フレッド・アラン・ウルフ
もう一つの宇宙
講談社ブルーバックス 1995
ISBN:406257098X
Fred Alan Wolf
Parallel Universes 1989
[訳]遠山峻征・大西央士

 ウッディ・アレンがこう言ったという。「目に見えない世界があるのはまちがいない。問題は、それがミッドタウンからどれくらい離れたところににあって、何時になったらオープンするかということだ」。
 目に見えない世界というのは、そこに未知の情報があるだろうということである。そこにはきっと新しいレストランがオープンしていて、これまで見たことのないようなメニューが用意されているのだろう。それなら早くミッドタウンの地図を片手に走りたい。
 もう一人、登場してもらう。アルバート・アインシュタインだ。アインシュタインはこう言った。「数式であらわされた法則が現実を記述するかぎり、その法則は信頼に値しない。法則が信頼に値するかぎり、それは現実を記述するものではない」。

 アインシュタインは、未知の情報に関しては既存のどんな数式も法則も役には立たないと言ったわけである。
 地図はない。ひょっとしたらミッドタウンから近いかもしれないけれど、既存の道順ではそこには辿り着けない。そう、言った。では、既存の数式も法則も役立たないような、そんな誰も知らない未知の情報を、いったいどうやって知ればいいのかと、ウッディ・アレンが聞いた(はずはない)。
 アインシュタインはどうしたかというと、ネイサン・ローゼンと組んで「アインシュタイン=ローゼン・ブリッジ」というカッコいい橋を宇宙に架けて、そこから未知の世界を見ればいいじゃないかと言った。そして既存のものではない数式と法則をつくればいいと考えた。
 これはアインシュタインならできそうなことである。しかしウッディ・アレンにはその“橋上の数式”から未知の世界像など、見えてはこない。それを強要するのは可哀想だ。もっとも、アインシュタインにも歩の悪いところがあった。仮に“橋上の数式”が何かを指示しているのだとしても、それが観測できなければ科学は科学にはなれなかった(と、思われていた)からである。
 実際にもそのような“橋上の数式”による未知の情報は、これまで確認されてこなかった。たとえばブラックホールはその“実在”こそ指示できたけれど、その「穴」の中の情報は見えないままにある。だとすると、未知は未知のままで終わりそうである。

 しかし、そんなふうに考えこむのがまちがっていた。
 未知の世界とか未知の情報というものは、それを既知にするためにあるものではなかったのだ。それは観測するためにあるのではなく、そのような未知の情報によって宇宙がつくられているのかどうかを、われわれはどのように納得するか。そのほうがもっと大事な問題だったのだ。
 ブラックホールの例でいえば、そこを「未知の情報があるということを本質としている実在」とみなせるかどうかが重要な見方なのであって、その未知の情報が辿れないからといって、そういうものは実在していないなどとは批評すべきではなかったのである。
 ということは、ウッディ・アレンのあてずっぽうこそが正解だったということである。ただし彼には、なぜ自分がそのように思えたのかが説明できない。彼はこう答えればよかったのだ。「ぼくがここにいるということそのことが、すでに未知の情報をつかったうえでのことだったわけよ」。

 ところで、宇宙好きの諸君らの一番の問題は、実は「情報」というものをちゃんと掴めていないということにある。
 情報というもの、最初はたいてい化学的な高分子のセットのかたちをとっている。だからその情報フォーマットはそのまま生命体にも変換できる。これがDNAなどの遺伝子情報になる。生命の本質を一言でいえば、情報高分子が自分を維持するための生体膜をもったということにあった。
 そうやって発生し、進化してきた生命体は、やがて植物となり動物となって、その一部の生物が体の中に不出来の神経系をつくり、次に上出来の脳をつくっていった。まさに情報編集のための体内センターの確立だ。そして次には、そのセンターの活動の一部が線分や言語やメロディとして体の外に投げ出され、それが社会の中に入りこみ、いろいろなメディアと交じって生きのびてきた。
 こういうわけだから、われわれ自身がすでに情報体なのである。
 しかし、ここまでの話だけではまだまだ「情報」を捉えたことにはならない。ここであきらめるのが諸君らの悪いクセである。

 そもそもわれわれが地球上にいて、何億光年だか何百億光年だかの遠方からやってくる星の光を認めているということそのものが、「情報のあらわれ」なのである。そう、考えなければいけない。
 なぜなら、星の光というのは「時間のあらわれ」であり、情報はその時間に乗ったり、その時間を含む時空間のどこかに刷られているプリント柄のようなものであるからだ。
 諸君、われわれは最初から宇宙的“原々原々”情報状態の中にいるということなのである! その原々原々情報をもとにして、植物が光合成をしてあれこれの情報高分子をつくり、その原々情報の特徴をまた使って、動物が神経系のようなごくごくちっぽけな情報処理システムをつくり、その原情報をもとにしてわれわれはいま何かを考えたり表現しているわけなのだ。
 なにごとにも「原」があり、そのまた「原」の「原々」や「原々原々」がある。
 だから、われわれにいま知覚できない情報系がこの世にいくつもあったとしても、べつだん何の不思議もない。

 もっとも「この世」というのが甚だ怪しいもので、いったいどこからどこまでを「この世」と見るかは、巨きな原々原々情報系からすれば、どうにも決定できないことである。つまり「現在」ということがはっきりしないのだ。
 たとえばわれわれは晴れていさえすれば、今晩も満天にキラキラ光る星を確認するはずだろうが、その星の光は「大過去に発した情報」であり、その光を受けているのは「現在のわれわれ」ということなのだから、さていったいそれらのうちのどこを切り取って「この世」と言うのかは決めがたい。
 それなら、どこからが「この世」、どこからが「現在」と決めるより、時空まるごとに多様な情報世界がいろいろ動きまわっていると考えたほうが手っ取り早いということになる。
 本書は実は、そのような切り取り不可能な、多様で無限の時空的情報世界に諸君を案内してくれる本なのである。ミッドタウンにあるかもしれない「もう一つの宇宙」とは、このことだ。

 著者のフレッド・アラン・ウルフはUCLAで理論物理学を教えたあとサンディエゴ州立大学に移って、次々に説得力のある著書を発表しつづけている先生である。
 とくに“Talking The Quantum Leap”が全米書籍賞を受賞してベストセラーになった。邦訳は『量子の謎をとく』で、本書と同じブルーバックスに入っている。
 新書に入ったからといって多寡をくくってはいけない。量子力学を解説するものなら、ぼくもおそらく50冊か100冊くらいを読んできたかとおもうけれど、ウルフの本は量子力学が迷っていた70年代をおえた1981年の刊行だということを別にしても、実に多様に物質的な世界観や波動的な世界観の“はざま”にある動向を、巧みに描出してみせて冴えていた。
 とりわけ、われわれが“in here”と“out there”とをどのように区別したかという視点をうまく操っていた。

 ぼくも“here”と“there”という言葉はよくつかってきた。ウルフの言う“in here”は「内のここ」を、“out
there”は「外のむこう」をさしている。
 われわれが暮らしているユークリッド空間では、この二つの言葉の“あいだ”にはたいした差異はない。「ここ」と「むこう」は結局のところは連続してつながっているからだ。「ずうっとむこう」といったって、そこはしょせんはつながっている。おまけに地球は丸いから、「ここ」は結局のところは「むこう」からの差し込みなのである。けれども「ここ」と「むこう」が極端に離れていたら、どうなるか。地球上と宇宙の彼方というふうに。
 そうすると、そこには「ここの時間」と「むこうの時間」、「ここの物質」「むこうの物質」ともいうべきほどのオーダーの差異が出る。あてはまる科学も時空モデルも変わってきてしまう。ウルフはこの“in
here”と“out there”の比喩を巧みに操って、前著も本書もうまく議論を誘導してみせた。なかなか、だ。

 本書は並行宇宙論を扱っている。並行宇宙論とは、この世界には原則的には無限個の並行宇宙があっていいとする、たいへん不埒な見解をいう。並行というのは、それらが同時にあるということだ。
 宇宙がいくつもある? 無限にある? 同時に? そんなことはとうていありえないか、あったとしてもイメージなんてできっこないと思うだろうが、そんなことはない。なにをもって「宇宙」とよぶかにかかっている。
 たとえば1キロの長さの中には100メートルは10個だが、1メートルは1000個ある。だが諸君、点の数なら無数なのである! まして宇宙というものが「情報の時空」だというふうに捉えられるなら、原々原々情報を一つの単位とでもしてみれば、これは宇宙がいくらあったっておかしくはない。
 すでにブラックホールが並行宇宙仮説につながる位相幾何学的な「穴」であることが何度も指摘されてきた。このとき「穴」を何と見るかがちょっと工夫のしがいがあるところ、宇宙物理ではブラックホールの「外」から眺めてその「むこう」が見えないときに、それを「穴」とよぶことにした。そのギリギリのところをシュワルツシルト半径という。
 宇宙にもこういうギリギリがある。それを「宇宙の地平線」という。ただし、宇宙の形はまだ決まっていないから(球形のようなリーマン型か、馬の鞍のようなロバチェフスキー型か、それとも別の型なのか)、その「むこう」とか、そこに「穴」があるとは考えてはいけない。そこは次のように考えるべきなのだ。
 宇宙はビッグバンの当初から、いくつもの宇宙に分かれて隙間をつくりつつ発達してきたのではなかったか、というふうに。

 もともと並行宇宙論の出発点は量子物理学だった。量子物理学が提示した物理像は数々あるが、穿っていえば、次の3つの見方をルールにした物理学のことをいう。
 第1に、やたらに微小なものは大きな世界で何かを見せるふるまいをしていない。第2には、そういう微小なものはその観測者から客観的に独立して存在することはできない、第3に、以上の前提によって、一見してこの宇宙の秩序は崩れたように見えるだろうが、この宇宙にはきっと未知の秩序がひそんでいるはずだ。
 この3つだ。そこでこの出発点を前提にしてみると、宇宙のある部分は一つの可能性に従っているが、別の部分は別の可能性に従っていたってかまわないということになる。そういう別々の可能性に従った“実在”があってよいことになる。この“実在”とは、もう諸君も見当がついただろうけれど、「情報」なのである。
 なぜ実在が情報かということがまだわからない諸君には、情報とは、見えないところからやってくるメッセージの可能性だというふうに考えてもらうといいだろう。部屋があってドアがある。そのドアから次にやっくるものが情報だ。
 このとき、その情報はドアを入ってくる前からすでに可能性として“実在”していたはずである。いや、そのようなものを情報というわけなのだ。

 このような見方で多様な時空を眺めてみると、ほら、宇宙は「どこでもドア」ばかりに満ちていて、それゆえ原々原々情報が待ちつづけているということになってくる。
 並行宇宙論とは、この「どこでもドア」に関する説明を、量子力学と相対論力学との両方をつかって説明する挑戦なのである。どこをどうつなげるとうまく折り合いがつきそうで、何を見まちがえると失敗になるかは、本書を読まれたい。
 諸君は「すべては一つ」という統一像を求めすぎているか、「すべては変化する」と思いこみすぎているのである。しかし「すべては一つ」を説明する方法と「すべては変化する」を説明する方法とは、宇宙論ではなかなか合致してくれない。いや、社会の中でもうまくは折り合わない。ここはいったん自分が知っている説明方法を放棄することだ。さもなくば「既知」と「未知」とは両方とも情報であることを観念すべきなのである。
 アウグスティヌスはこう言った、「時間とは何かと訊かれれば答はわからないが、訊かれなければわかっている」。ウッディ・アレンはこう言ったそうである。「並行宇宙? それがうちの女房とのあいだにあることじゃないって保証してくれたら、説明してあげるけどね」。

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