旧約聖書
ヨブ記
岩波文庫 1971
ISBN:4003380142
[訳]関根正雄

 旧約聖書はどこもおもしろい。いや、考えさせられる。
 モーセの出エジプトやノアの洪水やソロモンの伝説のように、歴史と虚構がどのように交じったかを読むのもスリルがあるし、ユダヤの預言文学のレベルを他の古代宗教とくらべるのも興味が尽きない。イザヤ書・エレミア書・エゼキエル書を読んだときは、「そうか、これがユダヤの言霊か」と合点した。
 その一方、約束の地カナーンを誓った民族共同体イスラエルがどのようにユダヤ民族のなかの理念として定着していったかとか、古代ヘブライ社会やヘブル語がどんな表現レベルをもっていたのかということを見るのも、興奮させられる。
 しかし、文学的にも哲学的にも、また神学的にも心理学的にも共通する深さをもつ問題を鋭く提示しているところというと、なんといっても『ヨブ記』なのである。ゲーテはこれをもとに『ファウスト』を発想したし、ドストエフスキーはここから『カラマゾフの兄弟』全巻を構想した。

 現行の旧約聖書は「律法」「予言者」「諸書」の3部構成になっている。しかしながら、「モーセ五書」とか「律法」(トーラー)とよばれてきた『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』を読むだけでは入口しかわからない。
 「諸書」と「外典」が異様なのである。異様なだけではなく、広くヨーロッパ史における人間精神の考え方の基層に突き刺さっている。たとえば「混沌から勝利する」というイメージといえば、それは必ず諸書『エステル書』の物語をさすわけだし(ラシーヌの悲劇はここから派生する)、デボラといえば、その名を聞いただけで、これは外典『ユデト書』の勇敢な女性デボラのことなのだ。
 そういう意味で、『ヨブ記』の主人公ヨブは、旧約聖書のなかではカインの問題とともに最も哲学上の重要課題を投げかける人物になっている。ぼくのようなクリスチャンじゃない者にとっても、カインとヨブの名はいまだにぼくの背中のどこかに引っかかった「うしろの百太郎」なのだ。

 『ヨブ記』は「諸書」の中の『詩篇』『箴言』につづいて収録されていて、全体は42章で構成されている。そのうちの1、2章と最終章の一部が散文になっているほかは、すべてが韻文(詩文)である。したがって暗示力がすこぶる高い。
 散文部分は聖書研究者のあいだでは「枠」とか「民間本」とよばれる。おそらくは民間伝承そのままを編集した箇所である。ここではヨブは敬虔な忍従の人として描かれる。きっとイスラエルの地でこの物語を記録した"編集者"の意志が反映したのであろう。
 ところが韻文の部分では、ヨブは3人の友人と果敢に論争し、神に疑問をもち、ついには神に反抗する姿勢すら見せる。この互いに矛盾するようなヨブの二つの立場を描いているところが『ヨブ記』を最も魅力的にしているゆえんで、そのため『ヨブ記』はずっと智慧文学の原典ともいわれてきたのだが、どうして、智慧などというものよりずっとハードな問題を扱った。

 ヨブの名は『エゼキエル書』にも出てくる。が、これは主人公の名を"編集者"が借りただけで、とくに物語と関係はない。
 もともとヨブは裕福で正直な名士で、「ウツ」の地(おそらく死海の南のエドム)に住んでいた。家族も土地も家畜もじゅうぶんにいた。聖書は「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けてきた」と書く。
 そのヨブの信仰を神はさまざまな試練によって試すのだが、ヨブはことごとく信仰の堅固なところを証明してみせる。
 そこで神は悪魔(サタン)を呼んで、ヨブの財産を傷つけたらどうか、体を傷つけたらどうかと言う。悪魔が巧みにヨブの体に悪腫をつけると、ヨブは体中を掻きむしって苦しむのだが、決して神を恨まない。見かねた妻が「いつまで無垢でいるのですか。神を呪って死ぬほうがましでしょう」と言うと、ヨブは「愚かな女だ」と悲しむばかりなのである。
 ヨブが苦しんでいるという噂が広まり、3人の友がやってくる。友人たちはヨブが本人と見分けがつかない苛酷な姿になっているのに衝撃をうけ、7昼夜を一緒にするものの、一言とて会話が交わせない。
 ここまでが「序」にあたる序曲で、ここにヨブの詩が入る。「私の生まれた日は消えうせよ」という有名な呪歌である。ここから壮絶なヨブの疑念が燃え上がる。

 次に「破」に入る。
 友人たちはヨブを慰めるために、「神は絶対に善人を苦しめることはないはずだ」「罰せられるのは悪人だけだ」などと説く。これは当時のユダヤ教の古典的な教訓である。きっとそのような教えが流布していたのであろう。しかしヨブは、そのような古典的な教えをしだいに納得できなくなっている。
 そこで友人たちは、たしかに善人でも苦難にあうことがあるだろうが、そもそも完全に潔白で汚れがない者なんているはずもなく、おそらく天使だって完全ではないはずなのだから、それに加えて人間は悪に染まりやすいのだから、神を信頼しつづけて謙虚に神に訴えればいいのではないかと勧める。
 ヨブは自分がまったく悪行をはたらいていないのに、神がなぜ試練を与えたかが理解できないので、友人の言葉には同意できない。そういうヨブの態度を見て、我慢できなくなった3人のうちのビルダドが「いつまでそんなことを言っているのか。お前の口は嵐のようだ。神が裁きを曲げられるか、全能者が正義を曲げられるか」と罵る。他の友人もヨブを批判する。

 友人たちはヨブが苦難にあっているのは、ヨブが何らかの罪を犯したにちがいないからだと見ているわけである。けれどもヨブはその罪の自覚がないらしい。そこで、エリファズはいくつもの無慈悲な行為をあげ、ヨブに濡れ衣を着せる。
 よくあることである。相手が小さな罪を認めないのなら、もっと大きな罪を付加させたくなるのは、大半の人間がもつ感情であり、かつまたマスメディアや批評家がもつ態度というものだ。
 ヨブはこれらの暴言に耐えられなくなって、「君たちは慰めのふりをして苦しめている」「役にたたない医者だ」と、友人たちを詰(なじ)る。「黙ってくれ、私に話をさせてくれ。たとえどんなことがふりかかってもいい」という絶叫だ。
 驚いた友人たちは、ヨブにともかく黙って試練に耐え、毅然としていけばいいではないかと、なにやら懐柔策に出る。ここでヨブの断固とした一撃が出る。「私が話かけたいのは全能者なのだ。私は神に向かって申し立てたい」。
 この「神への申し立て」が可能なのかどうかという一点が、『ヨブ記』の最初の神学的逆上になる。
 ヨブはすでに何度も神に跪き、もし自分が間違っているなら、そのことをわからせてほしいと懇願してきたのである。ヨブは自分が公平に裁かれているのなら、その報いをうける覚悟はあったわけである。けれども神は沈黙したままにいる。なぜ神は、主は、何も言おうとしないのか。
 この疑問はものすごい。
 それどころか、ここからがさらに重大な社会の成立の仕方そのものに対する大問題になるのだが、もし神が告発者であって、かつ裁判者であるとしたなら、いったいこの世の誰がヨブを裁けるのかという「大疑」が生じてくる。つまり、ここには「もはや上訴のない社会」という問題が立ちはだかってくるわけなのだ。

 どうだろうか。
 ここまでで、誰が『ヨブ記』が提訴しつつある問題に「解」を思いつけるだろうか。自信があるなら、挑戦してもらいたい。
 そのうえで言うのだが、今日の欧米世界の底辺にあるユダヤ=キリスト教社会がこの問題を解決するには、実はこの問題に目をふさぐしかないはずなのだということに気がつかれたい。

 さて、こうして「序・破」をおえた『ヨブ記』はいよいよ「急」にさしかかる。
 ここではヨブが「神はどこにいるのか」「遠いところにいないのなら、自分とともにここに来てほしい」、そして「自分は神とともに裁きの場に出たい」とさえ言う。しかしそれでも神は沈黙したままなのである。
 こうしてヨブは絶望の究極に向かっていく。悪魔を非難するのではない。神に絶望するのだ。そしてすべての人間との交わりを避けて、すべてが自分を放っておいてほしいと願う。これはまさに絶望の精神の行方の暗示というものである。けれども、ここがユダヤ教的なところなのだが、ヨブは絶望しきれない。自害もならず、遁世もない。そして、それならせめて「自分に対する告訴状」を神が出してくれることを、一縷の望みに託すことになる。
 ここでエリファズ、ビルダド、ツォファルの会話を聞いていた新たな登場人物である青年エリフが出てきて、ヨブの独白を聞く。これが長いのだが、意外な結末はその直後に訪れる。嵐の中から主ヤハウェの大音声がついに聞こえてくるのである。

これは何者か。
知識もないのに、言葉を重ねて、
神の経験を暗くするとは。
男らしく腰に帯せよ。
わたしはおまえに尋ねる。わたしに答えてみよ 。
わたしが大地を据えたとき、おまえはどこにいたのか。

 これが神の第一弁論といわれる開始であった。
 ヨブは必死に答えようとするのだが、答えはまとまらない。つづいて神の第二弁論が雷鳴のごとく降り落とされる。

全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。
  神を責めたてる者よ、答えるがよい。

 ヨブは神の臨在に圧倒され、打ちのめされる。そして「急」は幕を閉じ、「終」になる。
 ヨブは言う、「私はあなたのことを耳で聞いていましたが、今や私の眼があなたを見たのです。それゆえ私は自分を否定し、塵芥の中で悔い改めます」。こうして終曲はふたたび散文に戻って、3人の友人には神の訓戒がくだされ、ヨブはふたたび健康を取り戻し、財産が2倍になって復活し、友人知人たちが贈り物をもってひっきりなしに訪れるようになる。
 ヨブは7人の息子と3人の娘をもうけ、4代の孫にも愛され、なんと140歳まで生きながらえた。

 なんと恐ろしい物語だろうか。なんと答えのないレーゼドラマだろうか。
 しかも、この『ヨブ記』を書いた"編集者"の名も出自も、これまであらゆる聖書研究者が"調査"をかけながらも、ついにまったく見当がつかないままなのである。そして、『ヨブ記』の悪魔はメフィストフェレスとなり、神と悪魔の両者を含む超越者はスタヴローギンとなり、ヨブは馬鹿なイワンとも、ゴッホの向日葵とも、ユダヤ・キリスト教社会の未解決の象徴ともなっていったのだ。
 ヨブの問答。
 これは、少しでも神と交わりたい者が必ず出会わなければならない神の教えなのである。

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