いておいたように、通過することだ。通過とは、茶碗でいうなら轆轤で成型をして窯に入れ、これを引きずり出すことである。読書でいうなら書物を店頭から持ち出してページを開くことである。むろんそれらの行為にはあらゆる意図がからみあう。けれども、その行為はいずれは終わる。終わってどうなるかといえば、それはどこかに配列されて布置される。それが都市というもので、社会というものなのである。
 写真は近代社会がつくりだした最も劇的な配列と布置を記録する方法だった。ベンヤミンは写真に注目し、「それはまだ複製ではない」と見抜いた。
 まさにそうである。写真はベンヤミンがいま記録したパサージュそのものなのだ。けれども、それ以降は、写真は複製され、印刷され、メディア化される。では、写真家が写真を撮ったときは何がおこったのか。パサージュがおこったのだ。その写真を見た者には何がおこったのか。パサージュがおこったのだ。
 では、これらの行為のなかでどこからが複製なのか。答えはあきらかだ。パサージュを忘れた者の意識のなかで、そのとたん、それは複製になってしまうのだ! 

 パサージュの積み重ね、それをぼくは「編集」とよんでいる。亡命戦時者だったベンヤミンは『パサージュ論』では最後の編集ができなかった。
 われわれはいま誰からも、どこからも亡命していない。それなのに、パサージュは街に転がったままにある

参考¶ヴァルター・ベンヤミン著作集は晶文社から全15巻で刊行されている。『パサージュ論』を除く主要なものはすべて収録されている。なかでぼくが最も好きなのは第15巻の『ベルリンの幼年時代』だ。ゴーゴリやゴーリキーや、ときに変な連想だが、ディートリッヒを思わせた。ベンヤミンがドイツ青年運動にかかわっていたことは、看過できない。それがどういうものだったかということは第749夜と、および『ドイツ悲劇の根源』(ちくま学芸文庫)を読まれたい。また、ベンヤミン自身が匿ってもらったことを含めて、ベンヤミンとブレヒトの関係も重要である。これについては第9巻があらかたを説明する。最後に一言だけ付け加えておく。ベンヤミンの文章は、速い。

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