小俣和一郎
精神病院の起源
太田出版 1998
ISBN:4872334094

 京都の中学校では「おまえ岩倉、行ってこいや」とか「岩倉から出てきたんとちゃうか」という言葉を何度も聞いた。ちょっとおかしなことを言うと、そうからかわれたのだ。
 「岩倉」とは明治17年にできた岩倉癲狂院が、その後は岩倉精神病院、岩倉病院とつづいた場所をさす。中学生が口にしがちな差別の言葉である。しかし「岩倉」は、もともとは天台密教の余慶法師が10世紀におこした岩倉大雲寺にもとづいている。
 ここに冷泉天皇の妃昌子の精神病治癒を記念して観音堂が建立された。境内に閼伽井(あかい)が涌いていて、霊水として治療によろこばれた。また、後三条天皇の第三皇女佳子が「髪乱し、衣裂き、帳に隠れてもの言わず」という状態になったので霊告によって大雲寺に籠もらせたところ平癒したという噂もたち、岩倉に治癒を求める者がふえたという。

 岩倉は室町期には大雲寺が四九院を数えて荘園も十万石に達したので、参詣者でも賑わった。近世になると、信長の叡山焼き打ちにまきこまれていったん焼失、再建後は数軒の茶屋が繁盛して、そこが精神病者の宿泊施設化していったのである。
 明治になって府知事の槇村正直がこうした過密な治療宿舎の限界を指摘し、南禅寺の一角に新たに京都癲狂院を創設するとともに、岩倉への宿泊が禁止されたのだが、その宿泊所の一軒から岩倉癲狂院が誕生し、土屋栄吉によってコロニー型の精神医療施設として自立した。
 明治末期、ここを呉秀三の案内でロシアのウィルヘルム・スティーダが訪れて、「これは日本のゲールだ」と感嘆した記録ものこっている。ゲールとはベルギーのゲールのことで、ヨーロッパでも珍しい精神病者の参集する地のことである。精神病に罹ったイングランドの王女デュフナの終焉の地であったことから、1349年に教会が生まれ、その後に町全体が世界に稀な精神病者の大コロニーになったことで知られている。岩倉地域はそれほどではなかったろうが、京都では「岩倉」といえば、つねにこのような背景が暗示されたのであったろう。

 この本は貴重だ。精神医療の歴史については多くの本があり、医学史の一分野にも病院の歴史は含まれる。が、日本の精神治療史と精神病院史の歴史観とが結びついたことはまったくなかった。もっと詳細に展開してほしいところはいくつもあったものの、たいへん参考になった。
 これまでフーコーの『監獄の誕生』がそうであったように、精神病史やその施設の歴史については、もっぱら「疎外の歴史」という捉え方が多かった。そうした風潮のなかで、本書は著者自身が臨床精神医学の医師であるせいか、直截な目で歴史の変遷を眺めていてくれていて、かえって考えさせられた。
 その著者の目で、日本の歴史的な精神治療施設は3つに大別される。その前に原型がある。行基の「布施屋」「昆陽施院」、光明皇后の「悲田院」、藤原冬継の「施薬院」などで、主として福田思想にもとづいた八福田(井戸・水路橋梁・道路・父母孝事・師僧孝事・病人・貧窮者・畜生)のうちの病人救済事業として建てられ、治療された。

 こうした前史のうえに、第1には「密教系の水治療を中心とする施設」が生まれていった。
 これは主に水行・滝行とむすびついた治療で、修験道・不動信仰も加わって独得の治療史をもった。高尾山薬王院と連動した高尾保養院、岐阜の鉄塔山天上寺と養老水系から生まれた山本保養所、徳島阿波井神社に関連する磯崎山医王院、そもそもは閼伽井の水が評判だった岩倉施設もこの系譜に入る。
 だいたい薬王院とか医王寺という名称のあるところは、精神治療とはかぎらないものの、かつては治療を施していたと考えていいのだろう。
 第2は「浄土真宗系漢方治療をとりいれた施設」である。
 ここでは、とくに叡尊とその弟子の忍性がひらいた奈良北山の北山十八間戸がわが国最初の癩病者収容施設であったことの影響が大きく、鎌倉極楽寺の桑ケ谷療養所などでは薬草や茶葉を用いて精神治療にあたったとみられている。そもそも叡尊が従来の酒盛をやめて茶盛を真言律宗の儀式にとりいれたような革新的な僧侶であったから、各所に工夫に富んだ施設が飛び火した。愛知岡崎の光明山順因寺は善祐という僧医が癲狂者を漢方薬で治療して、その伝統がえんえん続いて1946年の戦後になって、29代の住職の粟生敏春がみずから精神科医となって羽栗病院をおこした。
 1990年には、108床を有した新病棟が完成したという。
 そのほかにも、大阪泉佐野に浄土真宗の僧医・本多左内が爽神堂を設立して癲狂・癇症のための治療にあたったのをうけて、1889年には七山病院になった例、新潟の永井山順行寺から派生した永井精神病院、広島の南光山専念寺から派生した武精神病院の例なども紹介されている。
 第3のタイプは「日蓮宗系の読経を治療につかう施設」で、題目や法華経を読唱することをもって気分の解放にあてた。
 本書では千葉の田辺日草が精神病に罹って中山法華経寺の荒行で回復したことから東京芝の長久寺の住職になったのち、石神井に石神井慈療院をおこし、それが慈雲堂病院になっていった例を照らしている。ちなみにここには1933年にダダイスト辻潤が入っていたことがあって、その体験をのこしている。そのときも読経が習慣化していたようで、辻は「読経によって無我の境に入ることを得て、自然病気が癒えるのに別段不思議はない」と書いている。

 以上の3つのタイプから日本の精神病院の脈絡が浮き上がってくるという調査研究の視点だけでもユニークなのだが、ここに中国からの陰陽道、錬丹術、李朱医学、江戸のはやり神、加持祈祷術、蘭学・洋学が加わって、日本の精神治療は実は多様な展開をしていたのだということが見えてくる。
 さらにいえば、世阿弥が五番能の四番目物に「物狂」をあげ、中世の狂気にひそむなんらかの身体動向を芸能に高めたこと、また弾左衛門や車善七らの制度が非人の管轄をする一方で、乱心者の収容を担当していたことなどなど、ここに精神病院ではないもうひとつの収容治癒の歴史を加えると、これは絶対に見過ごすことのできない「もうひとつの日本」、ただならない日本を浮上させることにもなってくるのである。
 本書はこうした方向を新たに告げる最初の一撃ともいうべき一冊で、本格的な議論はこれからなのだろう。

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