米山優
情報学の基礎
大村書店 2002
ISBN:4756320287

 こういう人の登場を期待してよい時代になったのか、それならいいのだがという、そういう感慨がある。
 スタッフによると、本書には70カ所以上にわたってぼくの著書についての言及もしくは引用があるという。本文330ページのなかで、たしかにこれは多い。『花鳥風月の科学』『フラジャイル』『知の編集工学』『情報の歴史を読む』『知の編集術』などである。さっそく読んでみた。
 著者が東大人文科学の出身の哲学の研究者で、ライプニッツの知性論や前後期哲学の翻訳に携わり、イタリアでの研究機関をへてその後に『モナドロジーの美学』(名古屋大学出版会)を著していたことは知っていた。サブタイトルに「ライプニッツ・西田幾多郎・アラン」とあるように、著者が西田やアランに並々ならぬ関心を寄せているのも、また福居純のデカルト研究から大きな影響をうけているのも見えていた。
 しかし、ぼくの編集工学研究やフラジリティをめぐる思想にこれほど踏みこんでいるとは、まったく予想していなかった。
 そこで、本来ならば本書の概要やエッセンスを案内すべきところを、試みにぼくの“思想”がどのようなコンテクストのなかで“編集”されているかということを、引用されたぼくのほうが“編集”してみようかとおもう。ちなみに、ぼくは著者本人とは会ったことがない。たまにはこういうことがあってもいいだろう。

 著者が本書に「情報学」という名称をつけているのは、「情報」の出所になんらかの「秩序の生成」があるとみなしているからである。
 もしそうであるのなら、生命活動意識活動言語活動社会活動から生まれるさまざまな情報の生成過程には、なんらかの秩序をつくりだす編集がおこっていたはずであり、その編集の特徴を見極めることが新たな自然情報学や社会情報学を展望させるのではないか。そのためには雄弁的な思想から散文的な思想に移行する姿勢が必要になるのではないか。著者はそういう観点で論述を進めるのである。
 途中、アラン、福居、ライプニッツ、西田、養老猛司、清水博、丸山圭三郎ほか、多くの見解が紹介されているが、そのうえで、第5章「テクストの未来」に入っていく。すでに著者は次のような表明もおえている。

 松岡正剛氏は「情報処理」という言葉に代えて「情報編集」とするべきだと言う。「処理」という何か“切り捨て”的なニュアンスを持つ日本語を避けて、「編集」という語に“新たな何かを創り出す”という意味合いを深読みしていくところにこそ、実を言えば、本書の立場は成立する。

 そこで第5章(これが最終章なのだが)、まずはロラン・バルトが『S/Z』などで、テクストがリンクしあってハイパーテクスト状態を形成する可能性を予告していたことにふれ、こうしたハイパーテクスト性は「強さ」のみを求める方向からではなく、松岡が言うようなフラジャイルな「弱さ」への方向によってつながっていくのではないかという前提を立てる。
 そして、このフラジャイルな方向には、強い主体や強い理性こそが作品を生み出すという近代の神話をくつがえすものがあり、それこそはソクラテスが「無知」という「弱さ」を提示したことにつながる哲学本来の愛知の姿勢なのではないか、それこそがアランが求めた散文的な思想ではないかと問う。
 つまり秩序は、それも動的な秩序は、フラジャイルで散文的で編集的なプロセスやメソッドのなかから生じるのではないかという進め方なのだ。

 しかし、一般には誰だって「強さ」への幻想をふっ切れない。国家自己も企業自己も青春自己も。では、われわれはどのようにして強さから弱さへの転換がはかれるか。ここには弱さを多様な網目の状態とみなせる思想が必要になってくる。
 著者は『知の編集工学』と木村敏を引きつつ、主語的に思索の主体を獲得してきたプロセスにはかえって自己編集が欠けていたのであって、むしろ述語的につながっていく思索や活動にこそ編集が動いているのだから、そこに着目すべきなのだと言う。
 ここで西田の述語的論理や丸山の「身分けと言分け」の議論を挟んで、視点は「主体の壊乱」をどうおこせばよいか、しかも強い主語から多様な述語に重心を移すにあたって、それがたんなる「主体性の喪失」に陥っているのではないというふうに受け取れるようにするにはどうするか、そういう問題に移っていく。
 著者はそのときこそハイパーテクストライクな句読点を相互に発見しあう編集過程の共有が、いよいよ必要になってくるのではないかと言う。これはバルトや松岡の提案であって、またミシェル・セールの「相互-準拠」の提案でもある。
 しかし、相互にハイパーテクストライクな言葉を編集しあうとはどういうことなのか。これまでのようにこの方向を言語論的転回や言語起源論で議論をすますべきではあるまい。また特定の言語を国際語にしたり、グローバル・コミュニケーションをアプリオリに期待するような議論になってはならない。むしろここは一挙に、「人間の知的活動が各国語の成立そのものの議論を伴って考究されなければならない」というふうに踏み切るべきなのだ。そして、こう書いた。

 こうした研究の端緒を「編集」というキーワードを用いて開き、「編集工学」という学問を成立させようとしている松岡正剛氏の試みを追うことで、テクスト論をさらに広大な領野へと拡げていくことにしよう。
 ちなみに編集には、そもそも人間の認知活動から表現活動までが、記憶のしくみから知識の組み立てまでが、また、メディアによる編集のあれこれからコンピュータ・ネットワーク技術による編集までが、ほぼすっぽり含まれており、これらのことを研究したり解発する分野を総称する「編集工学」という学問を、彼は練り上げようとしているのである。

 なんだか自分が書いているのか、著者が考えているのかわからなくなるが、こうして著者はぼくが「物語」に注目してマザータイプを取り出したことに視点をよせていく。
 ここで興味深いのは、著者がソシュールの単数形のラングや丸山の「特定共時的文化としてのノモス」が物語マザーにあてはまるのではないか、構造主義における「差異の共時的体系としての象徴秩序」もアランの「連続した発想」にも物語マザーに近いものが発想されていたのではないかと見ていることである。
 ついで著者は、こうした物語の原型をともなった編集活動の創発こそが、しだいに主体性にがんじがらめになった近代自己をほぐして、新たな関係発生をおこしうる「存在の自由」を展開できる方法なのではないかと見ていく。
 ここから先、話はほとんどぼくの編集工学の解読に集中し、そこにライプニッツのモナドロジー、ベルグソンの知覚論、多田富雄のスーパーシステム思想などが適宜導入されていく。

 かくして著者は、ぼくが著書のなかであまり詳しく説明しなかった「自由編集状態」とは何か、ではそもそも編集力とはどこから出来(しゅったい)してきたのか、そこにフラジャイルな弱いネットワークが介在するのはなぜか、さらには編集的世界観によってテクストの未来はどのように代わっていくのかという問題をすべて吸い寄せて、最後の仕上げに向かっていく。
 ただし、このあたりで紙幅が尽きたのか、あえてこのような終わり方をしたかったのか、そこはよくわからないのだが、この最後には存分の肉付けはない。
 そのかわり、あたかもこれまでの議論のいっさいをすべての視点を次の一文にこめるかのような書きっぷりで、本書全体を閉じるのである。

 テクストの未来は、こうして心身問題をも巻き込みつつ、ワールドモデルを志向するところに、編集的世界観を伴った「情報文化技術の創成」として実現されるにちがいない。

 きっと、この著者とはどこかで会うことになるにちがいない。ぼくができることは、ぼくの仕事をこの著者のためにももっと弱くすることなのだろう。

コメントは受け付けていません。