リデル・ハート
第一次世界大戦
フジ出版社 1976 中央公論新社 2000
ISBN:4120030865
Liddell Hart
History of the First World War 1930・ 1970
[訳]上村達雄

 ドイツ帝国の成立にプロシアが果たした役割があった。そこにビスマルクの政治思想とドイツ哲学が絡まった。加えて製品商品の販路を得るためのドイツの当然な要求が動いた。
 これでドイツは大国を構築せざるをえなくなった。当然である。しかしそれだけで世界大戦がおきたわけではない。オーストリー・ハンガリー二重帝国の混合性にひそむ不均衡と矛盾、その避けがたい終焉が近づきつつあること、ロシアの革命がゲルマン系の国々に及ぼしつつあった恐れ、フランスがアルザス・ロレーヌを奪われる危惧をどう感じたかということ、そしてイギリスの政策転換が迫られていたということ、これらすべてが微細に重なりあって、第一次世界大戦は起爆した。
 しかし、それでどうなったかということは、これらの原因とは関係がない。戦争というものは、すべての舞台と登場人物をすっかり変えて激突を繰り返す別のドラマなのである。

 本書はもともとは『真実の戦争』という戦史だった。それに手を入れ、組み立て、本書が成った。
 言わずと知れた第一次世界大戦史の定番中の定番である。その後のリデル・ハートの戦争戦略をめぐる広範な研究者としての名声については、誰もが知るところであろう。
 しかしぼくも、これを読んでからもうずいぶんたっていて、実は細部はほとんどおぼえていない。リデル・ハートはなにしろ正確きわまりない戦史あるいは戦誌を書きこんでいるので、まあ、息詰まるようなドキュメンタリー・フィルムを3日くらいぶっ通しで見たという印象だった。けれどもそれにもかかわらず、本書は忘れがたい一書となったのだ。
 その理由をしるしておきたいのだが、実のところは何がおもしろかったのか、よくわかってはいない。

 ともかくも、まず名文だった(翻訳もうまいのだろうとおもう)。現代の戦争の記録をこのように描写できるとは思わなかった。
 次に、構成を司る視点がすばらしかった。1章から3章までは戦争の原因、両陣営の戦力比較、そして作戦の点検といった克明な調査にもとづいた「分母の構造」ともいうべきをたっぷりあきらかにしているのだが、いったん戦端が開かれてからは、まるで映画『ダイ・ハード』めいてきて、各章のタイトルも「クリンチ」「行詰り」「相討ち」「緊張」「急転回」というふうに、まるでアクション物語のように進む。
 ところが、ハートはアクション映画のような叙述やサスペンス小説のような描写はいっさいしていない。正確に事実が積み上げられて高速に進行しているだけなのだ。それなのに、まるで「哲学」とでもいいたくなるような森の束が、その一本一本の樹木の様子から植生にいたるまで、手にとるように見えてくる。そういう森の束がいくつも散らばっている。現代の戦史というものは恐るべきものだと思ったものである。『三国志』とはワケが違うのだ

 こうしたことに加え、ピンポイントのような戦争のターニングポイントが次々に明示化されていて、そこにも惹きつけられた。
 あたかもサッカーやラグビーの試合を徹底分析しているようなのだが、そのボールの分岐点の指摘などというものではなく、そのボールをどの瞬間にどの足のどの部分でどの程度の力で蹴ったのかというくらいに鮮明な明示化をしているのである。
 たとえばハートは1914年8月2日をピンポイントにあげている。これはウィンストン・チャーチルがイギリス海軍に動員令を発した日時だが、なぜこの一時が戦争全体に最も効果的な影響を与えることになったのか、それこそ因数分解のように解いてみせている。
 よく知られているように1914年9月の「実在しないマルヌ川の戦闘」による危機は、大戦後に最も多くの批評が短期に集中して議論された不在の戦闘だった。ふつうは、このような危機を招いた連合軍の責任が問われるところだが、ハートはそのように見ていない。むしろこの危機がジョーカーとなって大戦全体のシナリオを動かしたと見る。そのトリガーは、結局チャーチルの動員令にあったとしたわけである。

 1916年11月18日に、連合軍の司令官たちが挙ってシャンティリーに集まって、翌年の作戦を討議したことにも全体にかかわるピンポイントがあった。
 この作戦が成功したから重要なのではない。失敗したことが大戦全体にとって重要だったのである。
 司令官たちの作戦会議では、2月早々にイギリス第4軍・第5軍がゴムクール突出部の南側面でソンム攻勢を再開し、第3軍はアラスの北側面を攻撃することが取り決められた。それと関連して、ホーン指揮の第1軍は第3軍の北方を攻撃、フランス軍はソンム川の南を攻撃することになった。そして、その3週間後にフランス軍はシャンパーニュ戦区の主攻撃を開始する。
 しかし、この作戦は崩壊したのである。フランス軍における措置のミス、それにともなうイギリス軍の躊躇、ドイツ軍の予感が三つ巴となって、作戦は崩壊した。けれどもハートはこのようなピンポイントを捉えて、この失敗が連合軍に何をもたらしたかを一挙に解明する。なるほどそのように見るのかと感心した。

 ぼくは実際には、こうした戦線の部分や一部始終がどのように意味をもっていくのか、まったく何もわからなかった。
 いまもって実戦についてはほとんど何もわかっていないともいうべきだが、それでも本書を読みすすめていると、こうした細部がつねに巨大なドラマの“超部分”に見えてきた。しかも『三国志』よりも理知的に興奮する。クローズアップが的確な格闘技の中継を次々に見せられているなどというのでは、きっと何の妥当性もない比喩だろうけれど、しかしそんなわかりやすい例を持ち出したくなるほど、リアルな解析的興奮が迫ってくるのである。
 これではたしかに、軍事の立案と実行にかかわった者はすべてが嵌まるだろうことが、よくわかる。共感ではない。必ずそうなるだろうという必然のようなものが、よくわかるのだ。

 ところで、その後、ぼくは現代の戦史を読んではいない。むしろロシア革命史に代表される革命記録やその挫折の記録(マフノ運動のような)、またゲバラの日記にあたるようなゲリラ活動の記録やアラブの運動史なら、読んできた。
 実は何冊かの分厚い太平洋戦史を何度か手にとってみたのだが、どうも読めなかった。それで薄いものも手にしてみたが、これはつまらなかった。なぜ太平洋戦史が読めなかったのか、著者がヘタなのかどうか、それとも日本が主人公のひとつになっていることが読めなくさせているのか、そこもわからない
 リデル・ハートには『第二次世界大戦』の著書もあるけれど、これもほったらかしなのだ。
 ということは、これはあまり自信のない見方だが、やはり第一次世界大戦というものがもつ歴史的な意味がやはりぼくの目を釘付けにしたということなのだろうか。アメリカがテロ戦争を世界戦争にすり替えないうちに、このへんのこと、見極めたいものだ。

コメントは受け付けていません。