榊原史保美
やおい幻論
夏目書房 1998
ISBN:4931391427

 その美しい外見ゆえに、その美しさに感じいった者の精神に似つかわしい扱いをうけるべき美少年というものがいる。オスカー・ワイルドのドリアン・グレイがそうであり、トーマス・マンの『ヴェニスに死す』のタジオがそうである。
 しかし、そんな美少年はめったにいない。ほとんど例外である。現実社会にそんなにいるわけがない。仮にいたとして、その美少年に手をくだすことなど、たいていは不可能である。けれども、そのような美少年をマンガや小説のなかに描くのなら、これはいくらも可能になってくる。
 その美少年たちが同性愛にしか関心がないとしたら、どうか。そんな例は現実にはきわめて少ないだろうが、それを描きたいとおもうことは許される。

 1980年代に、少女たちが集う一隅から登場したきわめて不思議な小説群があった。その名を「やおい」という。
 「やおいのヒト」が書き、「やおいのヒト」が読む。これほど無視され、これほど批判され、これほど無名に、これほど寡黙に、静かに底辺を広げていった“文学”も珍しい。
 主題があるとしたら、ただひとつ、美少年どうしの、麗しい青年どうしの恋愛感情を書くことだけなのだ。表向きはあくまでホモセクシャルな青少年ポルノ小説である。それなのにポルノには見えにくい。ジャンルからいえばゲイ文学なのである。けれども数あるゲイ文学とはあきらかに一線をひいている。
 その一線は、作者の大半がアマチュアの女性ばかりであって(のちに「やおいのプロ」になっていくのだが)、かつ読者の大半、95パーセント以上が「やおい少女」とよばれる女性ばかりだということにある。それが「やおい小説」なのである。

 初期の「やおい」は『JUNE』や『ALLAN』を舞台に誕生し、急速に成長していった。
 「やおい」は少女マンガを含む巨大な自主漫画市場となったコミケ(コミックマーケット)に出現した同人誌を舞台に、アマチュアのやむにやまれぬ表現衝動が、いわばオタク的に派生していったものである。いや、オタク的にというのは当たらない。秘密の花園のように、と言ったほうがいい。
 しかし、これは同性愛を描いた少女マンガではなかった。コミックではなかった。言葉だけで綴られた小説なのである。そのレベルはどうであれ、“文学”への参入だったのだ。
 やがて『小説JUNE』が1982年に創刊されると、「やおい」ブームに火がついた。本書はその「やおいのヒト」の第一人者となって『螢ケ池』や『カインの月』で一世風靡をおこし、さらに『龍神沼奇譚』『魔性の封印』『鬼神の血脈』などを問うた著者が、いっさいの作例の紹介をせずに、この不思議な「やおい」現象とは何かを“内部解説”してみせたもの。
 読んでみると「やおい」の弁解にも「やおい」に浴びせられた非難に対する反撃にも見えないのに、たいそう、せつない。“幻論”の響き通りのものになっている。

 ヤマがない、オチがない、イミもない。
 そのヤ・オ・イを象徴した言葉が「やおい」である。「やおい小説」である。
 劇的な山(や)もなく、構造化された落着(お)もなく、しかもそのそれが“文学”であろうとする意味(い)がなくて、それでどこがおもしろいかとおもうのは「やおい」の禁断の味を知らないからである。そこには美の禁忌を犯し、性の聖域を触背する慄きが震えている。いっとき「耽美派」ともよばれたように、そこには文学や大衆小説がもってきた数多くの多様性をあえて捨てた「限界の表象」のようなものがある。
 それを純化したり、哲学化したりは、しない。文学を名乗りもしない。ただひたすらに、美少年たちの同性愛の機微が交わる日々を描く。そのうえで事件が絡み、歴史が浮上し、忌まわしい血が伝えれる。けれどもそこに美少年がいないかぎり、読者はそっぽを向いていく。
 その読者も「やおい少女」以上に決して広まることがない。彼女らは、いくぶんトランスセクシャルで、自分が「女」であることを恥じているのだが、だからといってその想像力を閉じていることはない。どこにもありえない想像力が駆使されているわけなのだ。

 だから「やおい」は自嘲であって、被虐でもある。
 ヤマもオチもイミもないということは、創作作品としての欠くべからざる文学的要素を欠いたということであって、「やおい」はまさに、自らその要素の欠落をもって誕生した。作者も読者も「やおい」を任ずることを、恥ずかしげに隠している。作者も自分の正体が宝塚よりもさらに耽美的なペンネームの名で隠れることを望み、読者も自分の正体が「やおい」であることをひたすら隠す。そこにはまるで「退避」や「逃避」だけがあるかのようなのだ。
 いや、そのように書き、そのように読むことを「恥ずかしさ」とすることが「やおい」の比類ない本質なのである。

 著者は「やおいのヒト」の傾向は、「自分のなすべき義務は、女性たる自分を参入させないということ」にあると感じているのではないかと述べている。
 これは、存在の拒否かというと、そういうものではない。性の拒絶かというと、そうでもない。ありえない存在の関係とありえない性の行為を作者と読者は密かに授受しあっているのだから、拒否でも拒絶でもなく、そのような「やおい」というコミュニケーションが創発されつつあるというべきなのである。
 ひるがえって、ポルノグラフィというものは、それはそれで存分な主張であって、かつ攻撃なのである。ところが「やおい」にはそんな気負いがない。またポルノグラフィの多くは、それが現実におこりうる可能性を暴露しつづける。サドやマゾッホの性文学というものは、そういうものであるし、巷のビニール本ですらそのような現実にコミットする要素をもっている。ところが「やおい」はまったくそんなことを考えない。それらは正真正銘の想像力のなかだけで授受される世界なのである。
 あたりまえである。美少年が美少年を愛する世界を、少女たちが現実化できるわけがない。そこではどんなコミットも最初から奪われている穿たれている。すなわち「やおい」は最初から不可能性のうえに成り立った砂上の楼閣なのである。
 こうして「やおい」はもともと孤独であって疎外されている現象だということになる。ふつうなら(社会学的には)、このような孤立や疎外は救いの対象になる。
 しかし、「やおい」においてはこうした孤立と疎外こそが、まさに救いなのだ。だからこそマイノリティとしての「やおい」は維持されてきたともいえた。

 ぼくはこのような「やおい」の圧倒的な支持者である。むろん、本人たちの気分の微妙がわかっているわけではないが、このような「やおい」を支持しなくて、何が性の文明論なのか、何が少年犯罪か、何が学校かという気分なのである。
 だいたい「やおい」の前歴は、かつてはヘルマン・ヘッセやE・M・フォースターなどにあったはずである。
 それらはやがてゲイ文学になっていった。レズビアン文学というものもないではないが、なぜかあまり膨らまなかった。しかも、ここにはトランスセクシャルがない。ゲイ文学は少女を誘惑はしているものの、少女が減退したいものを大幅に破っていく。
 それでは、困る。もっと現実にありえなくともいいから、もっともっと美しいものだけであってほしいとおもうようになる。「やおい少女」はそこがトランスセクシャルなのだ。トランスの組み替えや入れ替わりが、すでにして少女期にはやくも見えていた者たちなのだ。だからゲイ文学に満足はしきれない。
 そこで、ひとつは森茉利の『枯れ葉の寝床』や『日曜日に僕は行かない』が、栗本薫の『真夜中の天使』や『翼のあるもの』などの先駆的作品が登場し、もうひとつは萩尾望都・竹宮恵子・山岸涼子などの少年愛・同性愛を全面に打ち出した少女コミックが次々に登場した。
 これらは「やおい」を揺さぶった。揺さぶったのではあるが、そこにはまた美少女も美しいお母さんも登場していた。「やおい」はしばらくして、そのような美少女にもお母さんにもなろうとしない自分を見て、あえて美少年と美少年の「あいだ」にひそむ美意識に自分をトランスすることになっていく。「やおい小説」は、その渇望を癒したものだった。

 おそらくは、もうすこし時間がたち、もうすこし社会が成熟すると、「やおい」は新たな“文学”にもなっていくだろうとおもう。すでに著者の『ペルソナ』などは、そのような第一歩を示しているし、本書もそのような方向を、あえて主張はしていないものの、暗示している内容になっていた。
 それが「やおい」にとって好ましいかどうかは、わからない。また、このまま「やおい」という言葉がのこるかどうかは、どうでもよい。ただ、いっさいを穿たれた転倒の奥から開始するという文学が、しだいに文学の領域でも議論されていってもよいはずなのだ。
 たとえばジョアナ・ラスのように、たとえばアリス・ジャーディンのように、そしてたとえば小谷真理のように。

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