安藤鶴夫
文楽 芸と人
朝日選書 1980
ISBN:492521957X

 アンツルさんは浅草向柳原町の生まれで、父親の鶴吉が義太夫語りの八代目竹本都太夫である。文楽に詳しいなんていうものではない。太棹のオクリを波枕に聞いて育った。
 しかし、"芸人の子"は当時の学校ではいやがらせの対象で、義太夫語りの子と囃されるのが嫌で嫌でしょうがなかった。おまけに父親は最初こそ竹本朝太夫の弟子となってキリ三(三枚目)を語ったり、「都新聞」の芸能番付の上位に顔を出していたが、悪辣な興行師に騙されてどん底に落ちた。アンツルさんの青少年期は貧窮の日々そのものだったのである。
 だからしばらく大学にも行けない。京都宇治のシャンピニョン農場で働くかたわら、やっとこさっとこ南座の出開帳などを見た。それが昭和2年くらいのことである。
 それがよかった。昭和2年のころといえば、櫓下に四代目竹本津太夫、庵に六代目竹本土佐太夫、三頭目に二代目豊竹古靫太夫のちの山城少掾、三味線に六代目鶴沢友次郎、人形に初代吉田栄三や吉田文五郎がずらりと揃っていたころで、明治の絶世期の文楽の芳香を青年アンツルは夢中で貪ることができた。
 やがて法政大学フランス文学科に入る日がきても、文楽の節回しばかりがアタマをまわる。桐竹門造の部屋で一通りを習い、そこからは一瀉千里でフランス文学はほったらかしに、いやフランス文学の香気を吸っては、文楽批評に邁進しはじめた。
 その法政3年生のときに豊竹古靫太夫に出会うのである。

 ぼくはいつも若い連中に勧めるのだが、ともかくできるだけ早い時期に"名人"とよばれる人物に出会っておくことである。そのために学校を休もうと、親との約束を反故にしようと、恋人にふられようとかまわない。なんとしてでもその機会をもつべきだ。
 それだけ名人たちには生きたオーラがあるし、味がある。その一挙手一投足に接するだけで何かがちがう。「芸」の上に羽織ってい
る"芸の羽衣"のようなものが、エンゼルヘアのように、浜松図のように、必ず見えてくるからだ。
 ぼくのばあいは、父親が先代吉右衛門や花柳章太郎や先代水谷八重子やらを家に招いていた旦那衆だったこともあって、ずいぶん多くの名人の声や手や背中に接することができた。長いあいだ、そんなものは"ゆきずり"のようなもので、何ということはないと思っていたが、どっこいそうではなかった。すべてが後でモノを言いはじめた。
 むろん、このような機会にはなかなか出会えないかもしれない。それはそれで仕方がないが、そのばあいでも、名人を身近にさがすことである。板前名人でも錦鯉名人でも植木名人でもよい。名人はつねに名人なのだから、とくに芸人とはかぎらない。
 それでもなおどうしても芸人の名人と接したくて、けれどもなかなか出会えないときは、そのときはアンツルこと安藤鶴夫を読むことである。安藤鶴夫でなくて伊原青々園や戸板康二でも、芸人自身の芸談でも、また最近なら渡辺保でもよいけれど、しかし、昭和の後半の文楽ならやはりアンツルなのだ。

 本書は読むだけで汗びっしょりである。
 選書に入っているからといって侮れない。ページ2段組で分量も多いのだが、言葉のいちいちが芸談だから、一言も逃せない。気を許せない。
 気を許せないというのは、ちょっとした観劇の感想だとおもっていると、そこに近松の序破急の本質的な意図の解説や、最初に三人づかいを始めた吉田文三郎が『ひらかな盛衰記』や『芦屋道満大内鑑』でどのような演出をしたかがことこまかに語られたりして、どんな文楽の歴史書にも説明されていないことが、まるでついでのように文章の欄間に彫りこまれていたりすることがあるからで、ぼくが最初に道頓堀の竹本座と豊竹座のシーソーゲームを知ったのも、淡交社の『文楽』か、この本だったとおもう。
 いやいや、そんな歴史の縁起話は序の口で、やはり汗びっしょりになるというのは、そこに太夫や人形づかいや三味線の吐息吸う息
が伝わってくるからで、たとえば古靫太夫はアンツルさんが初めて度肝を抜かれた太夫なのだけれど、その古靫太夫が『双蝶々曲輪日記』の引窓を演じると、与兵衛、母、お早、長五郎、平岡丹平、三原伝蔵をまさに一人で語り分けて、そこはいくら歌舞伎の名優が揃って舞台に立ったものより格段にすごいといった感想を綴るときは、アンツルさんのペンをぶるぶるふるわせて古靫太夫の唸りが聞こえてくるようなのだ。

 古靫太夫はのちに山城少掾となって、昭和文楽の至宝とさえ言われることになる。ぼくの父はそのころ若手の竹本一朝太夫を贔屓にしていろいろ面倒を見ていたが、その一朝太夫さんと噂をするのはたいていが山城少掾のことだった。
 その山城少掾の弟子に綱太夫がいて、アンツルさんは綱太夫のこんなエピソードを伝えていた。戦後になって、松竹と三和会がやっと合同して三越劇場に『忠臣蔵』が出たときである。山科の段に綱太夫が出て、初日の出来栄えも悪くなかった。ところが楽屋に戻って綱太夫はどうも機嫌が悪い。
 そのことをあとでいろいろ尋ねると、山科は座元が櫓下のところへ何度も語ってほしいと頼んで、これを儀礼的に断って、また頼まれてやるほどの重みのある一段なのに、それがない。また、そのくらい大きいものなのに、師匠の山城少掾は七十余年の芸歴のなかでその山科を語らないで床を降りた。だから、まるで自分は何かの代役にすぎないという気分だったと、そう綱太夫が明かしたというのである。
 綱太夫はそのようにアンツルさんに話して、あとはしばらく泣いていたという。こんな話が次から次へと出てくるので、読んでいるだけで汗びっしょりなのだ。

 本書はアンツルさんの芸談を集めたもので、ぼくも本書を読む前にそれぞれ別に読んでいた。
 なかではやはり『古靫芸談』が古靫太夫になりきって聞き語りを"私語り"にしてみせたもので、圧巻である。これを読めば、古靫太夫が少年のころに大阪に行き、南地の阪町にいた片岡我当(のちの十一代目仁左衛門)の口ききで、法善寺に住んでいた竹本津太夫のところへ稽古に通ったころの大阪ミナミの風情から、当時の道頓堀五座の盛況と変遷、船場や道修町の旦那衆たちの義太夫への肩の入れ方、淀屋橋の呉服屋の山中安次郎(この子息がぼくの父に文楽を案内したらしい)の大盤振舞など、そのころの上方文楽文化とでもいうものの真骨頂と、随所に語られる古靫太夫の文楽指南とで、もう読んでいて有り難いというか、勿体ないというか、そんな途方もない贅沢を味わえる。
 大袈裟にこういうことを言っているのではない。生き死にかけた師匠の舞台芸を、若い古靫太夫が床の三本蝋燭の芯切りと白湯汲みのために床脇に控えながら、必死にその芸をおぼえようとしているさまが、どうしてもそのまま伝わってくるのである。
 蝋燭の芯を切るにも、太夫の呼吸や三味線の間拍子の隙間を縫う必要がある。これが若い者たちにはとんでもない修行だったようだが、それをしないと文楽の稽古にならないと古靫太夫はそこを静かに強調する。そういうことが一行ずつ吐息のように押し寄せてくる文章なのである。
 その古靫太夫、七人もいた子供をすべて病死で亡くしてしまった人でもあった。

 『古靫芸談』に対して『桐竹紋十郎』はアンツルさんの文章だけのものである。
 これは、いったん嫌いになった芸人など、その後も絶対に好きになることはないという頑固なアンツルが、どういうわけか中村勘三郎と桐竹紋十郎だけは、ものすごく嫌いで文句ばかりを言っていたにもかかわらず、あるとき急に好きになったという顛末を背景にした話になっていて、なかなか読ませた。ぼくのアルベール・カミュなのである。
 そもそもアンツルは「都新聞」に文楽評判記を書いたのがきっかけで、演劇批評を書くようになるのだが、一貫して文楽と寄席ばかりを贔屓にした。文楽と寄席。この選択こそがアンツルだった。
 いまは落語に詳しいのに文楽はからっきしという連中が多く、また歌舞伎・文楽は晴着いそいそ見ているのにいっこうに落語がわからない御婦人が多いのがおかしいが、アンツルさんはそのあたりにも厳しかった。

参考¶安藤鶴夫のすべては『安藤鶴夫作品集』全6巻(朝日新聞社)で読める。小説には1964年の直木賞となった『巷談本牧亭』が懐かしい。本書の文章は『日本の伝統3・文楽』(淡交社)、『文楽・桐竹紋十郎』(求龍堂)でも読める。

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