ウォルター・ラカー
ドイツ青年運動
人文書院 1985
ISBN:4409230131
Walter Z.Laquer
Young Germany 1962
[訳]西村稔

 ドイツ青年運動と聞いてどのくらいのことがわかるだろうか。自由ドイツ青年団という名前を聞いて、いつどこで何をおこした組織だと思うだろうか。
 本書は副題に「ワンダーフォーゲルからナチズムへ」とある。ははん、それでわかったなどと思わないほうがいい。きっとそれは早とちりだ。ワンダーフォーゲルの原型にはドイツ精神の基本の半分くらいが突っ込まれている。しかもそのワンゲルはベルリンの高等中学校の「速記術研究会」から生まれた。そのときの遠足がそもそもの原点だった。
 ワンゲル、速記、遠足。なるほどそうか、それでピンときたなどとも思わないほうがいい。コトはそんなに直線的には結びついてはいなかった。
 ヒトラーが登場する以前のドイツをどう見るかということは、とりわけそのなかでの「ドイツ青年運動」をどう評価するかということは、いまでも現代史の最も難しい検証のひとつであって、そこから何を学ぶかということはいまもって歴史学があきらかにしえないままにある問題なのである。
 本書もそういう問題に答えてはいない。これまで霞のなかにあった運動の数々に光をあてただけである。

 そもそもドイツ青年運動のルーツのルーツは中世の「ブルシェンシャフト」(遍歴学生)にまでさかのぼる。とくにプロイセン絶対主義にもフランス革命にも与さず、しきりにドイツの伝統だけを愛した愛国的学生運動をルーツにしていた。そこには疾風怒濤とドイツ・ロマン主義が生きていた。
 しかし本書が扱うドイツ青年運動の夜明けを告げるワンダーフォーゲルは、世紀末と世紀初頭に世界中にあらわれたアンガー・ジェネレーション、アールヌーボー運動、フランスの「アガトン」、イタリアの初期未来派などと軌を一にしていたほうをさす。まずここまでの背景を理解する必要がある。
 ただしワンダーフォーゲルの青年たちは、フランスやイタリアやアメリカの青年とは違って、ひたすらノヴァーリスの主人公ハインリッヒ・オフターディーゲンやヘルダーリンの主人公ヒューペリオンを理想としていた。ワンゲルの精神は、この二人の人物、ハインリッヒ・オフターディーゲンとヒューペリオンが見えてこないとわからない。

 ワンダーフォーゲルがベルリン郊外のシュテグリッツに発祥したというのはひとつの伝説である。
 実際にはすでに予兆が胎動していた。テューリンゲン、ヘッセン、ホーエマイスナー、クロナッハ、イエナ、ゲッティンゲン、カッセルなどの「新しい群」(ノイエ・シャール)に蠢いていた。それはかつての義勇軍(フライシャール)や少年団(ユンゲンシャフト)の変形がもたらす揺動だった。担い手はほぼ全員が中産階級出の青少年たちである。
 それらの根っこに発端の火をつけたのが、1894年にヘルマン・ホフマンがシュテグリッツの高等中学校時代につくった「速記術研究会」だった。
 この研究会はときおり会員で「遠足」をした。その体験には何か新しい機運が感じられた。そこでホフマンと友人のカール・フィッシャーは、1901年11月4日の夕刻、「ワンダーフォーゲル・学生遠足委員会」という結社をつくり、規約を決めてパンフレットを発表する。

 これがワンダーフォーゲル誕生の“真実の瞬間”である。
 遠足はもっぱら近郊の山歩きと山渡りをおこなった。しかし、その前提には速記術研究会がそうであったように、ドイツ青年どうしの言葉と、その言葉を象徴する表象によるコミュニケーションの方法をさぐり、そこに新たな連携を確立するという目的がうずいていた。一人一人がハインリッヒとヒューペリオンになるべきだったのである。
 注目すべきは、この結社が自分たちの活動をまだあまり普及していなかった写真によって記録することを取り決めたこと、その記録を独自のイラストレーションとデザインによってメディア化しようとしたこと、つねにドイツの伝統文化を研究し、とれわけ民謡を掘り起こしてそれをワンダーフォーゲルの歌としていったこと、そして、学生の両親や親族たちを「オイフラート」として賛助会員にすることを忘れなかったことである。ロールとルールとツールの“ルル3条”が一緒に作動したわけだ。
 もっともまだ、みんなが揃いの帽子をかぶるとか、その帽子に羽根を飾るとか、シャツの色によって「ブント」(同盟)を分けるというような洒落たことはしていなかった。

 ワンダーフォーゲル運動は、しだいにさきほどあげた都市を中心に広まっていった。支部がたくさん生まれ、地区合同大会も開かれるようになった。
 最初は学生を中心につくられた運動も、日本のJC同様に次々とOBになっていく連中も出てきて、メンバーの幅も複雑になってきた。こうして1913年10月に、カッセル南部のホーエマイスナーに集まったリーダーたちによって、新たな「自由ドイツ青年団」(フライドイッチェ・ユーゲント)という上部組織が生まれることになった。問題が複雑になるのはここからである。
 いったんこういう上部組織が生まれると、そこからは行動方針、モットー、綱領、タブーなどが出てくることになる。自由ドイツ青年団はまず集会における飲酒を禁止し、婚前交渉に反対し、オーストリー=ハンガリーのドイツ人に対して友情と救済の手をさしのべることを決定し、さらにゲルマン人種の誇りをもつことを主旨にしていった。
 菜食主義、合唱団の結成、先遣隊(フォアトルップ)の組織化、支部新聞発行の義務化、男性同盟(メナーブント)の試みなども課題にあがったが、まだこれらは前提にはならなかった。ということは、しかしこうした先鋭的で分隊的な動きが非常に活発化していたということである。
 たとえば同性愛はこのあとずっとドイツ青年団につきまとう特徴となり、そこからは女性蔑視の「男性文化協会」といったオトナの組織も派生したものである。
 が、その一方で、女子の青年団加盟も頻繁になり、むしろ自由恋愛こそがゲルマン魂の真骨頂であるというような、のちに英国ブルーストッキング派に影響を与えるようなラディカルセックス思想も芽生えたのだった。
 こうして、ワンダーフォーゲル思想の大成者として知られるグスタフ・ヴィーネケンらによって、いわゆる「青年文化」(ユーゲント・クルトゥーア)というコンセプトが大きく浮かび上がってくるようになる。

 1910年代は、ヨーロッパに社会主義の最初の嵐が吹き荒れる時期である。2度にわたったロシア革命の直接の影響だった。ドイツに生まれた社会主義がロシアで開花してしまったのである
 この動きは当然に自由ドイツ青年団にも入りこみ、しだいに左派を形成していく。左派が生まれると、それまでは淡い愛国者たちも民族主義的な右派とみなされる。
 そこにプロテスタント運動が加わり、25万人の会員を擁していたドイツ体操協会の動きやドイツYMCAやドイツ・ボーイスカウトの動きもなだれこんできた。いちばん事態を複雑にしたのは、シオニズムの運動である。ユダヤ人運動だ
 ともかくもこうして、青年運動はそうとうに幅を見せ、驚くべき多様性を見せるようになった。
 そこにやってきたのが第一次世界大戦である。ドイツとオーストリアは汎ゲルマン主義の立場からトルコ側の三国同盟を組み、英仏とバルカン諸国が組んだ三国協商と戦闘をくりかえし、敗北した。ドイツは海外領土のすべてを失い、多額の賠償金を押しつけられ、人口の10パーセントを犠牲にした。
 それがどういう戦争であったかは省略するが、この戦争がドイツにもたらしたものははっきりしている。「大ドイツ」への声が巻き起こったのだ。

 そもそもワンダーフォーゲルも自由ドイツ青年団も、政治的には中立を表明してきた市民運動である。しかしそうであるがゆえに大戦以降は、この自由な雰囲気がかえってすべての政治活動の温床になることになった。
 しかもややこしいことに、左派も右派もキリスト教徒もユダヤ人も、ドイツ精神を熱烈に復興しようとした
 かくてドイツ青年運動の実力以上の期待がここに寄せられることになる。マックス・ウェーバーは新たな社会モデルとしての青年運動を認め、マックス・シェーラーはその反資本主義精神を称えた。ヘッセ、ゲオルゲ、シュピッテラーはそこに「東洋との英知」の連動さえ感知した。なぜ東洋なのかといえば、世界大戦とはそもそも“西洋の没落”を意味していたからである。誰もが次の青年運動の過熱に「フォルクス・ゲマインシャフト」(民族共同体)の起爆を期待してしまったのである。
 そしてここから二つのグループが新たな担い手として登場する。それが「ブント」と「ナチス」なのである。

 社会現象としての「ブント」を煽ったのは、シュテファン・ゲオルグの詩集『ブントの星』とそのサークル「クライス」だった。そこにはすでに「フェーラー」(総統)へのまだ見ぬ期待がこめられている。
 ゲオルグへの共鳴者はゲオルグより強力だった。ベルリンの牧師マルティン・フェルケルは新ボーイスカウトを結成して、「帝国」「騎士」「聖杯」といったゲルマン神話の再生を訴えた。ジョン・ハーグレイヴは「白狐」をシンボルとした「キッポ・キフト」(森林活動一族)を創設し、ある意味では古きよきギルドの再興意識をブントにもちこんだ。マルティン・フェルケルは「白騎士」をシンボルにスラブ魂に代わるゲルマン魂による第三帝国の可能性を劇的に謳って、強い関心を集めた。その白騎士憲章はのちのナチ親衛隊の基本構想に多くとりいれられたと言われる。
 かくてブントは新たなドイツのための“現代の騎士団”となったのである。そこではワンダーフォーゲルが理想としていた遍歴学生の理想はもはやなく、ただただ血の意志をもった軍人が、もっと正確にいえば義勇軍が理想化されていた。

 ドイツ自由青年運動が現代史に突き刺している問題は、この軍人化し義勇軍化していったユーゲントシュティールの動向のことをいう。では、なぜ、ワンダーフォーゲルに始まった青年運動が特殊に軍人化していったのか。
 この疑問に対する歴史の回答は、ドイツがあまりに惨めな敗戦を体験したからであるというものである。これはかなりまともな、お利口な回答ではあるが、もしその通りだとしたら、われわれはその後の歴史において惨めな敗戦を喫した民族や部族や国民が、どのような青年運動の変質をみせたかということにもっと注目すべきだということになるだろう。
 日中戦争では? 朝鮮戦争では? ベトナム戦争では? 何次にもわたった中東戦争では? 湾岸戦争では? すべての敗北と瓦解を経験した民族や国民や部族こそが、次の歴史の鍵を握ってきたはずなのだ。第720夜第738夜に少しだけ書いておいたように、エルマンジェラやサイードやチョムスキーなら、すぐにそのことに注目したものだ。
 しかしながら、惨めな敗戦のあとの民族の意識がどのように現代史のなかで変貌していったかという問題は、これまではほとんど注目されてはこなかったし、学習されてはこなかったのである。お利口な回答だけがいつも飾られてきたにすぎなかったのだ。
 たとえばイラン・イラク戦争におけるイスラムのムジャヒディンたちがどうなるかということは、湾岸戦争のときも、9・11の全米テロのときも、アフガニスタン攻撃のときも、今回のイラク攻撃のときも、いまなお議論されないままにある。

 問題はそうとうに複雑なのである。ドイツ青年運動がなぜ歪んでいったのかという問題は、おそらくこれからの現代史がかかえるべき重要な検証事項なのである。
 たとえば、こういうことがある。二つの例だけを出す。
 1926年に「ドイツ義勇軍」という組織が結成されたのだが、それをたんなる青年軍人組織とみなすのには無理がある。最初の指導者エルンスト・ブスケは古きよきワンダーフォーゲルを体験した人物で、名称こそ義勇軍というふうにはなっていたものの、その活動は今日の地域文化づくりの原型のようなものばかりを試みていた。たとえば義勇軍は各地に生涯学習のための「ボーバーハウス」(中央施設)をつくり、住民がたのしむための「音楽の家」を次々に開設し、さらには労働キャンプとよばれたボランティア・キャンプを営んでいった。
 すでにそのような指摘をした歴史学者もいるのだが、「ドイツ義勇軍」の活動は、もし少しだけでも歴史の時間がずれさえすれば、ドイツをヒトラーの戦争に巻き込まないだけの準備をしただろうともみなされるのだ。また、今日の地域コミュニティ活動や広汎なボランティア活動の直接の原点ともみなされるのだ。
 しかし、そうはならなかったのである。義勇軍はやがてブントに吸収されるか、そうでないばあいは「鷲と鷹」「ろくでなし」「義勇軍シル」「アルタマン」「ユナブ」「ユンゲントルフト」「ネローター」「セバスチャン・ファーバー」といった数多くの過激な結社に分派統合されながら、結局はヒトラー青年団の“熱情”によろこんで組み込まれていったのだった。

 もうひとつの例はエーベルハルト・ケーベルのことである。彼は通称「トゥスク」と呼ばれた一種のスターであった。
 少年期にはワンダーフォーゲル団に入り、次に義勇軍のメンバーになり、やがて複数の雑誌を編集して、レイアウト・タイプフェイス・イラストレーションに斬新な新風をおこした。
 のみならず、能楽師の大倉正之助君ではないが、いつもオートバイを駆ってドイツ中の少年団を訪れ、バラライカとバンジョーによる歌を披露した。着ているジャケットも自分のデザインによるもので、「そのうちこのジャケットをドイツ中で着るようになる」と予言した。実際にもこの青いジャケットがのちのヒトラー青年団年少部「ユングフォルク」の制服になった。
 トゥスクはラップランドの衣料や野外用品にヒントを得て、「コーテ」という新しいテントによるキャンプも流行させた。そのほか、いまでいうならアウトドア用品の多くに改良を加えた。これらすべてが人から人へ、グループからグループに伝わっていったのである。もしそのときナイキやミズノやGAPがあれば、これらはたちまち流行商品となったにちがいない。
 トゥスクはまた、つねに日本の「サムライ」の精神と北欧の「ノーマッド」(遊牧民)の生き方を強調しつづけた。なぜトゥスクがこのような武士道や遊牧道を持ち出したかということについては、歴史はまったく検証をできないままにある。
 ともかくも、こういうトゥスクのようなスターがブントや義勇軍のあいだから何人も生まれてきたのだった。

 ワンダーフォーゲルとは何だったのだろうか。
 気楽なトレッキングやおいしいカヌー遊びやお手盛りのキャンプ遊びとはまったく異なるものだった。
 ワンダーフォーゲルはなぜ世紀末や20世紀の劈頭とともに生まれてきたのだろうか。それはドイツ表現主義やロシア構成主義とは関係がないのだろうか。
 なぜかれらは、斬新なデザイン能力と加速する移動能力を発揮したのだろうか。そしてそれらがなぜ強靭なディシプリンにつながったのか。ほとんど何も説明されていないといってよい。

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