乙一
夏と花火と私の死体
集英社文庫 1997
ISBN:4087471985

 主人公は「わたし」である。
 9歳、女の子。五月という。「わたし」の同級生に橘弥生ちゃんがいて、よく遊ぶ。今日も二人で遊んでいた。弥生ちゃんには健くんというお兄ちゃんがいる。
 そのうちふとした話のはずみで、わたしは「弥生ちゃんの家に生まれたかった」と言った。わたしは健くんが好きだったので、同じ家に生まれていたらいつも遊べるからだった。そのとき弥生ちゃんがちょっと怪訝な顔をした。そして「弥生は違う家に生まれたかった」と言った。
 気まずくなってきた。二人で木の上に登ってみることにした。太い幹に腰かけて深呼吸した。弥生ちゃんは「わたしも健くんって呼んでみたい」と言う。そうか、弥生ちゃんはお兄ちゃんが好きなんだ、でも兄妹だから結婚できないからつまらないんだ、そう思った。そして、そう言ってみた。
 そして向こうのほうから健くんが歩いてくるのが見えた。わたしは「おーい、やっほー」と声をあげた。健くんも気がつき手を振ってくれた。わたしは嬉しくなった。そのときだった、薄い上着ごしにわたしの背中に熱い手を感じた。弥生ちゃんの手だと思った瞬間に、わたしは枝から落ちて、いくつもの枝にぶつかって体がよじれながら落ちていった。最後に石の上に背中から落ちて、わたしは死んだ。

 物語はこのように始まる。主人公は9歳の「わたし」で、すぐに死ぬ。その「わたし」の死体を健くんと弥生ちゃんがなんとか隠そうとする。二人の死体隠しは難航し、何人かの人物が巻きこまれていく。「わたし」はその一部始終を見ていて、その目で物語が進んでいく。
 この小説はなんと17歳が書いた。作者は1996年の『ジャンプノベル』のコンクールの大賞を受賞した乙一(おついち)君である。ワープロ練習のために書いてみたという感想を読んだことがあるが、どうして、この小説はかなりの傑作である。ぼくはそうとうに褒めたい。
 まず、死んだ「わたし」が物語を進めていくのに、描写と視点の切り替えに無理がない。その淡々としたうまさを説明するのが難しいのだが、たとえば次のようなぐあいだ

 おじさんは何も言わずに扇風機の首振り機能のスイッチを押した。その旧い扇風機は、羽を回すモーターの部分についているピンのような部分を押すことで、首をふり始めるタイプのものだ。
 首を回すと聞いて,弥生ちゃんの肩がぴくんと震えた。奇妙な方向に折れ曲がったわたしの首を思い出したのだった。
 そんな弥生ちゃんにかまわず、アニメは始まっている。おじいさんとおばあさんはたんぼのことや、畑の西瓜が大きくなったこと、使っていた茣蓙(ござ)が古くなっので捨てなければならないことなどを話していた。

 死体になった「わたし」が事態の進行を見ている視点というと、亡霊の視点や死体に住んでいるホモンクルスの目のようなものだろうとおもいたくなるだろうが、そうではない。何の配慮も操作も加えない「わたし」そのままなのである。
 9歳の五月ちゃんという「わたし」は、生きていようと死んでいようと同じなのだ。
 そうしてしまえば、あとは物語作家がこれまで使ってきたすべての手法がそのまま生きてくる。ただ、読者は「わたし」がまだそこにいることを描写されるたびに、ぎくりとする。その味がいい。少年たちによる死体さがしや異物さがしを書かせたら名人芸を見せるスティーブン・キングとはまったくちがった味で、この作品は夏休みにおこった小さな恐怖を募らせる。
 そこへ、犯人の弥生ちゃんの少女っぽい戦慄と、それを庇うお兄ちゃんの健くんの心理が手をとるように伝わってくる。たとえば、こんなぐあいだ。

 低い声で囁くように言って、不安で肩を縮めた弥生ちゃんの手を引っ張る健くん。行き先は広場の見える辺りだ。うまくすれば何か重要なことが聞けるかもしれないと考えている。
 しかし、わたしが隠されている溝の近くの木陰で、健くんの足は止まった。
 わたしがいる溝の周り。森の泥や土で巧みにカモフラージュされたその辺りで、二人の捜索隊員が会話していたのだ。
 弥生ちゃんの顔が蒼白になっていく。健くんはそんな弥生の肩を抱いて、二人は叢(くさむら)に隠れた。息を殺して二人の会話に聞き耳をたてる。健くんは汗を浮かばせることすらなく、会話を聞き取っていた。

 乙一君、うまいねえ。こういう書き方を成立させたおかげで、われわれおじさん・おばさん系の読者は、健くんを慕いながらも死んでしまった「わたし」のせつなさを感じてしまうのだ。

 物語がしだいに夏の花火大会に向かいながら、緑さんというもう一人のキャラクターの意外な活動を通して事態が拡張していく感覚も、よく書けている。
 ごく安易にいえば、これはニューホラーで、隣のトトロやトイレの花子さんの実在が別になんの不思議もない世代にとっては、特別に虚構を設定する必要もない工夫だったのかもしれない。しかし、そうしたニューホラーたちの趣向とちがうのは、この作品があくまで「言葉の作品」になっているということである。映画や漫画ではつくれない。ぼくはそこに注目しておきたい。言葉の組み立てのちょっとした機構の具合こそが、作品のすべてのしくみを作っていくという、その真骨頂を感じさせるところがあるということなのだ。

 どうやらこの作者は、芥川太宰の才能をもっているのではないかとおもわせる。
 いくつかの場面が素材にさえあれば、それらをその場面にひそむ言葉をもってつなげていける作話術の才能というものだ。そして、もしその気になりさえすれば、つまりは余計な美学や思想を持ち出す気になれれば、三島由紀夫のような作品も作れてしまうにちがいない。そうなってほしいということではないが。

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