ギュスターヴ・フローベール
ボヴァリー夫人
新潮文庫 他 1965
ISBN:4102085017
Gustave Flaubert
Madame Bovary 1856
[訳]生島遼一

 フローベールは15歳のときに、トルーヴィルのホテルで会ったシュレザンジェ夫人に惚れて魂を奪われた。
 この夫人は『感情教育』のヒロインのモデルになり、さらにフローベールの自伝小説ともいうべき『狂人の手記』にも出てくる。こんなところで引き合いに出すのも気がひけるが、ぼくも15歳のころ、隣りの夫人に憧れた。
 いつも薄いスカートを翻したり、そのスカートを両手でいじりながら笑顔で話す癖があった。言葉を交わそうとすると喉がカラカラになった。しかたなく黙っていると、しどけなく、しかし挑発的にぼくの下半身に触ってくる人だった。

 その夫人の面影はその後もぼくの中に肯定的にいつづけたが、フローベールはこのときのシュレザンジェ夫人に接した感情を冷静に観察する。『感情教育』の作中人物ジュールの言葉を借りて、自分が夫人に抱いたイメージの限界を反省するのである。
 抒情に流れすぎたというのだ。『感情教育』には初稿と完成版があって、ぼくにはそうともおもえないが、初稿での夫人に対する書き方は失敗だったというのだ。

 抒情に流れて何が悪いのか、ぼくなどいまもずっと流れっぱなしであるが、フローベールはそこがちがっていた。自分のそのような感情を抑制できなかったことが、シュレザンジェ夫人の描写を甘くしたと考えた。
 そういうことを考えられたから、フローベールは近代文学の帳をひらく立役者になり、ぼくはそのまま恋多き人生をいまだ続けることになっているのであろう。
 ま、そんなことはともかくとして、このシュレザンジェ夫人を抒情的に描きすぎた初稿への反省が、フローベールをして『ボヴァリー夫人』を書かせたのである。
 『ボヴァリー夫人』は、文学史の常識では近代小説にリアリズムを初めてもたらした作品だということになっている。
 フローベール自身も「没主観」であることをどこかではっきりと言明した。

 フローベールの父親は北フランスのルーアンで市立病院の外科部長をしていた。エマ・ボヴァリーの最期にかけつけるラリヴィエール医師はこの父親を写したものだといわれる。
 それだけでなく、作品全体に漲るあくまで正確を期しているかのような分析描写は、なるほど外科医のメスをおもわせる。フローベールの文章が執刀的だと言ったのは、口も悪いが、目も利いたサント・ブーヴだった。芥川龍之介は銀のピンセットだったが、フローベールは外科用のメスなのだ。
 たしかにそうなのだが、この作品を近代写実小説の出現ですますのは、あまりにもつまらない。写実力は抜群ではあるが、だからといってフローベールが「没主観」にいたとはおもえない。むしろ、その逆のものが渦巻いていたはずである。たとえば、異常への憧れであり、空想の肯定である。また、東洋的なるものにむかって避難してみたいという気持ちであり、時間の堆積を確信しようとする意志である。人格の奥にひそむ心の乱れを覗く好奇心も富んでいただろう。
 エマ・ボヴァリーをとりまく日々にフローベールが次々に埋めこんだものは、そういう写実主義とも没主観主義ともまったく異なるものだったのではないかと、ぼくにはおもえる。

 だいたいフローベールは死ぬまで臭化カリウムを服用していたような作家だった。
 これは23歳のときに馬車の中で発作をおこして以来のことで、批評家によっては癲癇だというが、ドストエフスキーやネルヴァルやニーチェをはじめとする文豪や哲人を、なにがなんでもすぐに癲癇だと決めつけめのはどうかとおもう。ただ、癲癇ではなかったにせよ、フローベールが青年期このかたずっと極度の神経症に悩んでいたことは事実らしい。しばらくは硫酸キニーネをのみ、その後は臭化カリウムを常用したことがわかっている。
 フローベールはこのような心身の激しい動揺を抱えた作家だったのである。

 しかし、それでもこの文豪を合理精神の持ち主だとしたがる批評家が跡を断たない。
 それは、フローベールが執筆のために引っこんだクロワッセの日々を朝は10時に起き出し、手紙と新聞を読み、11時に軽い食事をとって1時から執筆にとりかかり、7時きっかりには夕食、それがすむと今度は庭を散歩するというような、そんなカントまがいの規則正しい生活をしていたことも手伝ってのことで、その律義に合理的な生活態度と『ボヴァリー夫人』における正則的な描写とが、ついつい重なるところがあるためだった。

 が、それは裏返しなのである。
 エドモンド・ゴンクールがどこかでバラしていたとおもうが(実は本書を読んだのも、本書に関する批評を読んだのも遠い日々のことで、どこにどんな批評が書いてあったか、いまはそういうことを調べないですませているのだが)、ゴンクールはフローベールにはそうとうの誇張癖があったと言っている。
 たしかフローベール自身がゴンクールに狂おしいほど惚れている女流詩人のことを誇張して告白したのだとおもう。フローベール研究者のあいだでは有名な、当時“ミューズ”とよばれていたルイーズ・コレという女であった。
 こういうことにもあらわれているように、フローベールは合理なんかに生きてなどいなかった。合理の仮面の下に隠れている好奇心の情熱をたぎらせていた。だからこそ、エマ・ボヴァリーがどんなに退屈な結婚生活をしていても、そのエマの視線に見えてくる衣裳や部屋や、村や町やら、俗悪なで平凡な人物たちの細部を書きつくすことができたのである。

 フローベールはエマ・ボヴァリーの素材をごくありふれた三面記事に発見した。
 そこから事件を拾い上げ、一人の女の日々を精緻な筆致で拡張していった。ただし、彼女に魂を入れることだけは避けていた。そのかわり次のように描写することにした。
 「エマは前びらきになった部屋着をきていた。胸のところのショール型の折返しから三つ金ぼたんのついた襞のある肌着がのぞいていた。帯は大きな房のついた縒り紐で、臙脂色の小さなスリッパには幅広のリボンがたくさん結ばれてそれが足首までひろがっていた。手紙を書くあてもないのに、彼女は吸取紙や書簡箋やペン軸や封筒を買いこんだ。棚のほこりをはらい、鏡に姿をうつし、本を一冊手にとり、それから読みながら空想を追い、本を膝の上に落とした。旅行がしたくなったり、むかしの修道院に帰りたくなったりした。死にたくもあり、パリへ行って住みたくもあった」。

 舞台はノルマンディ地方の田舎町のトストである。そこへ自分では教養もあり感情のおもむくままに生きられるとおもいこんでいるエマが嫁いでくる。
 夫のシャルル・ボヴァリーは60近くの凡庸な医者で、「歩道のように平板な会話」しかできない。夫だけでなく、町もまた、まったく息のつまるような社会しか提供してくれない。
 それでエマはせめて「逞しい褐色の髪をもつ子」を生むことで、「彼女の過去のあらゆる無力を希望でうめあわせようとする」のだが、生まれてきたのは女の子であった。失望したエマは、なんなく近在の地主と姦通してしまう。

 あまりにあっけなくエマを籠絡できた地主は、かえってエマへの関心を失う。
 エマがイタリアへの駆け落ちを望んでも、巧みに逃げた。これは自尊心の権化のようなエマを途方にくれさせた。エマが自殺を考えるようになるのは、このときからである。
 が、捨てる神あれば拾う神ありで、エマは観劇に訪れた劇場で若い書記官レオン・デュピュイと出会って恋をする。大金を払ってルーアンに住まわせ、ピアノの練習を口実に毎週会いに行く。やっと「本のなかであれほど美しく思えた幸福・情熱・陶酔」がこういうものかと合点したエマは、流行に凝り、「侯爵夫人のようにふるまうこと」を決意する。
 けれども、この金髪の青年は“侯爵夫人”にみあうだけの「英雄的な行動」をとってくれない。それはそうだろう。この田舎にはそのような男は一人もいるわけがない。青年はエマの空想を打ち砕いてしまう。エマは砒素をあおって自殺する。

 この作品にはろくな人物が出てこない。そうだからこそ、克明な描写が生きた。
 とくにぼくが気にいったのは、オメーという薬剤師の書き方である。オメーはたった一つの学会にしか所属していないのに、多数の学会の会員であることを言いふらし、何も研究していないのに薬局のうしろに「研究室」というプレートをかけ、「一流作家の作品を集めた図書室」を誇っている。が、誰もそれを褒めないので、世間が感心するであろう『リンゴ酒の製造方法について』とか『ワタムシの観察報告書』などを自費出版をする。
 フローベールの面目躍如というところで、このようなオメーを描いて、そのスノビズムにエマ・ボヴァリーが感嘆するように仕向けることが、それこそフローベールが世界文学史に近代を代表して投げつけた「ボヴァリスム」というものなのである。
 しかし、よくよく思いをめぐらしてみると、このような「ボヴァリスム」は、最近の日本のおばさんと、おばさんよりもおばさん化しつつある男たちの、不治の病いのようなものになっていた。
 これだから名作はいつまでも現代にもはたらきかけて、ドキッとするようなことを言えるのである。

コメントは受け付けていません。