平岡正明
新内的
批評社 1990

 どれを読んでもスウィングする本を書ける著者は洋の東西にいないわけではないけれど、専門や分野などへいちゃらに、何の主題を書いても読者をスウィングさせられる著者は少ない。平岡正明はそういう秘芸の持ち主である。
 その平岡のいったいどの本をここに持ってくるかは、そんなこと決めておけばいいのにと思いながらいつも寿司屋で最初に何を握ってもらうかを迷うように、あれこれ迷った。

 実は手元になぜか検察に押さえられた『韃靼人宣言』(1964現代思潮社)があるので、何十年ぶりかで埃をかぶったそれを開いて、うーん、平岡はやはりのこと最初から秘芸の持ち主だったかと感心し、ではこれにしてみようかと思ったり、これまたあまりに厚いのでずいぶん放ったらかしにしていた函入り『大歌謡論』(1989筑摩書房)や『平民芸術』(1993三一書房)などもパラパラ引っ繰りかえして、平岡のものではこれが一番の大冊、一番高い本だからこれにしようかとも思ったりしていたのだが、結局はこの『新内的』になった。
 これが平岡の代表作というからではなく、表題と装幀が気にいっているのと、ぼくが新内が好きであるのと、この一冊も岡本文弥の新内にぞっこんになっただけの和風オタクではとうてい書けない超絶技法を随所に発揮しているからである。
 たとえば冒頭は「二上りエヴァンス」という、このヘッドラインひとつが平岡以外の誰もがとうてい思いつけないヌタの突き出し。1961年のニューヨークはビル・エヴァンスのヴィレッジ・ヴァンガードでの録音から、ふいに江戸情緒の「来るとそのまま喧嘩して、背中合わせの泣き寝入り」という二上り新内を思い出すというアエモノ趣向になっている(ちなみにアエモノは「和えもの」と書く。単なる「和」ではなく「和え」なのだ)。この冒頭短文はまだ超絶技法ではないけれど、それでもなおちゃんと「いよッ、平岡兄さん、お出まし!」の声をかけやすくしてくれている。
 ついでながら、五線譜で採譜した二上り新内をちょっとしたミュージシャンが今風に唄うと、フラメンコの「サエタ」のようになるらしい。これは孫玄齢が1989年10月の岡本文弥の会で披露したときのプレイを、平岡が聞いての愉快な感想である。

 さて、本書の言い分だが、これはいったい何が新内的なのか、どこが岡本文弥はすごいのかということにある。その理由を平岡は逃げないで、次から次へと啖呵を切るように書いた。それをいちいちここで点検するつもりはないけれど、ごく印象に残っているところを少しく、お燗してみたい。
 たとえば、豊後節が常磐津と新内に分かれたのは豊後節の二正面作戦だったろうというのは、当たっている。豊後節が男女の「相対死」(あいたいじに=心中)を煽るからと禁止されて、弟子筋がそれを常磐津・富本・清元などにして継いでいったとき、舞台を捨てて遊里に飛び出し、これをいささか実存主義的にしてみせたのが新内だったというのも、当たっているけれど、少し説明がいる。
 話を整理すると、まず豊後節が弾圧された。大坂の竹本座や豊竹座ではすぐに心中浄瑠璃の新作を打ち切った。元文元年の禁止令では江戸の市村座の上演中の演目に問題があるとのことで、興行中止令が出た。さらに上方節を語ることも、自宅で稽古をつけるのも禁止した。これでは豊後節は広がらない。この事件、「日本音楽史上最も過激な官憲の弾圧」と吉川英史は『日本音楽文化史』に書き、三田村鳶魚は八代吉宗と尾張藩主宗春の対立の余波でもあったという説をとった。

 ともかくもこれで仕方なく劇場音楽が割れていくのだが、そのとき劇場に残ったのが、豊後節(宮古路節)の名を常磐津文字太夫などと変えた一派で、ここに常磐津節が自立した。延享4年(1747)のことである。
 すぐにその常磐津派から小文字太夫が脱退して、富本節を名のった。宮古路薗八も宮薗節になった。のちに文化期、富本の語り手であった延寿太夫によって、以上の大きな浄瑠璃節の流れのなかでの最もニューウェーブでイナセな清元が出た
 一方、劇場を捨てたのが新内である。ただし新内が自立するまでには2段階半がある。最初は豊後掾の高弟の宮古路加賀太夫が富士松加賀太夫となって富士松節を旗揚げし、ついでそこから作曲名手の敦賀太夫が出て鶴賀若狭掾となり、その若狭掾が客分に迎えた加賀太夫が本名の岡田新内の名をとって、ここに富士松も鶴賀も合わせた新内が確立したという順である。新内は吉原で大流行し、二人連れで連弾(つれびき)しながら唄われた新内流しは、遊里の華となっていく。その新内をさらに中興したのが富士松魯中である。
 こういうことなのだが、この豊後節が弾圧されたとき豊後掾は百地三太夫の伊賀と甲賀の両立よろしく、二正面作戦をとったのではないかと平岡は指摘してみせたのだった。きっとありうることだったろう。平岡はまた、ふつうは常磐津・富本・清元を“豊後三派”とし、これに新内を加えて“豊後四派”などというのだが、これをカラマーゾフの兄弟に譬えたことがあった。こんな発想、平岡正明以外のだれもできるものじゃない。

 ところでその新内には昔から、「蘭蝶」「明烏」という、いずれがアヤメかカキツバタかと競われてきた名曲中の名曲があるのだが、さあ、どちらかと問われれば俺は「明烏」をとる、というのはぼくも賛成である。
 むろん作品の何をとるかは人それぞれの好みだが、こと新内に関するかぎりは「明烏」のほうがずっと文芸的純度が高いし、「蘭蝶」は新内本来の「骨を噛む哀切」とはちがうのではないかというのも、当たっている。
 「明烏」は鶴賀若狭掾が作った『明烏夢泡雪』のことで、のちに魯中が作ったパート2『明烏后真夢』ではない。どちらも浦里と時次郎の道行を唄ってはいるが、「夢泡雪」のほうが縹渺と二人の死の透明が伝わってくる。
 そもそも新内の真骨頂は心中を唄って「骨を噛むような切々たる哀切」を醸し出すというのが特徴だ。それにしては声色師の蘭蝶をめぐる女房のお宮と此糸の三角関係のもつれを物語る「蘭蝶」は、どこか心中自慢をしているようなところがあるんじゃないか、そうも平岡は指摘した。こういう切捨て御免なところ、ぼくが平岡ものを読みつづけた魅力のひとつだった。

 さて、本書には何十回も岡本文弥が登場する。そのことが書きたくて本書は『新内的』になったというほどの、この文弥こそが当代の新内名人なのである。
 確認していないのでわからないが、きっと平岡は90歳近くになってからの文弥を聞いて、ぞっこんとなったのだろうとおもわれる。なにしろ、ぼくも駆けつけていた平成6年(1994)の日本橋三越劇場での会が、なんと「岡本文弥百歳現役演奏会」なのである。90歳でも遅くない。ちなみにこのときは、門人揃っての「子宝三番叟」や山川静夫の話につづいて、『お吉人情本』『新内道中膝栗毛』を挟んで聞かせたラストの『ぶんやありらん』が凄かった。途中で嗚咽が始まって、朴慶南が花束を贈呈するまで止まらない。だってアリランが新内なのである。作曲は金信だった。泣かされた。
 しかしウルウルしてばかりのぼくとはちがって、本書に綴られた平岡の文弥を聞く耳と目は、まさに一調二機三声の、そのどれをも聞き逃さないピューマのようになっている。『明烏』の文弥、『次郎吉ざんげ』の文弥、『ふるあめりか』の文弥、『今戸心中』の文弥、『唐人お吉』の文弥‥‥、平岡はそのいちいちを異唱論として議論の対象にし、文弥の名調子がオキ浄瑠璃をおえたあと、どこからやるせない新内節になっていくか、あたかも照準器で獲物を狙ったかのように正確に言い当てていく。
 こんなふうである。みなさん、これが岡本文弥で、平岡正明なのである。では、たっぷり。

  (明烏夢沫雪) さすがに新内最高曲の「明烏」、だれで聴いてもよさがあるが、テープで聴いただけでも文弥は別格だと思わせるのは、文面で書き出せばとくべつ凄味もないこういう箇所で(だれが演じても粒立つのは口説の部分)、文弥のテキスト・クリティークの正確さを感じる。
(唐人お吉) 文弥のはスキッとしている。コハダの酢のもので日本酒を呑む味わいで、もののみごとに舶来品のにおいをおとした。
(唐人お吉) 「畜生、ひとをおもちゃにしやがって、お吉はな、そんな甘いんじゃねえンだぞ」という文弥のセリフ廻しがまた完璧。このセリフの方向感は他人に向かって切る啖呵ではなく、しみじみ自分を憐れむ口調。岡本文弥の表現力の高さを感じさせるのはここで、お吉はいぜんとして藤圭子イメージの延長にあって、突然、藤圭子が山田五十鈴に変わってしまったりはしないのだ。
(都々逸) 岡本文弥が男芸者一八の鼻歌として都々逸を歌ったとき、なるほどと思ったのは、下手にうたったことだ。腑抜けて、へらへらしている一八のキャラクターを、これ一つでしめした。
(鶴女房) 岡本文弥の鶴や河童を歌った創作新内は、その自然観がおおらかで、鳥獣戯画的ユーモアがあり、また人と鳥獣の交感のありさまが、古(いにしえ)の名僧たちのように彫が深い。
(次郎吉ざんげ) 85歳のときの演奏は鼠小僧次郎吉に壮年の血気があって(中略)、スラリとあけはなった引窓のうしろは満月、手ぬぐいの頬かむりをとり、懐にねじこんで部屋に入ってくる次郎吉の男前のよさに、賊から素町人への早替りの切れ味のようなものを感じさせるが、92歳の時の演奏では窓のうしろは糸のように細い三日月、次郎吉は影のように忍び入ってきて、行燈の灯のなかににじみ出てくるように感じる。
(ふるあめりか) ここで場景一転、やるせない新内節になる。この一節で上野本牧亭の空気がスッと変わった。そういうふうにやるのか! ジャズの中でブルースに下りるあのスリルそのままだ
(今戸心中) 岡本文弥は原作のこのセリフの頭に、「そりゃ誰故ぢゃこなさん故、とはいわないけれど」というひとことをかぶせただけなのである。たったひとこと――それがガラリと明治の中へ江戸を象嵌する異化効果を発揮している。引用というよりまさに借景である。
(蘭蝶) 岡本文弥が名人だからそんなことがより適確に伝わってくるのだが、日本の語りもの文芸は本来そうしたものだ。サブジェクト、オブジェクト、テンス、ジェンダーといった西洋流なしで、心理が情緒であり、情緒が論理であるところから、ゆらゆらと行動が出てきて、次の情景に移るというやりかたが。

 
では、ご挨拶。新内を知らないのならともかくは本物を聞くことであるが、それだけで新内の味がわかるとはかぎらない。ぼくは江戸俗曲をよく聞いている玄人素人をたくさん知っているが、新内の気味をぴたりと言い当てた御仁に出会ったことはない。みんな漠然として、「いいですねえ」だけなのだ。
 こういう連中にも、初めて新内に入った者にも、本書第8章「文弥節で『明烏』を聞く」はお薦めだ。CDをかけないでも、せつない三味線の絃やふりしぼる歌声が行間から鳴ってくる。いや行間ではない。行ごとに当たってくるようだ。
 そうなのだ、平岡正明の文章は「当たる」なのである。当体全是なのである。探って当たり、泳いで当たり、回って当たる。これが超絶技法のひとつだった。
 『明烏』の聞き方も、「げに尤もと頷きて、互いに目を閉じひとおもひ。ひらりと飛ぶかと見し夢は、覚めて跡なく明烏後の、噂や残るらん」の段切れだけについてさえ、さあ、いったい烏は鳴いて飛んだのか、飛ばなかったのか。そのとき縛られていた浦里はどうしていたか。烏が鳴いたのは「見し夢」の前か後なのか、ということまで詰めていく。
 しかもこの段切れのあいだに、ピアソラと藤沢嵐子のタンゴが鳴り響き、アンブローズ・ビアズの『アウルクリーク橋』が蘇り、イブ・モンタンのシャンソンさえ聞こえてくるわけなのである。宮地敦子の『新内明烏考』も、さすがにここまでは及ばない。これがヒラオカセーメーの新内的だった。

参考¶ぼくの手元に押収ラベル付の『韃靼人宣言』がなぜあるかだが、さきほどいろいろ思い出してみたけれど、どうも経緯がわからない。ひょっとして田辺繁治から預けられたのだろうか。まだ早稲田の露文学生あがりの平岡が「犯罪者同盟」を結成していたころに機関紙「赤い風船」に書いた名文だった。なお、『新内的』につづいて2年後に『浪曲的』(青土社)が出て、すでに「新内と浪曲の密通」を指摘していた平岡の、ついに「破の急」あたりの大詰め間近の語りが始まった。


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