荒木繁・山本吉左右編注
説経節
平凡社東洋文庫 1994

 ぼくは説経節にめっぽう弱い。
 山椒太夫や信徳丸や小栗判官などの物語がもつ特徴そのものも好きなのだが、そのような物語のどこかにひそむ何かがクドキのフシとなり、浄瑠璃となり歌舞伎となっていくその変容を約束するところ、すなわちそのような変容を促す原型を秘めているということに、さらに惹かれる。
 説経節は哀切に富んでいる。それだけでなく主人公や登場人物の一部が予想をこえる宿命に犯されている。たいていは身体を犯されている。
 ぼくがこのような物語に弱いのは、そもそも鴎外の『山椒太夫』や折口信夫の『身毒丸』を読んだときから、自分がこの手のものにたちまち胸を奪われるので、すぐにわかった。

 一方、高田御贅(ごぜ)の祭文松坂を聞いたときのことだとおもうが、そのクドキを聞いて身が震えてしまった。
 七五調で一句とし、これを一声とか一言とかよばれる節つけで語る。その一声のかたまりが5つほどすすんだところで三味線の合いの手がベェン・ベェンと入る
 痺れて、聞いていた。その後、この祭文松坂がかつての説経節を踏襲しているものだと知って、そうか、説経節はこのように語るのかということに合点がいった。それから若松系の演者がどこかで説経節を語るときくと、出かけていった。
 やっぱり、痺れた。

 その後、東洋文庫の『説経節』を読んだ。「山椒太夫」「苅萱」「信徳丸」「愛護若」「小栗判官」「信太妻」である。
 テキストには、「コトバ」と小字があって「ただいま語り申す御物語、国を申さば丹後の国、金焼き地蔵の御本地を、あらあら説きたいひろめ申すに、これも一度は人間にておわします云々」などと語り文句になり、また「フシ」と小字が入って「あらいたわしや御台所は、姫と若、伊達の群(こおり)、信夫の庄へ、御浪人され、御嘆きはことわりなり」などと進む。
 その繰り返しである。読んでいると祭文松坂を聞いたときの痺れがよみがえる。なんともやりきれない。その、人をやりきれない哀切に追いこむところが、好きだったのだ。

 説経節のルーツは「ささら説経」あたりで、おそらくは世阿弥の時代には本地語りをもった唱導芸能になりつつあった。
 ただし、本地語りの唱導芸能だけならすでに高野聖も盲僧も絵解き法師もしていたはずである。それが独得の説経語りになっていったのは、かなりの下層民がささらを鳴らして語りはじめてからのことだったろう。けれどもその事情はテキストにも残っていないし、その姿が絵に残らない。
 だいたい現存する説経節のテキストはいちばん古くて寛永15年くらいのもので、説経与七郎の『さんせう太夫』のものが残っている。与七郎のことも少しわかっていて、もとは門説経、じつは伊勢乞食というふうなことが書かれている。これは元禄の『諸国遊里好色由来揃』という貴重な文献に見出せる。
 こういうわけなので説経節の実態が中世や戦国期にどのようなものであったかは正確にはつきとめられないのだが、それでも喜多村信節の書きのこしたことなどあれこれ総合すると、少なくとも慶長年間のすがたは蘇ってくる。摺説経、門説経、編木説経、あやつり説経などの分化もみられた。

 それにしても昔の説経節がどんなクドキとフシをもっていたのかを、知りたい。そう思ってずいぶん時をへたころ、太宰春台の『独語』にこんな説明があったことを知った。
 「其の声も只悲しき声のみなれば、婦女これを聞きては、そぞろ涙を流してなくばかりにて、浄瑠璃の如く淫声にはあらず。三線ありてよりこのかたは、三線を合はするゆえに鉦鼓を打つよりも、少し浮きたつやうなれども、甚しき淫声にはあらず。言はば哀みて傷ると言ふ声なり」。
 淫声ではない。それはそうだろう。淫声ではあるまい。
 浄瑠璃でもないというのは、この時期の声のことで、おそらくは初期は古浄瑠璃ともつながるものだったろう。けれども、新しい浄瑠璃の声とはちがっていたというのも、よくわかる。説経語りは享保年間にはすっかり廃れてしまうのだが、それは新たな浄瑠璃の大流行のせいだったからである。
 で、どんな声だと春台が伝えてくれたかというと、「哀しみて傷るといふ声」というのである。「傷る」は「やぶる」と訓む。破れるような声だというのだ。哀しみのあまりに傷がついてしまったような声だというのだ。

 なんという声。なんという破綻。なんという絶唱。
 説経には「いたわしや」「あらいたわしや」という言葉がふんだんに出てくるのだが、その言葉を聞くたびに聞く者が胸をつまらせる。けれども、そこへさしかかってくる前に、すでに声は傷(やぶ)れつつあるわけなのである。その傷の裂け目こそが聞く者に順々に伝わってくる。それが春台のいう「哀しみすぎて破れていく声」というものだろう。
 「いたわしさ」。
 なんだかいまではすっかり死語になってしまったような言葉だ。ぼくは、その「いたわしさ」のためだけのカタリとフシを、今日の日本のどこで聞けばいいのか、そのことばかりがわからない。

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