ギイ・ド・モーパッサン
女の一生
新潮文庫 1951 集英社文庫 1978
ISBN:4087600459
Guy de Maupassant
Une Vie 1883
[訳]斎藤昌三

 聖人カレンダーには「1819年」と金文字が記されていた。ジャンヌは鉛筆でカレンダーのうちの最初の4段を消し、5月2日のところまで黒々と線を引っぱった。5月2日は昨日のこと、ジャンヌが5年間をすごした修道院の寄宿舎を出た日にあたる。
 ジャンヌは背が高く、ブロンドの髪、薔薇色の肌、陶磁オランダ人形の青い目、左の小鼻と顎の右側に小さなホクロをつけて、笑えばまわりが陽気になるほどの声をもっていた。以前は31もの農場をもっていた父親のシモン・ジャック男爵は、一人娘のジャンヌに屋敷のひとつをあげるつもりで、ノルマンディ特有の白い石造りの、2階には廊下をはさんで10室も部屋のある家にジャンヌを連れてきた。この宏壮な建物の1階右奥がジャンヌの部屋だった。
 ジャンヌは四隅に蝋光りのする大きな鳥がいるベッドを見て狂喜した。その夜は窓の外の月光が照らす庭さえ夢のようで、いよいよ自分に幸福の予兆があることをおもうと、ほとんど寝付かれなかった。あとは、いい人に出会いさえすればよい。

 ジャンヌはその夜のことほどおぞましく思ったことはなかった。子爵ジュリアンは男に嫌われるほどの美男子ではあったが、その毛深い脚がベッドの脇からさしこまれたとき、ジャンヌは思わず飛び上がり、ついでその毛むくじゃらの手が乳房を揉みしだくのを耐えているうちに、それまでのすべての陶酔の夢があたふたと形をなくした幻影となって消えていく。そして、鼾をかいて傍らで眠っている夫の顔を見て、これが侮辱というものであることがはっきり了解できた。
 それでも束の間の歓喜がないわけではなかった。コルシカ島への新婚旅行で、紅い花崗岩の絶壁に囲まれた入江に着いたときのことである。ジャンヌはなんだか溢れるような感動をおぼえ、涙をこらえることができなかった。夫はこういうときの女の涙の意味がまっ
たくわからず、ただ胴に手をまわし、唇を求めてくるだけだった。それを押しのけているうちに、ジャンヌは霊感のようなものをおぼえ、清水を口に含んで夫の口に移していた。
 その夜、ジャンヌの予想に反して歓喜がやってきた。しかし、それは夫によるものではないらしい。2カ月にわたった旅行から帰ってみると、もうジャンヌにはすることがなくなっていた。ジュリアンも役柄を終えた役者のごとく、ただの素顔の男になっていた。

 その雪が降り積もる夜のこと、ジャンヌは凍え死ぬのではないかとおもうほど震えていた。暖炉に薪をくべ、何枚も着物を覆ってみたものの、とても生きた心地がしない。
 小間使いのロザリーを呼ぼうと呼鈴を押しても、いつまでも応答がない。なんだかこのまま死んでしまうのではないかという恐怖にかられたジャンヌは、仕方なく夫の部屋に行くことにした。そこに見たものは、消えかけた暖炉の明かりにほの暗く見えたのは、夫の頭と並んでいるロザリーの頭であった。ジャンヌは家を飛び出し、裸足のまま雪の上を走り続けた。
 熱病に罹ったらしいジャンヌを母親と医者は慰めた。けれども、その原因を知るべきではなかった。医者はロザリーが妊娠していることを静かに告げた。司祭の立ち会いのもとに訊問されたロザリーは、ジュリアンがずっと以前から自分を求め続けていたことを白状した。やっとのおもいでジャンヌは訊いた。「わたしたちが旅行から帰ってからも、おまえは夫と関係したの?」。ロザリーは俯いたまま答えた、「お帰りになった晩にいらっしゃいました」。

 もはや夫婦は夫婦ではなかった。やがてフールヴィル伯爵夫妻がしばしば遊びにくるようになり、ジャンヌも気を紛らわすことができるようになった。それとともに、青白く美しい夫人とジュリアンがしばしば馬の遠乗りに出るようになった。
 ある日、伯爵がやってきて「家内はここにいますでしょうな」とジャンヌに言った。「いいえ、今日はずっとお見かけしておりません」と答えると、伯爵が唸った、「あなたのご主人だ」。
 熊のように大きな体躯の持ち主の伯爵は丘の上の羊飼いの車輪付移動小屋をめざして駆け上がり、そこに2頭の馬がつながれているのを発見した。伯爵は馬の手綱を抜き身の短刀で切ると、そっと中を覗き、しばしののち閂をしっかり閉めたうえで移動小屋を一気に動かし、急斜面の谷底に突き落とした。付近の農家の連中が駆けつけてみると、大破した小屋の中から血まみれの男と女の死体があった。

 ジャンヌは子供が生まれると、人が変わった。息子ポールを熱狂的に愛したのである。どんな危険もポールに近づけようとせず、どんなささいなことでもポールを庇った。
 ポールはほとんど勉学をしなかった。何度も落第し、なんとか最上級に進めたときは、すでに20歳にもなっていた。それでも金髪でみかけは立派なポールには口髭が似合っていて、ジャンヌの自慢であった。
 そんなときみすぼらしい老人がやってきて、一枚の紙切れを見せた。ポールがお金を工面してほしがっているらしい。ジャンヌと男爵はさっそく学校へ行ってみたが、もうずっと学校には来ていないという。やがてポールは情婦の家で発見された。しかし屋敷に連れ戻されたポールは、何かというと行方をくらまし、今度はロンドンから1万5千フランを送ってほしいと手紙をよこしてきた。ジャンヌは息子の言うとおりのことをした。気が付くと、ジャンヌの美しい髪は真っ白になっている。
 そのうちジュリアンの財産相続が決まり、ポールは12万フランの遺産を得た。息子は増長し、金を湯水のごとく浪費して、またまたジャンヌに8万5千フランの無心をしてきた。男爵は土地を抵当にして金を工面し、ポールはそれを元手に汽船会社をつくった。けれども3カ月もたつと、その会社は23万フランの負債をかかえて破産した。
 それでもジャンヌと男爵は残る屋敷と農園を抵当に入れ、ポールの前進を妨げないようにした。なぜこんなことばかりしつづけているのか。ジャンヌはもはや判断力を失っている。その事務手続きをしている最中、男爵は脳溢血で倒れ、ジャンヌが駆けつける前に息を引き取った。
 その日、ジャンヌは屋敷を片付け、荷物を積み込み、街道に面した小さな家に引っ越した。
 荷物を解いているうちに、そこから昔のカレンダーが出てきた。そこには、ジャンヌが寄宿舎を出た日まで線を引いた聖人カレンダーもそのままにあった。ジャンヌの目に涙が溢れてきた。
 ジャンヌは自分がこれまで生きてきた日々を、もう一度見たいと思った。そして恐ろしいことを始めた。カレンダーを一日ごとに壁ピンで留め、このとき何があったかをひとつずつ思い出しはじめたのである。

 ギイ・ド・モーパッサンは1850年にジャンヌと同じノルマンディ地方で生まれた。父との仲に破綻がおとずれた母はギイと弟を連れて別荘に入り、ここで文学教育を施した。
 実際のモーパッサンの文学の師はフローベールである。パリに出てからの7年間、モーパッサンが書いた作品のすべてがフローベールの目を通っている。フローベールが教えたことは、たとえば次のようなことだった。「もしも一つの独創性をもっているなら、なによりもまずそれを引き出さなければならない。もしもっていないなら、なんとかしてその一つを手に入れなければならない」「燃えている火や野原の一本の木を描写するには、その火や木がほかのどんな火や木にも似ていないものになるまで、じっとその前に立っていなければならない」。
 1874年、フローベールからエミール・ゾラを紹介された。ゾラはパリ郊外メダンの別荘にユイスマンス、セアール、エニックらとモーパッサンを呼び、『メダンの夕べ』という一冊を編んだ。このときのモーパッサンの傑作が『脂肪の塊』である。
 それから10年間にわたってモーパッサンは小説を書きつづけ、フローベールの教え以上の客観的で没個性的な文体作法を完成させた。怪奇的な短編がとくに出色だが、やはり『女の一生』が忘れがたい作品になっている。しかしながら狂人小説『オルラ』を書いている
うちに気がおかしくなると、やがてネルヴァルと同じ病気で、同じ病院で死んだ。

コメントは受け付けていません。