久保田博南
電気システムとしての人体
講談社ブルーバックス 2001
ISBN:4062573385

 コペルニクスが『天体の回転について』を問い、半世紀後にハーヴェイが『動物の心臓と血液の動きについて』を問うた。マクロの天体も星が巡回し、ミクロの人体も血液が巡回していることが、これではっきりした。
 みんながみんな回っている、わけである。
 ハーヴェイの100年後にヘイルズが樹液に関心をもって樹液圧を測定した。ヘイルズは牧師だったが、牧師にしては敬虔になるよりも大胆になることが好きだったようで、樹液測定の方法に自信を得て血液にも手を出した。馬だった。生き馬の目ならぬ血を抜く実験をした。そのとき馬の動脈血は2・5メートルも飛び上がったらしい。これが血圧と人類の出会いとなった。
 さらに100年後、生理学者のマイヤーが血液は酸素を運搬していると言い出した。この仮説に刺激されてアイントーフェンが心臓から電気が発生しているという証拠を発表した。1903年である。このアイントーフェン検流計をつかって心臓から出ている電気の流れを記録したものが「心電図」にあたる。
 科学というもの、いつの時代も次々に主題を飛び火させてきたものなのだ。人体に関しては、そのように科学者が飛び火をするたびに電気を発しているという証拠が固まってきた。

 結論からいえば、人体は精妙な電気体なのである。
 心臓も肺も電気を出しているし、胃も腸も目も、脳も電気を出している。人体は電気リズム振動体なのだ。しかも、あとで説明するが、液体情報型電気体なのだ。
 人体はまた、電気をよく通す伝導体にもなっている。コンセントにプラグをさしたままその電線の断面露出部に手を触れれば、ただちに体の中に外の電気が入ってきて、ギャッということになる。ぼくが胆摘出手術で入院したとき、近くの病室に体中に皮膚移植をしている青年がいた。電気屋の青年で、天井のコードを取り替えているときに"触電"して、全身が焦げてしまったと言っていた。さすがに瞬間に手を離したので表面だけを電気が走ったらしい。
 人体が電気体だといっても、人体が漠然と帯電しているわけではないし、電気ウナギのような強力な発電装置をもっているわけではない。どこかで電気が"生産"されているのだ。本書はそのしくみを追っている。

 電気の発生現場は、細胞である。
 そもそも細胞膜の内と外でいつも100ミリボルトの電位差がおこっている。
 この状態を「分極」といい、細胞の内側のほうが低いマイナス電位になっているのだが、何らかの刺激をうけるとプラス電位に反転する。「脱分極」という。この脱分極こそが人体のさまざまな"神秘"をうけもっている。
 もともと細胞の内外は電解液で満たされている。そこはふだんはナトリウムイオンとカリウムイオンによって濃度平衡を保っているのだが、外から何かの刺激が加わると、細胞膜の透過特性に変化がおこってナトリウムイオンが突発的に内側に向かって流れていく。突進する。これが生物学でよくいう「細胞が興奮した」という現象にあたるのだが、実際には「細胞膜が興奮した」のであって、それはナトリウムとカリウムのイオン相互に濃度の変化がおこったということだった。
 このとき、ナトリウムイオンはプラスの電荷をもっているので、それが細胞内に流れこみ、内側の電位はプラス20ミリボルトほど上昇する。この脱分極は0.3秒ほど続く。この時間が重要で、その持続を保つために電解液に溶けこんでいたカルシウムイオンが一斉にがんばって内部に移動して、内側のプラス状態を維持するように動くのである。
 かくてこのあと、カリウムイオンがあらためて外側に移動して、細胞膜はふたたび分極状態に戻る。
 つまり、われわれの人体の電気を作ったり運んだりしているのは ナトリウムやカリウムやカルシウムのイオンなのである。われわれはイオンという電気に満たされた電気システムなのである。これに対して、世の中の電気製品のすべては電子によって動いている。

 ぼくは「筋肉番付」というテレビ番組をよく見る。
 自分ではとうていできそうもないことを次々にやってのける男たちの動力学的闘争を見ているのは、なかなか痛快だ。陶酔もする。ちょっとしたバシュラール=バタイユ的陶酔である。
 見ていると、ものすごいことをやるなという感慨とともに、やはり運動の限界というものも見えてくる。筋肉がそれ以上は発奮できない限界があるようなのだ。逆にいえば、筋肉は鍛えればそこまでは活動してくれるということになる。
 その筋肉の活動も、実は「分極・脱分極・再分極・分極」の頻繁なくりかえしによっている。「筋肉番付」ではそれが異常な速度で集中的におこっている。
 海草や魚の小骨などのカルシウムの補給が、いっぱしのスポーツマンに必要な理由もここにある。細胞の中に入ってきたカルシウムイオンがアクチンという細いほうの筋原繊維を活性化させるからである。太いほうはミオシンという。
 その活動のプロセスは筋電図という電気記録装置で記録できるようになっている。「筋肉番付」とはアクチンとミオシンがどれだけ活性するかという「筋肉電気番付」なのだ。

 しかし筋肉が動くには、まずもって筋肉に血液が送られていなければならない。
 その血液を送り出しているのは、もちろん心臓である。その心臓が血液を送り出すときにはリズムが加わっている。われわれが脈をとるときのリズムは、このリズム。
 このリズムが何から来ているかといえば、やはり心臓が電気発振しているからだった。
 当然のことながら、心臓も細胞でできている。だから心臓の活動電位は心臓細胞のそれぞれの細胞膜の内外でおこっている。しかしながら、こと心臓だけはそれぞれの細胞が別々の電位差をつくり、別々のリズムを発振していたのでは大変なことになる。そこには統一リズムを生み出すしくみが必要である。実際にも、生きた心臓を取り出して心筋細胞をバラバラにしておいておくと、それらは最初は別々にピクピクするそうだ。ところがまもなく、それらは統一されていくらしい。
 どこかに全体のリズムを管理しているコンダクターがいるはずなのである。

 このコンダクターは洞結部にある。右心房の上の上大静脈の開口部の前方だ。
 この洞結部がコンダクターであって、つまりはいわゆるペースメーカーなのである。ここで心臓の「分極・脱分極・再分極・分極」の統一発信をする。このペースメーカーによって発信されたマスターリズムを洞調律という。正確には発信というより発振だが、それこそが誰もが知っている「心拍」(脈拍)というものだ。
 これもまた当然に脱分極でおこっている。たとえば1分間に90回の心拍数の持ち主は、2秒ごとに3回の脱分極をおこしているということになる。パソコンでいえばクロック発振器にあたるとみればよい。
 ところで、ふつうこの洞調律のリズムを意志によって変えることはできない。しかしぼくもよくあることだが、人前で話をしようとするときなどは、急に心拍が高まって、ときには心臓が苦しくなってきたような気さえする(ウソじゃない、ホント。ぼくはよくよく上がるほうなのだ)。これは脳からの信号が洞結部に届いたためである。これをメンタリティが心拍に異様をもたらすと、ふつうは解釈している。けれども、そうともかぎらない。

 メンタリティとはいえ、もとはといえば脳の細胞であるニューロン(神経細胞)の電気的興奮によっている。
 静かにしているときのニューロンはマイナス80ミリボルトなのだが、そこに刺激が送られてシナプスを経由して伝わってくると、そのニューロンはプラス20ミリボルト以上になる。いわゆる「バースト」(発火)だ。脳科学ではこのバーストによって起こる波動単位を「インパルス」ともいっている。
 一つのニューロンがバーストするだけではなく、ネットワーク状に連続放電のようなことがおこっていく。ほぼ一瞬である。加えてシナプスでは、このとき化学物質ニューロトランスミッターを放出する。カテコールアミンやアセチルコリンなどで、しばしば脳内物質といわれるが、零のエンドルフィンばかりではない。さまざまなニューロトランスミッターがある。これが「意味」をもっていて、簡単にいえばインパルスとともに伝わっていく。その流れが心臓の胴穴部にもとどく。
 メンタリティの実態がこれだとは言わないが、かなりこのような電気=化学的な機能にも因っている。

 ざっとこんな話が本書には張りめぐらされて、あまり詳細な説明がないぶん、けっこう納得させられる。著者は電気工学者で、医療器械も開発しているエンジニア。
 あれこれおもしろかったが、最も共感できたのは、実は以上のことではなくて、次のことだった。
 それは、人体を工学的に見てみると、どう考えても液体システムを大前提にしていると思えるということだ。

 だいたい人体には体重の60パーセントの水分があり、そこをくまなく血液が巡っている。
 それだけではなく、脊髄液やリンパ液があり、唾液、胃液、胆汁が出入りして、かつ汗、涙、尿、精液がある。これはどう見ても液体システムなのである。
 人体はこの液体システムをフルに活用した液体活用技能に満ちていて、その活性化と制御化の大半のしくみをイオン化された電解液のバランスで動かしている。組織的な信号伝達も信号制御も、とどのつまりは細胞内外の液体中を出入りする電荷をもった「イオンという電気的なるもの」なのだ。
 著者はこう言ったうえで、次のように結んでいる。人体のシステムは何が特徴的かという質問にまともに答えるなら、それは「統率のとれた稀有な液体制御システム」ということになるのではないだろうか、というふうに。
 そこで予告しておきたいことがある。「千夜千冊」でもいずれ木下清一郎という人の一冊をとりあげるつもりだが、ぼくはこの"まともな答"におおいに賛成しつつも、そこに加えて「細胞間コミュニケーション仮説」におけるタンパク質の「意味の冒険」が重要だとおもっているということだ。

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