有吉佐和子
一の糸
新潮社 1965

 そのころ、母の誕生日に一冊ずつ本を贈っていた。山崎豊子『暖簾』、曽野綾子『たまゆら』、永井路子『炎環』、大原富枝『婉という女』、杉本苑子『孤愁の岸』などだった。本書もその一冊のうちである。
 女流作家のものを贈っていたのは、いつか母に物語を書いてもらいたかったからだ。母は俳句や短歌はいつも走り書きしていたが、ついに物語は書かなかった。「そろそろ書いたら」とときどき勧めたが、いつも「みんな生きてはるさかいに」と言って、なかなかペンを執らなかった。
 結局、何も書かずに死んでいったが、女学校時代にラジオのドラマコンクールに応募して優勝してしまった文才の持ち主なのに、惜しかった。何か書かせたかったと思っても、もう遅い。
 そのかわり驚くほど小説を読んでいた。ぼくも贈ったが、それとはべつにせっせと好きなものを選んでいた。なかでも幸田文と有吉佐和子にはいつも感心していた。

 有吉佐和子という稀有な作家がどのように死んでいったのか、ぼくは詳らかにしない。死を選んだように見えたが、そのことを何によって確かめればいいか、放置したままになっている。
 それはそれとして、有吉佐和子をいまなお現代文学の中央の場で議論しないのはどうもおかしい。こんなにすごい作家はめったにいない。日本の家や芸道を描いては他の追随を許さないし、『恍惚の人』で老人問題を、『複合汚染』では公害問題を、それぞれどんな作家よりもはやく取り組んで、しかも重厚に仕上げた構想力は並大抵ではない。そろそろ有吉佐和子文学の周辺を賑やかにするべきである。

 有吉は東京女子短大を出て、25歳で『地唄』を書いた。これが瑞々しいデビュー作で、その後も昭和33年に『人形浄瑠璃』を発表して、はやくも若くして伝統芸能の社会を解剖する目をもっていることを、文壇や読書界のみならず、古典芸能の斯界の連中に告知した。
 ぼくの家は呉服屋だったが、半ばは芸道にまみれていて、芸人さんたちがしょっちゅう訪れていたので、父や母は有吉佐和子の清新な登場を驚いていた。父は「ちょっときついとこ、あるなあ」と言い、母は「あれくらいやないと芸人の世界は書けへんでっしゃろ」と言っていた。
 ぼく自身がその作品に溺れるには若すぎたものの、やはり血の騒ぎというものか、いつしか有吉佐和子を含めた芸道ものに親しむようになっていた。

 『一の糸』は文楽の社会が舞台である。
 主人公は三味線弾きの名手の露沢徳兵衛で、構成も近松以来の上中下三段の浄瑠璃仕立てをおもわせる「一の糸」「撥さばき」「音締(ねじめ)」の3部構成になっている。『紀の川』以来の周到な構成だ。
 ただし、物語を語るのは徳兵衛の後妻になった茜で、出来事のすべてはこの女性の目による叙述で一貫させた。そこは有吉佐和子得意の手法が生きている。筋書きはおおざっぱにいえば、茜が徳兵衛に惹かれて不思議な縁(えにし)で結ばれ、三味線の極意を求めながらも二人が波乱の文楽の世界を生きていくというものになっているのだが、随所に女の細やかでしぶとい目が躍如する。
 最初、ぼくはこの作品を新派の『鶴八鶴次郎』のような話かとおもっていたのだが、まったくちがっていた。やはり茜という一人の女性の生き方が主題なのである。そこが一本、通っている。しかしながら主人公は徳兵衛であり、その芸であり、そして三味線そのものなのだ。その三重性があたかも三味線の3本の糸のように物語のなかで共鳴し、さまざまな物語のサワリの奏法を生かすことになっている。

 時代は昭和を駆けぬけて、戦後まもなく文楽が分裂するという最大の危機を迎えていく出来事を扱った。因会から三和会が分派し、たいへんな紆余曲折の末にふたたび合体するのだが、その文楽一座の崩壊になりかねなかった有名な事件が物語のクライマックスにむかってセリ上がってくるしくみになっている。
 この事件は業界では一種のタブーであったが、有吉佐和子はそのタブーをほぼ正面から取り上げた。主人公の徳兵衛もおそらくは四代目鶴澤清六かとおもわれる。そうだとしたら、物語の半ばから出てくる豊竹宇壷大夫は豊竹古靭大夫だということになる。
 実際にも、宇壷大夫が芸術院会員に推され、その披露を徳兵衛が金屏風の前で口上する第3部「音締」の冒頭の場面は、その直後の古靭大夫の相三味線を別れた鶴澤清六の舞台を髣髴とさせて、印象的に描かれている。

 茜は東京角筈の富裕な商家に生まれた一人娘で、少女のときに目を患ってしまう。不憫におもう両親は娘の良縁をさがし見合いをすすめるのだが、父親の急死で中断する。母親は下田に「みすや」という旅館を開業する。
 実は茜には、少女のころに聞いた文楽の三味線がずっと耳に響いていた。『阿古屋琴責』の清太郎(のちの徳兵衛)の三味線の音である。やがて目がなおって見た清太郎は美しく、茜はその容貌に驚くが、胸に深く刻まれるのはむしろ三味線の音なのである。両親の見合いの話はものかは、茜は巡業先の大垣に清太郎を訪ね、抱かれることになる。が、清太郎には妻がいた。二人はしばらく離れたままになる。
 そこに偶然がくる。ひとつは清太郎が常連客に連れられて「みすや」に泊まったこと、もうひとつは清太郎の妻が先立ったことである。こうして茜は清太郎の後妻として嫁ぐのだが、そこには9人もの子供がいた。
 時代は太平洋戦争期に入り、文楽の苦しい日々が続く。茜も継母として子供たちに反発される。朝の5時から2階で始まる三味線の稽古を前に、子供たちが荒らした家中を茜は次々に片付けていく。そのためには婆やのキノにも教わらなければならない。そこに戦災である。すべてが焼け出される。
 どこか11人の子を育てた与謝野晶子を思い出させるが、このあたりの女の苦労については、さすがに有吉佐和子は手を抜かない。ぼくの母も「有吉さんのもんは、事件がおこってへんとこがよう書けてるのえ」とよく言っていたものだ。

 やがて戦後、文楽は割れ、この業界最大の危機がやってくる。三味線に一途の夫の徳兵衛にも激しい動揺がやってくる。茜はここでこそ三味線が立たなければならないと思う。
 そこへ徳兵衛と宇壷大夫の仲が裂かれる事件がおこる。これは四代目鶴澤清六におこった実際の事件である。そこを有吉はしだいに盛り上げて書く。盛り上げの絶頂点は徳兵衛が『志度寺』を弾く道頓堀の文楽劇場での舞台を、徳兵衛に文句をつけて離れていった宇壷大夫が袖で一心に耳を傾ける場面、まるで三味線の音がページを破って聞こえてきそうなのだ。
 かくて徳兵衛は『志度寺』の千秋楽に、ぶんまわしの床に乗って観客から去っていく直後に発病し、あっけなく死んでいく。ここは明治の名人・豊沢団平そのままである。団平は『志度寺』を弾きながら死んだ。お辻の水行のくだりで、人形遣いの吉田玉造が団平の力のこもった三味線に応じすぎて、玉造の腹帯がプツンと切れたという逸話ものこっている。おそらくは徳兵衛の最期は、団平の最期をモデルとしたにちがいない。
 参考にいうのだが、戸板康二は茜のモデルもきっと豊沢団平の女房だったお千賀だったのではないかと書いている。

 文楽なら外題というべき『一の糸』の由来は、本書の随所に出てくるが、やはり徳兵衛が胴の張り替えが仕上がった三味線を前に、まだほとんど傷んでいない一の糸を替えてしまう場面にもとづいているというべきだろう。
 最初、徳兵衛は仕上がった三味線を右の爪先でトントン、バンバンと叩いて「あかんわ、返してや」と言う。胴ができあがったばかりの三味線がダメだというので驚く茜に、「二の糸の打込みがいけへんのや」という。
 茜はくいさがって、ともかく棹をさしてからもう一度たしかめてほしいと言う。胴の張り替えはびっくりするくらいのお金がかかるのである。
 徳兵衛は胴に棹をさし、3本の糸をかけ、コマをおく。カラカラと軽くまわっていた音締(ねじめ)がぎりぎりと糸を締めあげる音に変わると、徳兵衛は撥をとって静かに弾きはじめる。「やっぱりあかんな」。そのうえ、二の糸、三の糸の疲れぐあいを見て、それを捨てる。そして、何も試さずに一の糸をも捨ててしまう。
 茜はまたまた驚いて、ちょっと使っただけの一の糸をなぜ捨てるのかと訊ねる。徳兵衛が言う。「一の糸は弄うたらすぐ替えないかんのや」。
 そして、こう言いきかす。「三の糸が切れたら、二の糸で代わって弾ける。二の糸が切れても一の糸で二の音を出せば出せる。そやけども、一の糸が切れたときは、三味線はその場で舌を噛んで死ななならんのや」。

 有吉佐和子を読むとよい。そこには日本が忘れた日本があり、日本が堕ちている日本がある。
 こんなことを思い出した。それは朝日新聞に有吉佐和子が連載していた『私は忘れない』(そういう題名だっとおもう)という小説を、母とぼくとが毎日読んでいたころのこと、母がふとこんなことを言ったことである。「セイゴオ、有吉さんっていう人な、これを書いて日本のことを書いているんやなあ」。
 その小説は有吉佐和子がアフリカに行ったときのドキュメンタリータッチの物語だったのである。

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