スーザン・ブラックモア
ミーム・マシーンとしての私|上・下
草思社 2000
ISBN:4794209851
Susan Blackmore
The Meme Machine 1999
[訳]垂水雄二

 ぼくの家には、ケータイを含めて6台の電話、4台のテレビ、使わなくなったものを含めて5台のパソコン、3台のワープロ、1台のファックス機、ウォークマンを含めた8台のオーディオ装置、数千冊の本、数えたことがないビデオとテープ類がある。
 赤坂稲荷坂の仕事場には、おそらくそれぞれこの十数倍ないしは数十倍の、「情報を送りこみ、情報を貯めこむ装置」がひしめいている。これらのなかには、ぼくがすっかり忘れていることでも記憶を正確に保持している機能がひそみ、ぼくと他者とのコミュニケーションを自動的に記録している機能も隠されている。
 いったい、これは何なのか。何の波及なのか。この、情報を出入りさせ、貯めている機能は何なのか。かれらは何をしたがって、こんなにもぼくのところに押しかけたのか。そして、どのようにぼくのアタマとつながっているのか。
 ぼくが何かを喋ったり、書いたりしているとき、これらの情報群のどこかのお世話にもなっていないということは、絶対にありえない。確かめる気になりさえすれば、ぼくの言葉や思考の多くがそれらの情報群の影響をうけ、のみならずそれらの多くを模倣していることがはっきりするだろう。
 空海の『三教指帰』をつぶさに研究した福永光司によれば、その文章の全体の85パーセントが中国文献からの引用と模倣と改竄なのである。しかし、だからといって空海の『三教指帰』は中国のどの文献にもない独創に満ちていた。

 伝言ゲームという遊びがある。任意のフレーズやセンテンスや絵や写真をAがBに、BがCに、CがDに伝えて(耳打ちなどして)、最後のZがその結果を発表すると、それが最初といかに違っているかに一同爆笑するというゲームだ。
 イギリスでは"chinese whispers"と、アメリカでは "telephone"という。
AからZまで、いったいどのように見聞が伝わったかということを、公開して改めてひとつずつ並べてみると、そこには微妙な違いと大きな相似性とが組合わさって進行していることがよくわかる。とくに隣り合った二つずつはかなり酷似するのに、その見聞が遠くへいくにしたがって大きな差異になる。しかもそれでも、AとZのあいだにはまだ漠然とした何かが共通している。
 模倣(ミミクリー)という機能がここにはたらいているのは、あきらかだ。しかしこの模倣の伝達はいったい何にもとづいて、何を伝達しているのか。また、ぼくのところに届いている膨大な情報群は、この伝言ゲームとはどこかが違うのだろうか。

 ところで伝言ゲームをちょっと変更して、次のようなルールにすると、爆笑はおこらない。たとえばAは折り紙のモデルを見せられて、その折り方をおぼえ、これをBに伝える。それがC、D、Eと進んでいくというものだ。
 実際にこのルールでやってみると、二つのことがおこる。ひとつは、最後まで折り方が正確に伝えられていくという結果になる。もうひとつはどこかでコピーミスがおこって、そこから先はまたそのミスの折り方が伝えられていくという結果になる。
 前者は遺伝子のコピーと同じで、DNAの複製に近い。ここには手続きを含めたコピー作業がおこっている。このばあいは、ミスがおこりにくく、爆笑もおこらない。後者のようなケースは、生物学ではふつう突然変異とよんでいる。しかもいったん間違えると、手続きを含めての新たな進行になる。生物の驚くべき多様性をつくったのは、この突然変異のほうだった。

 リチャード・ドーキンスが「ミーム」(meme)という概念を提唱して以来、遺伝子(gene)とは別に文化や風習やイメージやモードや思考のようなものもやはり"遺伝"しているのではないかという議論が、おおいに湧き立った。
 ぼくは『遊』を編集しているころに、このニュースをかなり早くキャッチした一人だったので、すぐさま「意伝子」という訳語をつくったものだ。これはいまでもおおいに気にいっている。
 しかしいまのところは、実際にミームという"物質"だか、"化学的なるもの"だか、あるいは"意識伝達子"だかが実在している証拠はまったくあがっていない。脳を解剖すると、そこに小さなミームの切れっ端のようなものがあるという実験結果も、まったく出ていない。
 けれども、遺伝学にもランナウェイ説やハンディキャップ説があるように、ミームが民主主義の幻想からスカートの丈まで、神への崇敬から「もののあはれ」まで、なんらかのかたちで伝承され、理解されつつあることを否定できる根拠もない。
 ランナウェイ説というのは、メスが何かのきっかけでオスのある形質を好むようになると、もてるオスの形質がますますメスに好まれ、やがてそれがオスの形質を過大なものにするというものだ。ハンディキャップ説はオスに大きな出費を強いる派手な形質も、それが生き残りに強い効果をもたらすばあいは、やがてメスがそのハンディキャップな形質を認めてしまうというものである。
 たしかにこのようなことが、ファッションや芸能や主義主張のような"ミームの歴史"におこっていないとは、見えない。しかし、仮にそのような伝承力がミームだとして、では、そのミームは何を先渡ししているのだろうか。また、そのミームは何から何へ伝達されているというのか。人から人へ? 脳から脳へ? 文化から文化へ? それともメディアからメディアへ? メディアとしたら、それは何というメディアなのか。

 ドーキンスもブラックモアも、ミームは選択淘汰されていると見ている。
 各所に文化・風習・思考などの要素が複合的に溜まっているミーム・プールとでもいうべきものがあり、そこでさまざまなミームが多様な相互作用をおこして、何かが淘汰され、何かが縮退し、何かがか強調され、何かが高速のつながりをおこしている。
 このような「勝ち残りミーム」が歴史をまたぎ、民族をまたいで、今日の社会文化の個別多様性をつくっている。おおざっぱには、そう、みなされる。
 ミーム・プールがどういうものかというと、インターネットで囲まれたウェブにやってきている大量の情報群のようなものを想定すればよい。放っておいてもそこにはどんどん情報が溜まり、それらはいつしか適宜分類されてポータルを構成し、ユーザーの検索と模倣を待っている。

 このミーム・プールに集まった情報には、ひとつの特色がある。それは、ここには夥しい情報が蓄積され、出入りしているのだが、そのすべてが強いミームとはかぎらないということだ。
 たとえばウェブのポータルのアクセス数を調べて見ればわかるように、この"情報の海"にはマイクロセコンドの単位で、そのつど激しい取捨選択がしょっちゅうおこっているということだ。つまりは編集は鳴りやまない。そして、いつのまにかその模様は変わっていっているということだ。
 ちなみにインターネットで「ミーム」という語を検索すると、英語では8000件近くの、日本語では1500件近くの言及がリストされていた。しかし、これらのなかで今後も「ミーム」という概念についての説明が、ミームとしての意味を主要に獲得していくものは、その1割もないはずである。

 ミームの正体はまだわからない。しかしながら、仮にミームというもの(コト?)があるとすれば、ミームがどのような性質や機能や属性をもっているかということは想定できる。
 本書の狙いはそこにある。従来の認知心理学や言語論や脳科学や認識論を、あるいはメディア論やコミュニケーション論を、ミームの側から記述するとどうなるのか、とりわけ「自己」や「私」とよばれている"当体"をミームによって記述するとどうなるか、著者のブラックモアはそこに挑んだ。
 感想はいろいろある。ダニエル・デネットの志向姿勢論やヘンリー・プロトキンの学習仮説を一歩越えたという評判もあったが、そこまでの成果は出ていなかった。しかし、デネットやプロトキンの議論を越えたかどうかというのは、これからの認識哲学の将来をまさに左右するところではあるけれど、ブラックモアの狙いはそのような哲学議論や学習議論には重点がない。
 彼女はやはり「自己」や「私」をミームで解読したかった。

 本書で、ブラックモアは情報としての人間はすべからく「自己複合体」(selfplex)になっているという見方をとっている。「一人の私」なんているはずがなく、つねに「たくさんの私」が出入りをしているという見方だ。
 この見方をミームの側から見直すと、自己複合体はそのままミーム複合体であることになる。
 ミーム複合体とは「お互いにとって有利であるために一緒になっているミームの集団」のことをいう。
 このミームの集団を勝手に組み合わせて自分の脳と体のシステムに適合させたもの、それが「私」というものなのだ。つまりは「ミーム・マシーンとしての私」だ。また、こうしたミームの集団を、地域的にあるいは民族的に組み合わせ、それを風俗的あるいは職能的あるいは信仰的なしくみにしていったものが「文化」や「宗教」である。
 ミームは複合自己を形成するとはかぎらない。これを殺傷し、壊していくものもある。たとえば武器類、アルコール類、麻薬類などが秘めているミーム‥‥。

 こういえば、なんだかミームはたんなる意識形態の別名のように見えるのだが、たしかにここまでの見方だけでは、そうなりかねない。しかもどんなミームも同じように伝承されているという印象になる。これでは具合が悪い。
 そこでブラックモアは、ここにちよっとした工夫を加えた。それはミームのコピーにあたっては、「指示のコピー」と「産物のコピー」の区別があるとした。「指示のコピー」は楽譜を写したり模倣したりするコピー、「産物のコピー」は演奏法や演奏スタイルのコピーをさす。
 さきほど書いた折り紙の手続きとともに折り紙の形を伝える伝言ゲームのばあいは、手続きの伝承が「指示のコピー」、折り紙の出来ぐあいが「産物のコピー」になっている。

 この工夫は悪くなかった。
 なるほど情報としてのミームはそのコードがコピーされるばあいと、そのモードがコピーされるばあいとがある。これらは一緒にしないほうがいい。これはブラックモアの"発明"だった。
 しかし、ブラックモアは大きなことを忘れていた。それはコピーミスをどう見るかということだ。
 最初に書いておいたように「伝言ゲーム」では、むしろコピーミスこそが伝言のおもしろさを保持したのである。もっと正確にいえば、コピーミスが生じるかもしれないほうに、ミームは進展したがるクセをもっているようなのだ。たとえば「噂」のように。
 生物学ではこのミスについては、すでにDNAのコピーミスの研究として大きな成果をもたらしつつあるものだ。けれども、生まれたばかりのミーム学ではそこまでの研究はまだ始まってもいない。本書の読み方次第では、「ミームにおける誤答率」の問題ともいうべきの検討が、また「ミームはどの方向に模倣されやすいか」という問題の検討が、今後は待たれるのである。
 ミームとは、いわば「真似されやすさ」というものである。そこに情報エントロピーや情報ノイズがかかわっていないと考えるほうが、無理がある。

 ミームがどんなヴィークル(乗物)に乗って運ばれているかということも、まったくはっきりしていない。脳が主要なヴィークルであることは確かだが、この脳も、文字や書物や絵図や音楽がなければミームを乗せる力を獲得できなかった。
 加えて、電話やテープやファックスやパソコンがヴィークルの名乗りをあげた。こうなるとミームの乗物のほうも複合体になっている。それに、それらと脳との関係がまた複雑だ。残念ながら、本書はこれらの疑問にはまだ答えられてはいなかった。だれも答えられる者はいない現状でもある。
 けれども、それでも次のようには言える気がするのはどうしてだろう? 「ミームの歴史はいつも私に届いているはずだ」というふうに。そして、「いま私が考えたり書いたりしている1秒1分がミームの歴史をちょっとだけ変更しているはずだ」というふうに。

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