吉見昭一
虫をたおすキノコ
大日本図書 1984

 戸を立てるクモがいる。トタテグモという。
 地中に袋状の巣をつくって入り口に戸を立てて生活をしているのだが、何かのきっかけでキノコの菌糸に侵されて、外側の色そのままに内側がすべて菌糸で埋まっていることがある。
 しかもトタテグモの頭からは白い柄(え)のような棒がのびている。これはクモタケである。冬は虫であったのに、夏には草の形をして地表にニョッキリ草のような長い柄を突き出すので、このような仲間を中国では冬虫夏草とよんできた。

 本書は、その冬虫夏草がどのようにできたのか、それを著者や仲間の研究者たちがどのように発見し、どのように謎をといていったのかということを、どぎまぎするような発見の興奮を添えて報告した傑作科学読み物である。大日本図書の「子ども科学図書館」というシリーズに入っているが、大人にも読みごたえがある。
 冬虫夏草の寄主にはクモだけではなく、セミ、アリ、トンボ、ハエ、バッタ、カメムシ、カイガラムシ、ウンカ、ケラなどいろいろの昆虫がある。冬虫夏草たちは、これらの虫のタンパク質がほしくて、虫が生きているうちに体の中に菌糸を入りこませ、虫たちの生命にできるだけ影響がないように養分を吸うわけであるが、その養分の採り方が千差万別で、できるかぎり胞子を飛散させ、寄主である虫の住処にとどくように工夫をしている。
 これを虫の立場からすれば、冬虫夏草病にかかったということになり、結局は死ぬことになる。
 しかしながら、森林というものは虫が過密になるにしたがって疲れてくるものである。そこで鳥たちが虫を捕食し、冬虫夏草が虫を倒し、その死骸を分解して森に返すということをする。
 本書を読んでいると、その大きな森林生命のサイクルの不思議も伝わってくる。数々の冬虫夏草の写真も美しい。著者は冬虫夏草を求めて京都・愛知・奈良・三重・香川・徳島・高知・九州太宰府まで発見調査をしつづけた。トタテグモの分布が西日本だったからである。

 さてところで、この本の見返しには「松岡正剛様・退職記念・吉見昭一」という墨痕鮮やかな書が認(したた)められている。
 そうなのだ。
 この本は、著者の吉見先生が長きにわたった教職生活を了えたとき、贈ってくれた一冊なのである。最後は京都市立錦林小学校の校長だった先生はそのとき56歳になっていた。いま、ぼくはその歳を越えて、今日はなんともこんな歳になったのかとおもうばかりだが、58歳の誕生日になっている。
 けれども、ぼくの人生の最初のエネルギーは、また、最初の思考活動エンジンのようなものは、吉見先生にこそ与えてもらったものだった。そのエンジンはいまからおもえば、まことに不思議なもので、一つのものに依存しないで、自分の両側にひそむ力や現象をいかして動かす思考活動エンジンだったのである。
 それは、まさしく虫とキノコの両方のしくみをいかして枝をのばす、冬虫夏草のようなものなのだ。
 その吉見先生が"吸入・圧縮・点火"までをしてくれた小学校時代の特製エンジンに感謝して、ぼくは今日、懐かしい記念をこめてこの一冊を選びたかった。

 吉見先生がぼくを教えてくれたのは昭和29年春からの3年間である。
 ぼくは京都に生まれて東京日本橋にいて、小学3年生の2学期から京都下京の修徳小学校に編入した。編入したときは竹原恵美先生で、4年生から吉見先生になった。徳島出身の先生はまだ大学院を出て2、3年目だったのではないかとおもう。
 破天荒な授業だった。子供心にそれが伝わってきた。
 まずソフトボールやドッジボールを奨励した。元気がいい、やりそこない、上手、へたくそ、負けおしみ、これらみんなを大きな声で絶賛した。「がんばり表」というものをつくり、自分でその日の一日をがんばったと思えば、先生にそれを主張して「正」の字の一本をもらうようにもなっていた。けれども、「正」の一本ほしさにあやしい得点を自己申請などすると、なぜか先生はたちまち見破って、ギョロリと眼鏡の奥から睨むのである。
 学級文庫も開放された。
 これは近くの本屋さんで自分が好きな本を先生の名前で買えるというもので、ぼくはおおいに利用した。学級文庫は教室の廊下側にガラス戸付きの棚に入っていて、ぼくは自分が選んだ本がそこに並んでいくのを見るのが自慢だった。いったいその資金がどこから出ていたのかは、いまもって知らない。

 吉見先生は雪が降れば、必ず外に出て雪合戦をさせた。先生もむろん一緒になるのだが、こういうときは手を抜かない。誰であろうと力いっぱい投げつけた。雪玉の作り方がヘタな生徒は馬鹿にされた。泣き出すような生徒には、みんなでわいわい笑うように煽ったものだ。
 けれども、そのようなあとには、必ず教室のどこかの時間で「あのときのA君の投擲はものすごかったな」「Bさんの涙は次は挽回せんとあかんな」というふうに、完璧なフォローをしてくれたのである。
 授業ではずいぶん当てられた。ともかく当てるのだ。ところがそれで誰か一人が回答しても、先生は他の生徒にも「おまえはどう思うか?」と聞くものだから、どんな問題にもいつも答えがたくさん出てしまうのだ。そこで先生は、それらの答えをたいてい二つのグループに分けてディスカッションさせるのである。教室が市電派とバス派に分かれたときは、ぼくは市電派になってなんとか市電の長所を説明しようとしたのだが、負けそうになった。
 そのときの記憶が30年後に、ぼくに『東京市電・東京都電』(ダイヤモンド社)という本をつくらせたのかもしれない。

 先生は物語をするのも好きだった。
 ぼくが好きなのは木下藤吉郎物語だったが、ただし、どんな物語も一回で全部が終わらないようになっていて、「この続きはまた明日や」「続きは来週や」と言うたびに、こちらはその話の内容をいつも憶えておかなければならなかったものだ。
 先生は貸本屋で立ち読みするときでさえ、「ええか、全部を読んだらあかんで」「できたら5、6回に分けて立ち読みしなさい」と言っていた。立ち読みを禁止したのではなかった。子供であっても読書の極意を実行すべきだと教えたのである。しかも、物語がいつもアタマの中で唸り声をあげている状態を喚起してくれたのだ。いまおもうと、これはすばらしい教育だった。

 これらのすべてが思考活動エンジン「修徳冬虫夏草」の部品にあたるわけである。
 が、そのなかには、誰かが特殊にもっている能力やその家がたまたま富裕だから持ち物が上等であるばあいは、それをみんなに分けなさいという思想が含まれていた。これはぼくの階級観念の突破を支えてくれている。
 たとえば、われわれは給食のときに、PTAのお母さんが届けてくれたマーガリンやチョコレートマーガリンやジャムをコッペパンに塗ることが許されていたのだが、そういうものは、最初は特定の生徒がこっそり家庭から持ってきていた"資産"だったのである。ところが、それらはいつのまにか共有資産になっていて、親のほうもその資産を教室のためにいつも投下しつづけざるをえなくなっていた。そのかわり、その親はPTAなどでおおいに脚光を浴びていた。
 テレビを最初に導入した家も犠牲になった。われわれはその家に押しかけて初めて見るテレビというものを観察する権利を行使することができたのだ。

 絵がうまい子やバレエを習っている子も、放ってはおかれなかった。どんな能力も独り占めはダメなのだ。
 絵のうまい子はその絵を描いているところをみんなが覗くことになり、バレエのうまい子はどうしてそのように踊れるかを、みんなに脚の上げ方を見せて説明しなければならなかった。
 ぼくはたまたま落語が好きだったのだが、これも許してはくれなかった。授業中に「千早ふる」を一席やらされてしまったのだ。しかし、これこそがぼくが吃音訥弁を突破するきっかけになったリリース・ポイントだったのである。

 こうしたなかで、ぼくに最大の影響をもたらした特製エンジンのとびきり部品は、なんといっても日記であった。先生は生徒が書いてくる日記に必ず感想を書きつけてくれるのだが、ぼくにはそれがまるで夢の途中はこのように続くんだよと言われているようで、まさに夢心地だったのだ。
 ぼくの日記は『青空』というものだった。先生が「日記には標題をつけなさい」と指導をしたからだ。その日記は結局は中学まで続き、その途中からは国木田独歩に影響されて『あるがままの記』というものになり、途中の中断はあったものの、ずうっと高校・大学まで続行されることになった。
 おそらくこれがぼくの最初の編集稽古であったろう。

 本書はそういうとんでもない先生が書いた本である。
 先生は、実は菌類の研究者であったのだ。
 そういうことは卒業してずっとたってから知ったのであるが、ぼくは『遊』の第2号を編集しているときに、ふと自分がこういうことをしているのは吉見先生の影響だったということに気がついて、次号予告に吉見昭一「腹菌類の構造」と銘打ったものだった。残念ながら、この約束を先生は果たしてくれてはいないのだが、それは「松岡君、ぼくが書くときは少年少女向けの雑誌になったときにしてくれや」と言われたからでもあった。
 そうだとすると、約束を果たしていないのはぼくだということになる。先生、いつかはこの約束を果たしたいですね。

参考¶吉見先生の図書はどれも感動的である。写真も自分で撮ったものが多い。こういう本がある。『たおされたカシの木』(文研出版)、『キノコの女王』『小さなコップのひみつ』(大日本図書)、『森の妖精』(偕成社)、『日本のキノコ』『おどるキノコ』(岩崎書店)、『京都のキノコ図鑑』(京都新聞社)。

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