ロジャー・C・シャンク
人はなぜ話すのか
白揚社 1996
ISBN:4826900732
Roger C. Schank
Tell Me A Story 1990
[訳]長尾確・長尾加寿恵

 AI(人工知能)の難産と破産をめぐる報告がまことしやかに罷り通っているなか、ギョーカイ(認知科学ギョーカイのこと)の連中にはいまさらロジャー・シャンクでもないじゃないかと思うかもしれないが、ぼくは必ずしもそうはおもわない。
 といって、かつてのシャンクを有名にさせたイェール大学でのスクリプト理論を持ち上げようというのでもない。シャンクはシャンクなりにAI以降の試みを確実に積み上げていて、そこではスクリプト理論を修正強化するアイディアも練っている。その後どこまで進んだかは知らないが、この本の段階では、それなりに編集工学と共鳴するところもあった。

 シャンクの前提は「知識とは話である」というところにある。もうひとつの前提は「アクセスできない情報は情報ではない」ということだ。
 話すこと、話そうとするときにアタマの中から取り出される話の単位のこと、その取り出しにつかわれたインデックスの付け方、相手との会話を通してたちまち掴む話の進め方、そのような話の単位をつなげているもの(これがスクリプト)、いったん活性化した話がほかの話の単位をまとめようとしている構造、こういうものの連合体が知識のまぎれもない実体なのだという前提なのである。
 もっと正確に知識を説明することはできるが、このシャンクの説明でもおおよそのことは言えている。
 シャンクは、このような数々の「話」の集合と離散によって統括されている知識の構造を外挿的に追求し、これをなんとかシステム化(アーキテクチャ化)していこうとする。そこにいくつもの試みがある。これがちょっと参考になる。
 ざっとかいつまむことにする。ただし、ぼくはシャンクの仮説と研究のすべてを納得しているのではない。ただ、シャンクのある見方とぼくが考えてきた編集工学はいくつかの部分で共鳴関係をもっているとも見ている。こんなふうである。

 第1に、3つの「話し手」のモデルを想定した。
 そのモデルは、知識のインデックスをちゃんと引いてこようとする「司書のモデル」、気に入った話なら同じ話でもちょっとずつ変えて話したりおおげさに話すような「おじいさんのモデル」、話のいちいちの内容よりそれらの話に共通する階段を取り出そうとする「論理学者のモデル」、この3つである。
 第2にシャンクは、これらの3つのモデルの特徴を検討していくと、司書であれおじいさんであれ論理学者であれ、知識へのアプローチは「応答」の積み重ねによってできていること、その応答が進むのはそこに「連想」がはたらくからであることに気がつく。
 ここまでの考え方は悪くない、司書・おじいさん・論理学者以外にも、たとえば法律家・夕食の支度をする主婦・何かに夢中になった子供・利益をあげようとする企業家・スコアをもつスポーツをふくむゲームプレイヤーなどを入れてもよかったろうが、これはたいした問題ではない。設計すべきシステムを複雑に確実にするだけのことである。
 それより「応答」と「連想」こそが知識の秘密を握っていることに辿りついたことが大きい。

 シャンクが第3に考えたことは、「話をすること」と「理解すること」は機能的にはまったく同じことだと見たことだ。
 これは少し注文をつければ「話を書くこと」の場合も勘定に入れるべきだったのだが、それをのぞくと、やはり重要な見方をあらわしている。そして次の点に進んだことがさらに収穫だった。
 すなわち第4に、われわれは話をするときには「なんとなくぴったりしたもの」を探そうとしているのではないか、もっと正確にいえば、話をするとは「それに似たような立場や経験を見つけるための観点」を用いようとして、その観点を動かそうとしているのではないかということに気がついたことだ。
 この見方が、いい。「ぴったりしたもの」とは何かということは定義できない。なぜなら、当人がその場面で探している姿に依存するからだ。しかし、その「ぴったりしたもの」を求めて動いている観点を追跡することはできなくはない。ぼくはこれを「注意のカーソル」と名付けたが、ぼく自身、自分がどのようなそのカーソルをアタマのなかで動かしたのか、ずいぶん時間をかけて追跡し、その軌跡が取り出せることを確信したものだった。
 余談になるが、この「観点を動かす」というニーズから世界中の国語の文法が生成していった。国語文法とは、その文化の民衆が動かしやすい観点にそってできあがったものなのである。ソシュールもチョムスキーも時枝誠記もピアジェも杉本つとむも、このことをこそ研究してきた。しかしながらそのことはさておいて、つまりこの問題を「言語学」という立派で重たい体系にしないで、会話や話の進め方こそが情報や知識を動かすメカニズムにあたっているということに問題を集中させたことが、かえってシャンクの成果だったのである。

 さて、ここからシャンクはこうした「話し手」や「話にひそむ応答と連想や観点の動き」をいったんおいて、話そのものの分類にとりかかる。それはだいたい以下のようにまとめられる。
 第5に、話は次の5つの傾向をもつ。

1)表向きの話
2)創案あるいは脚色した話
3)直接の体験あるいは共同の体験によって得た話
4)なんらかの方法によって間接的に得た話
5)文化として共有される話

 (1)は結婚式のスピーチや会議の報告などが代表的なもので、スクリプトが一番はっきりしている。スクリプトというのはシャンクが格別におもいをこめて構築したスクリプト理論の主軸になるものだが、ここでは「状況の変化に応じて次におこりうる予測を集めた知識構造のこと」というふうに見ておけばいい。
 (2)は作家や虚言癖の者や井戸端のおばさんが得意なもので、スクリプトが次々に変わり、拡張や削除をともないながら進む話のことをいう。(3)はわれわれが子供のころから試みてきたものだが、要点が特定しにくいという特徴がある。そのかわりランダムな連想にいろどられ、いつもフレッシュな装いをもつ。
 (4)は説明するまでもなく情報源にかかわりなく、ニュースや噂や人づての話を構成して話すもの、(5)はかつては同時代に語られていただろうが、しだいに引用の対象になることが多くなっていく話のことである。
 シャンクはこのようなおおざっぱな分類をしたうえで、われわれが「創造」だとおもうものの多くが、この5つの話を相互に関係づけることで得られるはずだということを指摘した。
 そしてぼくもそうだったのだが、ここからはいわゆる「創造性」とか「創造力」などという理想だけが先行しがちになる空語にこだわることから離れ、「関係を付ける」「編集する」「話の統合と分散」「話の成長」といったことに関心を進め、いささか機能主義っぽいところはあるのだが、次のような設定をしていく。

 すなわち第6に、人々が話をする目的(ゴール)を設定した。これはごく簡単なもので、ぼくにはやや不満なのだが、こうなっている。括弧内にその機能を付与しておいた。
 

1)自分がゴール(自己感情の浄化・注意を自分に向けさせる・賛成を求める・忠告を求める・自分の過去・現在・未来を描写する)
2)相手がゴール(重要な事柄の表現・聞き手にある感情をもたせる・聞き手を夢中にさせる・聞き手に情報を譲る・話し手と聞き手が行動をおこすため)
3)会話がゴール(会議・共同行動や分担行動の指示と確認・グループ・家族・集団などのなごみ)

 ここからシャンクが導くのは、こうしたゴールのちがいによっても進められる話のなかには、共通して「理解のアルゴリズム」に対する「察知のアルゴリズム」が対応しているのではないかということだった。たしかにそうなのである。われわれはついつい自分の理解度や相手の理解度に目を向けすぎて、そこに察知が動きまわっていることに気がつきにくいのだが、この察知のアルゴリズムともいうべきがちゃんと機能すれば、実は話というものは自分の話しぐあいと相手の頷きぐあいだけの関係にも、注目すべき編集が進行していることに気がつくはずなのである。
 しかしシャンクはこの重要な場面にはあまり踏みこまずに、ここからは「理解のアルゴリズム」と「察知のアルゴリズム」の両方をインデックスでつなぐことに関心を向けていく。
 そして第7に、人々が「信念」だとおもっているものは、その人の「インデックスの数」や「インデックスの構造」にすぎないということを説明していく。これは哲学に対する大胆な挑戦か、ないしは軽率な断定ということになるが、シャンクは平気なのだ(第199夜でオルテガが「信念」は「おもいこみ」、観念は「おもいつき」だとみごとに喝破したことについては、すでに述べておいた)。シャンクは「主題ごとにインデックスのついた一覧表」を、これ以降、信念とか確信というふうによんでいく。

 こうしてあらかたの準備をおえたシャンクは、「理解が進むための話」とは、結局次の3つの進行によって表示されているのではないかと考える。

1)インデックスを照合して話を検索している
2)古い話の空隙の箇所に新たな話の要素をあてはめている
3)あいまいな理解を深めるために裏付けを求めている

 ここでは、シャンクが「理解」の本質が「理解しようとしている局面をより持続的な記憶に統合すること」とみなしていることがよくわかる。
 この点についてシャンクはエイベルソンと『スクリプト、プラン、ゴール、そして理解』とか『ダイナミック・メモリ』(近代科学社)という本のなかでもうすこし詳しい分析をしているのだが、かえって詳しくしようとして失敗してしまっているところもあるので、あえて参照することもない。研究開発者というものはガイドラインを詳細設計にしていくプロセスでしばしば目鼻の付け方を失敗するものなので
ある。こういうときは、これはぼくが大事にしていることなのだが、ガイドラインにこそ最も重大な細部や超部分があらわれていることに着目するべきなのだ。

 ともかくも、こうしてシャンクはいよいよ「知識」「理解」「知性」というものの本体の説明に入る。
 ここからはぼくが『知の編集工学』(朝日新聞社)や『知の編集術』(講談社現代新書)で、編集を8段階に分けたことと深く関連してくるのだが(ぼくはこれを「編集八段錦」と名付けた)、そこにはあれこれの相違もあって、興味がつきない。ここではシャンクの実用的な説だけを紹介しておくことにする。

1)想起する(データを探す、見つける)
2)照合する(データを部分的に関係付ける、適合させる)
3)理解する(話のコンシステンシー=一貫性を見出す)
4)説明する(予測の束との関連を検討する)
5)計画する(話を行動に移すことで話が理解されているかを確かめる)
6)変更する(コミュニケーションによって話を一般化し、結晶化し、精緻化する)
7)統合する(話したことと聞いたことが相互に立体化し、興味という世界が確立していく)

 ここでおそらく最も重要なのは(4)の「説明する」である。なぜなら、この説明によって、人々は自分が予測してきたデータの束ではうまくいかないとか、相手が理解しないといった"失敗"を体験することによって、初めて理解の本体に一歩も二歩も入っていくことができるからである。
 といったわけで、ロジャー・シャンクが「話」というものに焦点をあてて知識や理解の秘密にとりくんでいったことのなかには、いまなお参考にすべきものがいろいろひそんでいた。
 残念ながらAIはいまほとんど解体しつつある。人工知能を自立してつくるという構想はガタガタになっている。けれども、そういうことはどうでもよい。大事なことは、われわれがわれわれ自身の
「理解の秘密」に気がつき、「知」や「分」の編集性に気がつくことなのである。

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