井田真木子
フォーカスな人たち
新潮文庫 2001
ISBN:4101259313

 ここでトレースされるのは5人のフォーカスな日本人である。黒木香、村西とおる、太地喜和子、尾上縫、細川護熙。
 いずれも80年代半ばから90年代はじめを賑わせ、そして去っていった男と女。この人選だけで存分に唸らせるものがあるが、ここにどのようなドラマを読むかは、誰がどんなドラマをどのように創るかにかかっている。井田は、これらの人物の背景のリソースを『フォーカス』と『フライデー』の記事の中に絞り、そこに滲み出た"かれらに似たものたち"を嗅ぎわけ、それらの情報をひとつひとつ編んでいった。
 しかも、この5人にはひとつずつ独立した章が与えられてはいるのだが、どこかでつながっていく。加えてこの5人のあいだにはおそろしく多数の"関係者"が出入りする。それでいてフォーカスな5人には大きな焦点(フォーカス)があたっている。

 凝った手法である。独得の手法だし、意表を衝いている。演出家ともいうべきものがある。
 井田は、おそらくはどんな取材対象にも素手で立ち向かい、そこからそのつど、それにふさわしい演出方法を案出するという手順をとってきたのであろう。
 それもそのはずで、ノンフィクション・ライターとして井田真木子の名を知らしめたデビュー作『プロレス少女伝説』(大宅壮一ノンフィクション賞受賞)にして、何か新たな手法をつかわないかぎりは一冊に組み立てることすらとうてい不可能な取材対象なのである。ようするに複数の少女たちを同時に扱わなければ話にならない世界なのだ。

 本書はもともとは『旬の自画像』というタイトルで文藝春秋から刊行された。
 それが6年後に『フォーカスな人たち』に"変貌成長"した。随所に加筆訂正があり、短いプロローグと長いエピローグがついた。その"変貌成長"ぶりからも感じるのだが、井田の手法にはビデオカメラの目が動いている。
 誰かをカメラが追いかける。カメラはその人物だけを写しはしない。その男が家から出てきたのであれば家ごとを、友人と会ったのなら友人も写す。二人が喫茶店で何を食べたのかも撮っていく。ついでにそこでカメラが2台に分かれて、友人のほうの行く先まで撮ることもある。カメラは中心をもたないのである。
 こうしてたくさんのビデオテープが残る。これを編集し、流れをつけ、ナレーションで際だたせる。テレビ・ドキュネンタリーに似ているのである。
 しかし、ノンフィクション・ライターにはカメラはない。その代わりに、その男や女に関する他人の言葉があり、またその男や女の"あることないこと"を報じてきたメディアというものがある。いわば「すでに撮られていた情報」というものだ。ノンフィクション・ライターはこれをつぶさに読む。
 そのうえで井田は取材対象を綴るにあたっては、中心をもたないカメラのような動きを再生した。そこが本書の特徴であり、井田の手法なのである。カメラは主人公の横や脇を通りすぎていった男女をも写し出していく。
 これがどういうことかという例を、本書では比較的ラフにまとめられている太地喜和子の章から少しばかり引き出してみる。

 井田の"言葉のカメラ"は13歳の少女が千代田女学園のクラブ活動の一場面を写し出している。太地喜和子はキューリー夫人についての発表をしていた。そこに中谷啓子がいた。
 松蔭高校に移った太地は1年生のときに東映のニューフェイスに応募して合格した。志村妙子という芸名だった。4年間で4本の映画に出て、何もおきずに終わった。そこで太地は文学座の演劇研究所に入る。そこには中谷啓子がすでに入っていた。中島葵も入ってきた。先輩には、いまは樹木希林と名を変えた悠木千帆がいた。
 ここで、その悠木が役者志望だった太地喜和子と、35年後に伊東の埠頭で自動車に乗ったまま溺死した太地喜和子とを比較する。悠木は太地が死ぬ前に渋谷の呑み屋にいた。悠木は言った、「あなた、なんて醜くなったの」。酔っていた太地は怒る、「あたしを誰だと思ってるの。あたしは、天下の太地喜和子よ」。
 その言葉に別のシーンの太地の言葉がかぶさる。「あたしを誰だと思ってるの。あたしの母親は本当は山田五十鈴なのよ」。

 文学座に入った太地喜和子は変身しなければならなかったのである。フォーカスはその変身に当てられる。
 しかし変身には相手が必要だった。最初は三国連太郎である。太地は三国と激しい恋をして同棲し、そのことを6年後の1970年に「週刊プレイボーイ」で告白した。カメラが男たちのほうへ回っていく。三国は戦争期に国内外を流転して、木下恵介の『善魔』でデビューしてからは役者に徹していたが、デビュー時のプロフィールのすべては詐称だった。だが、その反骨が受け、三国はしだいにのしていく。三国は『飢餓海峡』撮影中に、そのとき津阪匡章(秋野太作)と結婚していた太地を捨てた。
 太地は三国や津阪と別れたあとは男を変えていくしかなくなっている。峰岸徹、田辺昭知、伊丹十三、石坂浩二、津川雅彦、そして死ぬ少し前までが中村勘九郎。
 しかし、これらの色恋沙汰では変身はおこらない。そこで太地がもちだしたのが「私は山田五十鈴の隠し子なのだ」という虚偽だった。驚くべき虚偽である。
 女優としては、もとより師匠の杉村春子にはかなわない。木村光一・宮本研のコンビの舞台に必ず抜擢されて頭角をあらわし、しだいに押しも押されぬスターの座につきかけている太地ではあったのに、彼女はそれだけでは満足できなかったようなのだ。自分の生い立ちを変えてまで、何かを変身させたかったのだ。
 それが、なんということか、山田五十鈴が実の母であるという伝説づくりとなっていった。

 なんだかこんなことばかりを書いていると、ぼく自身が竹中労ばりのトップ屋になっているような錯覚をするほどなので、このあたりで太地喜和子の周辺を暴くことをやめておくが(詳しいことは本書を実際に読んでいただきたい)、むろん井田の狙いもそういう暴露にあるわけではない。
 すでに指摘しておいたように、ここにはカメラによる構成法に似たブリコラージュが生きている。
 しかし、フォーカスな人物たちは、つねにそのように「ノンフィクションされるフィクション」なのであるということも、ここにはメッセージされている。本書は、ついにその『フォーカス』が終刊してしまった今日にこそ、あらためて読まれるべき一冊なのであろうとおもわれる。

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