中村雄二郎
共通感覚論
岩波書店 1979
ISBN:4006000014

 デカルトのサンス・コマン(センスス・コムーニス=共通感覚)には、「常識」という意味と、また「心の座」あるいは「心身相関の場所」という意味とがあった。後者の共通感覚の問題が、いつしか前者の「常識」となり、さらに「常識」が一人歩きして、後者の「共通感覚」との密接な関係を忘れてしまうようになったのは、どうしてか。
 中村雄二郎はこのことに気がついて本書にとりくんだ。日本の哲学者の本としては、三木清や羽仁五郎このかただったろうか、珍しく熱狂的に迎えられた。
 すでにカントは「共通感覚とは、他のすべての人々のことを顧慮し、他者の立場に自己をおく立場のことである」と言っていた。マルクスは『経済学・哲学草稿』で、「五感の形成は、現在にいたるまで全世界史の一つの労作であろう」と、まことにマルクスらしい言い方をした。メルロ=ポンティはドイツの民族言語学のヘルダーを引いて、「私はヘルダーとともに、人間とは一個の永続的な共通感覚であると言いたい」と書いている。やはり過激なのはハンナ・アーレントである。『人間の条件』で、こう言っている、「共通感覚を奪われた人間には論理的な思考はできない」。
 このように先駆者たちによって指摘されてきた共通感覚を、さて中村はどのように料理して、統合したか。まったく脱帽するほどに巧みな編集的説得力に富んでいた。だいたいこの人はよほどの編集哲学者なのである

 共通感覚とは、五感をバラバラにしないで、つねにそのいずれかを複合的に組み合わせて発揮してきた知覚のことをいう。
 こんなことは古来、誰もがやってきたことで、ごくふつうに考えれば、われわれが「コップに手をのばしてその水を飲む」という行為の中に完全に成立しているものである。幼児だって、コップの水を飲めるようになったときは、完璧な共通感覚を発揮できたということになる。つまり、こんなことはそれこそ“常識”なのだ。
 ところが、ハンナ・アーレントが指摘したように、この共通感覚がいつしか“世界”となんの関係もない内部能力になってしまったのである。第541夜のシトーウィックの『共感覚者の驚くべき日常』でも紹介しておいたように、ハンバーグやマンゴを見るとそこにギザギザとかキトキトといった触覚や聴覚を感じるというのは、そもそもは人間が本来もっていた知覚能力だったはずなのに(幼児はそのような共感覚をもっていると想定されている)、いまやそのように感じられることを告げる能力の持ち主だけが「驚くべき日常者」だということになってしまったのだ。
 なぜ、こんなふうになったのか。中村は次のように跡付けをしてみせた。

 まず、古代ギリシア・ローマでは共通感覚はほぼ正確に捉えられていた。これはキケロに代表される「レトリック」(修辞学)が大きな力を発揮して、共通感覚をレトリックとして言葉にできる方法が確立したことを意味していた。
 共通感覚はリアルタイムな知覚のプロセスでおこっていることなのだが、それが言語として取り出せ、組み立てられるようになったのである。この方法を「トピカ」とよんでいる。
 このキケロ的方法を人間の能力の「常識」として謳歌したのが、ひとつはトマス・アクィナスらの神学者であり、ひとつがルネサンスの人文主義者たちである。前者は神を認知する認識の哲学としての共通感覚の重要性を指摘し、後者は共通感覚を詩歌から建築にまで及ぼすユマニスム(ヒューマニズム)として、広範な哲学にまでなった。
 その後、フランシス・ベーコンはキケロ的方法からとくに「トピカ」を活用して、共通感覚とトポス(場所)とレトリックを結びつけ、新たな「知の体系」まで組み立てた。いわゆるノーヴム・オルガヌム(新機関)である。
 これはどういうものかというと、一定の問題に対して一群の論点が対応するトポス(場所)を想定しておいて、そのことによって説明に必要な論点がいつでも探し出せるような仕組み(新機関)を考え出したのだった。ベーコンはこうすれば共通感覚はいつでもフルに動くと考えた。またベーコンは、知の組み立てには「技法や合理の発見」と「概念や論点の発見」との両方が必要で、それにはとりわけ「準備」と「示唆」が重要になるとみなし、その準備と示唆がつねに伴うような「知の体系」に挑んでいた。
 つまりこのような「知の体系」こそが、近世ヨーロッパの「共通感覚にもとづく常識」を形成するはずだったのだ。

 ところが、この組み立てがいったん崩れたのである。それどころか中村によれば、その後の近代ヨーロッパはこのような「方法」にも「知の体系」にも関心を払わないようになった。
 そしてそのうちに、常識(コモンセンス)は別の社会的な意味をもつようになり、そこから人間の知覚や知識の本来を支えていたはずの共通感覚との関係が忘れられてしまった。
 ただし、まったく忘れられたわけではない。中村はデカルト、トマス・リード、シャフツベリ、ヴィーコ、ベルグソンなどを採り上げて、それぞれの相違点をあきらかにしながら、とくにヴィーコにおいては「共通感覚にもとづく常識」による「知の学習方法」がほとんど再生されそうになっていたことを熱っぽく指摘している。
 ヴィーコはデカルトを批判して登場した哲学者であるが、デカルト以来、真理の厳密性を重視するあまり、知性の領域から共通感覚と実践的な知恵とが追放されすぎたのではないかと見た。そこで、「真か偽か」を問うだけではなく、むしろ「真らしく見えるもの」「偽らしく見えるもの」を総じて取り扱える方法を取り戻すべきだとして、『新しい学』を提唱した。
 しかし、ヴィーコの勇気も空しく、近代社会はセンスス・コムーニスを、社会的で公共的な知識を機能させる「常識」(コモンセンス)としてのみ市民権を与えたのだった。

 それでは、なぜ中村はキケロ、トマス・アクィナス、ベーコン、ヴィーコらに顕著な「共通感覚にもとづく常識」を喚起させる方法に、これほど関心をもったのか。

 おそらくひとつには、共通感覚を発現させる方向においてのみ、これからの時代社会における「自己と他者」を問題にする方法が集中していくのではないかと踏んだからだったろう。
 自己と他者というものはつねに「場面」や「あいだ」を媒介にしてコミュニケーションをし、相互の確認をしていくものである。その「場面」や「あいだ」には、人々がついつい忘れてしまっている共通感覚が必ずや呼び覚まされる必要がある。その共通感覚をキックする感性や話題や出来事が「自己と他者」の新たな動向をつくっていくはずであるからだ。
 しかし、その方法には「負」も必要だ。本書は冒頭に、マルセル・デュシャンの『泉』とジョン・ケージの『四分三三秒』が語られる。
 なぜデュシャンが便器をさかさまにし、ケージが音の鳴らないレコードを作ったかといえば、既存の判断力(センス)と諸感覚(センス)を、新たな「場面」や「あいだ」において転倒させて、人々にひそむ共通の基底をめがけて、芸術がもたらす動向の意味を問うてみたかったからだった。中村はそれを「場の約束事」へのマイナスからの提示だったとした。本書では鎌田柳泓や戸坂潤や中井正一においても、こうした試みがなされていたことが紹介される。

 もうひとつには、共通感覚にはそもそも身体や記憶や言語に関する最も重要な未然性が含まれていて、現代哲学や現代思想が身体や記憶や言語をつねに持ち出すというのなら、いっそそれらの母体たる共通感覚をこそ議論すべきなのではないかという見通しがあったからだったろう。
 本書で逆さメガネの問題からチョムスキーの生成文法論まで、トロンプ・ルイユの問題からベルグソンの記憶論までが幅広く検討されているのは、このためだ。
 こうして中村雄二郎は、最後に共通感覚論の将来は、きっと「身体とリズムの関係」や「述語に包摂される主語」の問題などへと発展していくだろうという予測をたてて、本書をおえている。話題になるのは当然だったろう。

 ところでぼくは、中村雄二郎の思想の“変遷”や“変化”にはかねてから共感に近い関心があって、とくに90年代に入って西田幾多郎やウィーク・ソートに向かっていった経緯には、もっと多くの読者が注目するべきだと思っている。
 本書はそのような中村の“大寄せ”の直前の姿があらわれている一書として、興味深かった。
 それにしても中村はずっと以前から、一冊の著作のなかでさえ自身の思索の変遷変化を粘り強く追跡するという、特異な記述方法を貫いてきた。
 ふつうは、自身の未熟や欠陥を自分で指摘しながらそれを埋め、補って、さらに前へ進んでいくなどという記述方法はとらないものである。多くの学者や思想家は、まるでそんなことはとっくに気がついていたと言わんばかりに、知ったかぶりをして書くものだ。
 けれども中村は、ごく初期のころから知ったかぶりを拒否しつづけてきた。そして、「気づき→訂正→拡充→飛躍→確認→新しい拠点の提示」という、いわばスパイラルに進んでいく記述の仕方を頑なに守ってきた。
 きっと誰かが、そのワインディングしながらもラッセル車のように進んできた軌跡をすべて辿ってみるとおもしろいだろうとおもうが、それよりなにより、ぼくはこうした中村的方法にいつしか共感していて、ときどきはその方法で論点をまとめてきたことがあったのだ。
 そのひとつを白状しておく。
 それは『空海の夢』において『即身成仏義』をめぐったときの記述である。あのとき、ぼくは知ったかぶりをして『即身成仏義』の解釈にすぐさま入ろうとしたのだが、ふと中村雄二郎を思い出して、自分が最初に「即身成仏」をいかにまちがえて解釈していたかを書く気になったのだった。
 中村さん、どうもありがとうございました。最近の、お体の調子はいかがですか。

参考¶中村雄二郎の論考や文章の多くは『中村雄二郎著作集』(岩波書店)に入っている。しかし、ごく手っ取り早く“中村学”に入りたいのなら、本書の前提部にあたる思索を示した『感性の覚醒』『哲学の現在』
(岩波新書)、『魔女ランダ考』(岩波同時代ライブラリー)、『西田幾多郎』ⅠⅡ(岩波現代文庫)、『場所』(弘文堂)などを読まれるとよい。もっと手っ取り早くは、中村学キーワードを辞書のように解読してみせた『術語集』上下(岩波新書)だろうか。なお、ぼくが中村さんと対話したものが『対話的思考』(新曜社)に収められている。ご参考に。

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