ウンベルト・エーコ
薔薇の名前
東京創元社 1990
ISBN:4488013511
Umberto Eco
Il Nome della Rosa 1980
[訳]河島英昭

 たった七日間の物語だが、完璧な作品である。閉じた中世世界を“開いた作品”にしたという意味で、完璧なのだ。
 七日間の物語という様式はボッカチオの十日物語、すなわち『デカメロン』に代表されるイタリアに伝承されてきた枠の物語性を踏襲した。踏襲したのだが、物語は老僧アドソが見習修道士であったころの見聞を回想しているという方法の中に蘇生させられているので、たんなる枠物語にはなってはいない。

 主人公は修道士ウィリアムで、このウィリアムが修道院のスクリプトリウム(写字室)を舞台に発生した奇怪な連続殺人事件の謎を解く。事件は1327年におこっている。
 名うてのシャーロキアンで『三人の記号 デュパン、ホームズ、パース』(トマス・シービオク共編 東京図書)という名著のあるウンベルト・エーコは、ウィリアムをシャーロック・ホームズとし、助手のワトソンを見習修道士のアドソに見立てたのだったろう。
 では、これが暗黒の中世修道院を舞台にしたホームズ型の推理小説かというと、たしかにとびきりの推理小説ではあるものの、とんでもない記号と暗号に満ちた複合型のインターノーテーションの構造小説にもなっていて、そこが尋常じゃない。
 たとえば冒頭には、このアドソの回想手記を1980年1月5日にエーコその人自身が複雑な経過で入手したことになっているという仕掛けの説明が掲げられていて、ここにこの物語構造が唐突な虚構性を裏切っていることがのっけから証かされる。
 それに、そもそもの殺人事件というのが「物語の中の物語」とも「書物の中の書物」ともいうべきスクリプトリウムの写本のページの中に起因する。ようするに書物の中の文字の一行ずつが殺害の動機そのものなのだ。この仕組の発見はエーコならではのもので、どこかでエーコが告白していたように、「私は中世について書いたのではなく、中世のなかで書いたのだ」ということになり、それはわれわれ読者にとっては最も欺かれやすい危険を孕む仕組ということになるわけなのである。
 こうした手のこんだインターノーテーションの方法は、そのほか原書にはラテン語をはじめとしてギリシア語・中高ドイツ語の原語のセンテンスやフレーズがその原語の表記のまま使われているという仕掛けにも生きていて、本書が二重三重の構造小説であることを伝えている(この日本語訳ではこれらの原語カタカナ表記で苦心されている)。

 エーコが『薔薇の名前』というとんでもない小説を書いたという噂を知って本書を読んだとき、ぼくは以上のような精緻な蜘蛛の巣にひっかかることなく、この物語を読みきれるかどうか、いささか自信を喪失した。
 熟練した旅人には“旅の勘”がはたらくように、読書にもいわば“読勘”とでもいうものがあるのだが、どうもボルヘスやディックやピンチョンで鍛えた“読勘”では、この作品は読み通せないぞという気がしたからである。
 が、実際には、本書はまことに痛快に読み進むことができた。それは次のエーコの傑作作品『フーコーの振り子』においても同じことだった。
 なぜ痛快に読めたかというと、おそらくエーコという知性はボルヘスやデッィクやピンチョンよりずっと洒落が好きで、お茶目なのである。お茶目といって悪ければ、人を騙す名人芸を心得ている。いやそれではもっと悪口になるというなら、エーコには言語や記号の発生と分化に関する“裏口の秘密”を知っているといったほうがいいかもしれない。“裏口の秘密”というのは、情報が言語や記号をつくったのであって、言語や記号が情報をつくっているのではないということを熟知しているということである。これについてはあとでちょっと説明しよう。

  さて、それにしても、中世修道院のスクリプトリウムにどこかホモセクシャルな匂いのする殺人事件をもちこんでみせたというだけで、ぼくはこの作品を手放しで評価する。
 不満があるとすれば、作品の舞台をもう少しさかのぼって、東ゴート王国のカッシオドルスやボエティウスが跋扈する時代、モンテカッシーノにベネディクトゥスがスクリプトリウムを開設した当時に、異民族のキリスト教徒とベネディクトゥスらのあいだに生じた未曾有の葛藤を、エーコならばきっと前人未踏の物語に仕立てられたのではなかったかというような、そんな身勝手で、恐れを知らぬ不満だけである。
 しかし、よくよく考えてみると、エーコの狙いすました時代設定こそ絶妙だった。
 1327年という年代は、ヨーロッパの人口が4分の1に激減したというペストの大流行の前の時代で、イタリアにはダンテとジォットが出て、ドンス・スコトゥスとルルスのアルス・コンビナトリアが確立したころ、ドイツにエックハルトの神秘主義が勃興し、教会はアルス・ノーヴァの新音楽に酔いしれはじめた時期である。美術史上はマルティーニとシエナ派の時代の絶頂期で、ペトラルカやボッカチオが登場するのはまだ20年ほどをあましている、そんな時期にあたっている。
 碩学のエーコがエーコ流のアルス・コンビナトリアを駆使するにはもってこいなのだ。なにしろエーコの卒業論文が『聖トマスの美的問題』なのだ。この時代は専門なのである。

 そこへもってきて、この14世紀前後という時代は教会と修道院の関係こそ最も怪しい関係になりつつあった。
 ローマ=アヴィニョン軸の教皇とドイツ軸の神聖ローマ皇帝とが世俗権をめぐって熾烈な鎬をけずりあっていた。『薔薇の名前』では、アヴィニョンの教皇ヨハネス22世とバイエルン侯ルートヴィヒがフィーチャーされた対立者になっている。
 そこへフランチェスコ会が絡む。「キリストの清貧」を信仰の真理と公言したフランチェスコ会に対して、教皇側がこれを異端だと言い出したのである。主人公ウィリアムはこのフランチェスコ会の修道士という設定になっている。
 それだけではない。エーコはウィリアム修道士をイギリス人にした。これはウィリアムをして、やはりフランチェスコ会修道士だったロジャー・ベーコンに見立てたからだった。実際にも『薔薇の名前』にはウィリアムが自分はロジャー・ベーコンの弟子で、ウィリアム・オッカムの友人だと言わせている場面が出てくる。オッカムもまたフランチェスコ会である。

 本書の筋は書くまい。おおざっぱな物語はショーン・コネリー主演によるジャン・ジャック・アノーのよく練れた映画にもなったので、それで充分だろう。しかし、筋書きなどエーコにとっては二の次である。
 エーコはあくまでインターノーテーションを『薔薇の名前』という書物構造にするために物語を選んだのだ。それゆえ物語はどの部分をとってもハイパーリンク状態になっている。
 いちいち例はあげないが、殺人事件の直接の原因となったアリストテレス『詩学第2部』をはじめ、随所に散りばめられた「書物内書物」の標題や断片そのものがそうしたハイパーリンクの集約的入口になっていて、読者はそこへさしかかるたびに極度の集中と不安をよびさまされることになる。いいかえれば、われわれが本書の字面を追って読む物語というものは、エーコが設計したそのような情報プログラムに加えられた「みかけテキスト」なのである。

 そんなことがどうして成立しうるかということは、コンピュータとコンテンツの関係を考えてみればたちまちわかる。
 コンピュータにはもともとハードウェアにもとづいたプログラムの回路というものがある。その上にソフトウェアが走るためのOSがある。そこでそのOSに『薔薇の名前』の内容(コンテンツ)をアルゴリズミックにのせるとすると、まず『薔薇の名前』のどこをハード回路にもたせ、どこをOSにするか、そこがユーザーからは見えない潜在的な構造になる。
 ついで、ユーザーが『薔薇の名前』のテキストに入っていくと、そのテキストのホットワードや書名の箇所にさしかかるたびに、そこから別のホットワードや書名の中身のどこかにリンクできるようになる。これもあらかじめテキストの各所にリンキング・アンカーを埋めておいたものなので、どのキーワード(あるいはそのキーワードを含む出来事)がどのキーワード(あるいは出来事)につながるかは、ユーザーは前もっては知らされない。
 けれども、そのリンクを何度か辿っていくうちには、ユーザーは「エーコという編集エンジン」が用意したいくつかの設計思想にふれることになり、それと同時に『薔薇の名前』のテキストの目眩く汎立体性に気がついていく。そして、テキストのあちらこちらに埋められたキーワードあるいはコンテキストを何度もクリックしながら、その複雑多様な編集性を追体験することになる。
 コンピュータ上にアルゴリズミックにプログラムされたテキストを“読む”ということは、そういうことなのである。そして、エーコはそれをコンピュータを使わずして書物文章として実現したかったのだった。そこをぼくは試みにインターノーテーションとよんでみたわけである。

 恐るべきかなウンベルト・エーコ!
 しかし、実はその程度のことならエーコではなくとも近いことはできる。おそらくハイパーテキストを知っている作家なら、いまや誰だって近いことをするだろう。ほんとうにエーコが恐るべきなのは、実は、そのような設計上の仕掛けの出入りを「みかけ上の知のハイパーリンク状態」と合体し、それらを実際の中世キリスト教やグノーシスや異端派の知識の発生分化のしくみと密接につなげているところにある。
 そう見るべきなのだ。
 こうなると、こんなことができる者の数はぐっと減ってくる。少なくとも編集工学くらいは駆使できなくては無理になる(笑)。ぼくもかなり焦りはするものの、それでもここまでならなんとかかんとか対抗できる(笑)。しかし、エーコがやってみせたことはそれだけでもなかった。まだあった。
もっと奥の知の問題、すなわち言語や記号が発生分化していくプロセスに入っていけるような“おつり”を用意した。ここが格段だったのだ。
 少しだけわかりやすくいえば、本書を読むことは「書物の発生」を解読することなのである。が、そのように書物の発生を解読することを考えているウンベルト・エーコにはもともと「書物の相互発生」が見えている。そのエーコが見えている相互発生のプロセスとは、相互発生を封印したり捻じまげたりするプロセスとして歴史のなかであらわれる。そこを『薔薇の名前』を読みすすむ読者が誤読を含めて暗示的に解読するだろうという“読み”が、エーコのそもそもの執筆動機だったわけである。

 そうなのだ、本書のテーマは“読み”なのだ。これはやはりエーコにしかできないことである。いわば作者の特権だ。
 けれども、エーコはこの語り部の特権を手だれた推理作家やホラー作家のようにふりかざすのではなく、実在の歴史のプロセスに戻す“すべ”を知っていた。
 そのためにエーコは、本書の舞台の奥座敷にスクリプトリウムと文書庫(螺旋型塔内図書館)をおいた。そして、その図書迷宮のひとつひとつの書物が、あたかも当時のカタリ派やヴァルド派や小兄弟派やパタリーニ派やドルチーノ派などの、ようするに当時の異端各派の思索内容とコンテキスト対応しているかのような錯覚を与えたのである。

  これはもはや勝手な独壇場というべきもので、やったもの勝ちなのだ。われわれの追随は完全に振り切られることになる。こうなれば、結末に近づくにつれ、なんとでも読者を煙にまくことが可能になってくる。
 案の定、エーコは本書を次のようにアドソに言わせて締めくくっている。「ついには、小規模の文書館として、あの大規模な失われた文書館の記号として、片々たる語句と、引用文と、不完全な構文という、切断された四肢の書物から成る一つの文書館を、私は思い描くようになった」と。
 ずるいよウンベルト・エーコ(笑)、だ。そして、完敗で、乾杯だよ、ウンベルト・エーコ、だ。

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