ヤーコプ・フォン・ユクスキュル
生物から見た世界
思索社 1973
ISBN:4783502056
Jakob von Uexkull Bedeutungslehre 1934
[訳]日高敏隆・野田保之

 フォン・ユクスキュル。それからダーシー・トムソン。
 若き日のぼくが聞き耳を立てたアーティストたち、たとえば杉浦康平、磯崎新、河原温、ナム・ジュン・パイク、奈良原一高、川田喜久治、武満徹、大辻清司、北代省三‥‥たちが、この二人のことをしばしば口にしていた。「やっぱりユクスキュルの環境世界という見方が必要なんだよ。ダーシー・トムソンの生物から見たデザインだよね」。
 当時、デザイナーや写真家や作曲家は、自分が世界を切り取っているのか、世界が自分を切り取っているのか、ちゃんと考えていた。人間は自然にフィルターをかけて歪曲して再生しているのか、それとも単に自分の心象を世界だととりちがえているのか、よくよく考えていた。そのころ27歳か28歳だったぼくは、そうか、そこまで考えているものなのかと思った。
 さっそく読んでみた。とくにユクスキュルである。断然にすばらしい。以来このかた30年がたったけれど、この本はいまなおぼくの大事な大事なアンチョコになっている。いま思索社という版元はなくなっているとおもうけれど、ぜひとも本書をどこかで入手されるといいだろう。とくに情報とか意識を表現しているつもりになっているクリエイターの諸君は――。

 ユクスキュルが提起した問題を一言でいえば、われわれは自然界の本来の情報を変形して知覚しているのであって、加工した自然像しか見ていないのだということにある。では、何によってどのように自然界を加工しているのか、ということだ。
 われわれは視覚では周波数の限定をうけ、聴覚でもまたヘルツの周波数の限定をうけ、空中高度や海中深度では気圧や水圧の限定をうけている。そのようなわれわれが「ありのままの自然」なんて知覚しているはずはない。つねに知覚メガネをもって自然と接している。しかも、この知覚はメガネのようには、はずせない。内属しているメカニズムとしての知覚なのである。
 したがって、このような「知覚によって対象化された世界」はズブ自然ではない。ナマ自然じゃない。では、そのような変形された自然世界を何とよべばいいのか。ユクスキュルはそれを
“Umwelt” すなわち「環境世界」と名付けた。

 “Umwelt” は知覚世界(Merkwelt)と作用世界(Wirkwelt)が共同でつくりあげている「半自然=半人工」の世界像である。
 作用というのは、犬の嗅覚やトンボの目やメガネや望遠鏡や写真機などの知覚的な道具と、サメの尾鰭やタカの爪や旋盤や炉や窯や工場全体のような作業的な道具とによって知覚器官にもたらされた作用のことをいう。
 この限定された知覚作用と特化された道具作用によって、さまざまな動物の “Umwelt” の像はそうとうに異なってくる。
 モグラにとっての環境世界はモグラが突き進む作用能力そのものと一致し、ハエの環境世界は明度空間と匂いの分布を重ねたような
“Umwelt” をもっている。一本のカシワの大樹は、われわれには空に聳える一本の大樹に見えているものの、キツネにとっては刳り貫かれた穴の世界であり、フクロウにとっては危険から遠ざかるための保護世界であり、カミキリムシにとっては巨大な食物市場そのものである。
 自然はひとつではありえず、自然像もひとつではありえない。すべての動物それぞれが異なる知覚と作用のメカニズムによって、それぞれ別の自然観を具体的に携えて生きているものなのだ。そのような
“Umwelt” を、総じて自然とか世界とよぶのはまったくおかしなことなのだ。

 こうした考え方をユクスキュルが最初に発表したのは、1892年から1905年にかけておこなった調査をまとめた『動物の環境世界と内的世界』(Umwelt
und Innenwelt der Tiere)だから、驚くべき早期の卓見だった。
 その後もユクスキュルの探求と推理はやむことなく続き、研究生活の後半では「トーン」(ton)という概念を駆使するにいたっている。
 トーンというのは、動物たちがその世界像をもつための特定フィルターのようなものである。ミミズを捕食するカエルにとってのトーンは数センチの棒状のものとの出会いがつくっているトーンである。だからカエルはミミズとゴム屑をまちがえる。ムクドリにとってはハエの飛び方のトーンがムクドリの世界像をつくるフィルターになっている。だからムクドリはハチとハエをまちがえる。
 われわれもこのようなトーンを使って外界を見ている。デパートやブティックで特定の洋服を探すときは、このトーンをフィルターに使っている。お目当ての洋服を探すとき、アタマの中でそのお目当てにあたる適当な
“像フィルター” を用意しているはずである。デパートの売場責任者にとっては洋服売場のすべての商品はみかけも実質もディスプレイ通りではあるが、そこから特定のお目当てを見いだしたい客にとっては、その見いだしたいトーンによってしか、その売場は見えてはいない。
 トーンとは、知覚と世界の「あいだ」を占めている調子フィルターなのである。いまならトーンといわずに、志向姿勢とか統合的クオリアとか言ってもいいだろう。

 ユクスキュルはこのトーンとしての調子フィルターを「意味」ともよんでいる。
 犬に向かって男が石を投げたとすると、それ以降、犬は石をぶつけられることに抵抗するようになる。しかし、その抵抗は犬の意志によって抵抗しているわけではなく、石的なるもののトーンを見分け、そういうものが自分に投げつけられるときの相手の動作のトーンを観察して反応するだけなのだ。
 人間にとっても、石のトーンはさまざまな複合性をもって成立する。たとえば道で石につまずいて恥ずかしくなるほど転んだ者は、その後は石のトーンのみならず道のトーンや坂道のトーンを注意深く知覚するようになる。ということは、その人間にとっては、道は新たなフィルターを通した
“道像” あるいは “像道” になったということなのだ。
 われわれは羹(あつもの)に懲りてナマスを吹く動物であるが、それを笑うべきではなかった。すべての動物は羹をフィルターにして自然界のナマスを知覚できるようにしただけなのだ。
 これはギブソンが提唱した「アフォーダンス」にも似ているところがあるが、ユクスキュルにおいてはその考え方がより生命生活的であり、また知覚生物学的だった。

 こうしてユクスキュルは、知覚の世界の只中に “その意味を利用するもの” というキャリアー(担い手)あるいはインターフェースの視点をもちこんだ最初の生物学者となったのである。
 そのために「知覚標識の担い手」(Merkmatrager)という概念や「補体」(Komplement)という概念もつくった。そういう概念想定にはつねに勇気をもってあたった生物学者だった。
 たとえば花の色は少女にとっては乙女チックな視覚標識だが、アリにとっては筋のついた葉の裏だけが触覚標識であり、ミツバチにとっては花弁の温度が補体なのである。これらのことを前提にし、ユクスキュルは次のような興味深い仮定問題を提供もした。
 われわれはたくさんの鏡とともに暮らしている。そしてそこに見えている「私」をそのつど確認している。だが、もしその鏡に映った自分の姿の大きさ(すなわち自分と鏡との距離)が、その鏡を見るたびに鏡から発する音によって告知されるようになっていたら、われわれはその音の違いをこそ自己像としていただろうというのである。
 ドイツ語では、小さな鏡をたくさん並べて合わせ鏡とする子供の遊びのことをグロッケンシュピールというので、ユクスキュルはこのような見方で世界との関係を眺めることを「グロッケンシュピールの問題」というふうに名付けた。たいへんにカッコいい。いや、おもしろい。

 さらに突っ込んで、ユクスキュルが天才的に提示してみせたことがある。
 動物や人間は、自分が自分の周囲と適合するために少しずつ世界を広げて生きているように見える。そして、自然(都市でも家でもいいが)を征服するか、自然と共生するか、もしくは自然の一部をとりこんで、自然世界を自分たちのものにしているとおもいこんでいる。
 けれども事実はその逆であって、動物の知覚も人間の知覚も、自然世界が押し付けて型抜きしたものなのではないか。そう見るべきではないかと言い出したのである。
 われわれの知覚が世界を認識したのではなくて、環境世界が「知覚標識の担い手」をわれわれに送りこんで、動物や人間の知覚フィルターをつくったのではないか。そのようにユクスキュルは見方を逆転させたのだ。
 そうだとすると、いろいろ大胆な仮定が次々に提出できるようになる。たとえば、仮に “動物的自分”
だとか “本能的自分” だとか “無意識的自分” などというものがあるとしても、それは環境世界によって「負の型」として形成されたものだということになるわけなのである。「私」というトーンは
“Umwelt” がつくっているということなのである

 ユクスキュルはこの「負の型」ことを「抜き型」(Hohlform)とよんでいる。 これまたなかなか、うまい言い方だ。
 “Umwelt” はすべての動物たちの仕立て屋さんである。その仕立て屋によって「抜き型」されたものが、われわれ生物の知覚装置なのである。
 それだけではない。動物たちがつくりだすデザイン世界にも、その「抜き型」は及んでいる。クモにとってはハエは最大の食料である。そのためクモが何をしているかというと、クモの巣にハエの抜き型をつくっている。ハエはたいへん雑な目の持ち主なので、クモの巣のうちのどこかに仕込まれたごく細い抜き型が目に入らない。そこでハエはそこをめざして飛んできて、ハイ、一貫の終わりということになる。
 ひるがえって、生物たちの形態そのもの、文様そのものが、大きな意味での「抜き型」であり「負の型」だったのである

 ユクスキュルは、世界や現象を語るにあたっては「巨大な装置を持ち出すな」と言いつづけた生物学者だった。そういう恥ずかしいことを考えるなと言ってきた。
 そうではなくて、世界や現象に因果関係があるとすれば、それは「ある部分に原因と結果が同時的におこっていること」で説明できるはずなのである。それがドングリの形やヒマワリの運動が示しているものであり、ハイエナの鼻の作用や人間の赤ん坊の作用が示していることなのだ。
 問題の解決をはるかなる過去に求めるのはやめなさい。問題の解決をはるかなる将来に期待するのもやめなさい。すべてのデザインと、そして「意味の編集」は、目の前にこそころがっている。ユクスキュルはそう断言してみせたのだ。
 Umwelt、Umwelt、Umwelt!

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