ダニエル・キイス
24人のビリー・ミリガン
早川書房 1992
ISBN:4152035250
Daniel Keyes
The Minds of Billy Milligan 1981
[訳]堀内静子

 アーサーが言う、「大きなスポットライトがあたっていて、みんなはそのまわりにいるんだ。そのスポットライトに入れば、外の世界に出ていける。スポットに出た者が意識をもつんだ」。
 アーサーは心の中に入って闇の向こうに目を凝らしてみた。3歳のクリステンと遊んでいるレイゲンが見つかった。ユーゴスラビア人でスラブ訛りがある。アーサーが言う、「レイゲン、おまえが人を殺したんだろう」。「知ったことじゃないね」とレイゲンはぞっとした顔で笑う。「だってウォルターが銃を握っていたのは、おまえの計画だろう」。ウォルターはオーストラリア出身でカラスを撃ってからスポットから追放されている。そのウォルターが出てきて、「おれはレイゲンの銃にはさわっていない」と言った。
 それなら計画はフィリップに委ねられたにちがいない。そう、アーサーは確信した。が、仲間がいるはずだ。それをレイゲンが計画したのだったろう。けれども、仲間の一人であるはずのフィリップはトイレでホモを襲ったことは認めたが、レイゲンの計画には参加していないと言いはった。
 これはビリー・ミリガンが自分の中にいるアーサーを使って推理した出来事のシーンの一部である。しかし、ビリー・ミリガンはアーサーを“作った”だけではなかった。そのほかのレイゲンもフィリップも、3歳のクリステンも、ビリーの中にいた。かれらはみんなビリー・ミリガンだった。

 1977年、オハイオ州で連続強姦殺人事件の容疑者としてビリー・ミリガンが逮捕された。23歳の青年である。ところがいくら尋問を加えても、この青年には犯行の記憶がない。
 そのうち驚くべきことがわかってきた。最初は二重人格か、嘘つきかとみえたのだが、どうもそんなものではないらしい。ミリガンの中には複数の人格が“実在”しているらしいのである。多重人格だった。それも単なる多重人格ではない。ビリーの内側にいる一人一人が鮮明な性別、体格、感情、性質、過去をもっている。言葉づかいも異なっている。スラブ訛りのレイゲンと強いブルックリン訛りのフィリップとが、わずかな時間差で共存しているのだ。
 ビリー・ミリガンの捜査と審理にかかわった全員が混乱し、わが目とわが耳を疑い、打ちのめされていった。
 たとえば、検察官や弁護士がビリーの社会保障番号を読みあげると「それはぼくんじゃない」と言う。「じゃ、誰のもの?」と聞くと、「きっとビリーのだよ」と平然としている。「だって、きみがビリーだろう?」「いや、ビリーはいま眠っているんだよ」「どこで?」「ここでね」「われわれはビリーと話したい」「でも、アーサーが許さないよ」。こんなぐあいなのである。
 こうしてアメリカ中のあらゆるメディアと精神医学に携わる者のすべてが注目するなか、ミリガンの犯罪が問われていった。そしてさらに驚くべきことが判明していった。
 最初の裁判の時点で、ビリー・ミリガンには次の10人が棲んでいることがわかったのだった。信じがたいことだが、ざっとこんな連中が生きている。

 ビリー・ミリガン(26歳)=本来の人格の核にはなっているようだが、しばしば分裂したビリーとかビリーUと呼ばれている。アーサー(22歳)=合理的で感情の起伏がないメガネをかけたイギリス人。独学で物理化学を学んだだけではなく、流暢なアラビア語をあやつる。
 レイゲン・ヴァダスコヴィニチ(23歳)=口髭をはやした体重120ポンドのユーゴスラビア人で、セルビア語とクロアチア語を話し、空手の達人でもある。アドレナリンを自由にあやつれることを自慢にしている。その名前は「レイジ・アゲイン」(再度の憎悪)から採られたらしい。アレン(18歳)=口先上手なので交渉ごとに出てくる。なぜかビリーの母親と親しい。
 トミー(16歳)=アンバーブラウンの瞳の色をもった電気好きの少年で、サキソフォンを吹く。縄脱けの名人でもある。ときどきアレンとまちがえられる。ダニー(14歳)=小柄で痩せていて、いつも男性に怯えている。どうも生き埋めにされた体験があるらしい。絵は静物画ばかりを描く。デイヴィッド(8歳)=青い目の少年。他の連中の苦悩を吸収する役割らしいが、長持ちしない。クリステン(3歳)=イギリス生まれの金髪の少女。失読症。花や蝶の絵を描く。クリストファー(10歳)=クリステンの兄貴でコックニー訛りがある。ハーモニカを吹く。アダナラ(19歳)=黒髪の詩人だが、なんとレズビアンである。

 この10人がビリーとともにいた。
 なかでは、アーサーがビリーの意識が安定な心境のときは他の人格に対する支配権をもっているようで、いわばビリー・ファミリーのなかの誰がオモテの意識に登場してくるかのキャチティング・ボードを握っている。
 レイゲンはアドレナリン・コントロールができるだけに途方もない力をもっているが、ふだんは他のファミリーの保護者然としていて、状況が危険になるとときに暴力を発揮する。アレンはビリーが苦境を切り抜けたいときに口八丁であらわれる。
 10人の人格と性質と言語をもっているだけでも異様というか、異常というか、とうてい予想のつかないことであるのだが、実はそれだけではなかったのである。ビリー・ミリガンがオハイオ州のアセンズ精神衛生センターに移され、デイヴィッド・コール博士の綿密な“治療”をうけるうちに、さらに次の13人と1人の“教師”があらわれた。
 俗悪な言葉を話すフィリップ(20歳)、作文を好む犯罪癖のケヴィン(20歳)、自分を大型獣のハンターだとおもっているオーストラリア人のウォルター(22歳)、ビリーの養父に復讐心をもつエイプリル(19歳)、ユダヤ教徒のサミュエル(18歳)、他の人格に閉じこめられると動き出すマーク(16歳)、他人の特徴の真似をして他人をからかうスティーヴ(21歳)、悪ふざけをするリー(20歳)、仲間の記憶を引きうけるかわりに自分の記憶を喪失するという得意な性質があるジェイスン(13歳)、ドリーマーのロバート(17歳)、耳が不自由なショーン(4歳)、気取り屋のニューヨークっ子のマーティン(19歳)、ホモに囲まれて自閉したティモシー(15歳)、そして、最後に出現してきた26歳の「教師」である。

 ダニエル・キイスによると、この「教師」の出現が本書を書くことを可能にしたのだという。
 教師は23人の自我をひとつに統合しようとしてあらわれた人格で、やがて他のファミリー一人一人にかれらの身につけた能力や欠陥のいっさいを付与したことになっていったらしい。きわめて聡明で、機知に富んだユーモアがあり、ファミリーたちを「私がつくったアンドロイド」と呼ぶようになっている。ようするにほぼ完璧な記憶の持ち主なのである。
 それにしても、なんという錯乱だ。なんという統制だ。これらがすべて“事実”であるということ、一人の意識に生じたメンタルだが、同時にフィジカルな並列事態であったということを、どう説明すればいいのだろうか。まさに想像力の極点に生じた混入と統制の出来事なのだ。
 いったいこれはビリー・ミリガンにのみおこった精神医学史上でもまことに稀有な奇蹟というものなのだろうか。それとも、誰の上にもおこりうることなのか。

 このような壮絶な現象に対して、われわれはときに無力な呆然者のようになりかねない。
 たとえば、なぜビリーがこのような多重人格者になってしまったのかということだが、鑑定医師の公式見解では、ビリーにこのような異様と異常がおこったのは、母親に対する解離不安と父親の児童期の虐待によるという。ようするに、そんなことで何の説明になるのか、それでいいのか、それが精神医学の成果なのか、というような結論しか出されていないのだ。
 著者のダニエル・キイスも原因説明にはまったくふれないようにして、この大著を綴っている。
 説明ができないというなら、それはそれでいい。事実をつぶさに観察するだけが心の科学だというのなら、それはそれでいい。説明などかえってないほうがいいこともある。しかしながら、これまで多くの精神障害についてさんざん“説明”と“結論”を繰り出してきたわけでもある。それで犯罪を確定したり、犯罪から消去したりもしてきたわけだ。そうなると、どの精神医学が説明を引きとり、どの精神医学がただの傍観者であるのかということを、精神医学が自分のために説明をすべきなのである。本書を読んでいると、精神医学が無力なのか過剰なのか、そこすらわからなくなってくる。

 ダニエル・キイスは1972年からオハイオ大学で英語や創作を教えていた。そのかたわら、多重人格のフィールドワークをしていたようだ。
 そこへ、この強姦殺人事件がキイスの生活圏の中でおこったのである。なんとも符牒に富んでいる。キイスは10年の自分の日々を賭けてでも、ビリー・ミリガン事件にとりくまざるをえなかったのだ。それにしてもものすごい調査力と執筆力である。
 ぼくは実のところは、なにかというとキイスの『アルジャーノンに花束を』を、女子大生たちが「わたしが感動した本」にすぐあげたがるのに閉口していた。『アルジャーノン』を高校時代に読んだときも、太宰治が好きな女生徒に勧められて読んだのだが、その女生徒の声が聞こえてきて、困った。
 この手の本なら、ぼくは当時からシオドア・スタージョンの『人間以上』のほうが好きだったのだ。
 それが『五番目のサリー』を読んだとき、この主題こそはキイスのよほどのっぴきならい主題なのだということがようやく了解できた。『五番目のサリー』はオートスコピック(自己像幻視)現象をもつ五重人格を扱っていた。それが1981年のことだった。そしてその次が『24人のビリー・ミリガン』なのである。
 キイスのこの本は、このようにしか書けないであろうという方法を発見し、その方法を一貫して徹することによって成功している。ノンフィクションであるが、それこそフィクションを凌駕する。とくに多重人格のキャラクターたちが次々に登場してビリーの過去を再現しながら事態を進めるところは、すべての小説作法をはるかに超える出来になっている。ここでは、さすがのディーン・クーンツもスティーブン・キングも本書の方法には及ばない。
 ただし、本書についてはちょっと不満もある。なんだか「社会」というものが書けていないのだ。もうひとつ不満があった。本書が日本ではロクに議論されなかったことだ。本書に解説を寄せている香山リカをのぞいて、なんだか精神医学界の全体が怖じけづいていた。そして、そのぶん読者界にも鋭い意見が出なかった。みんなビリー・ミリガンを前に無力になってしまったのだろう。

参考¶実はダニエル・キイスが本書を書いたきっかけは、ビリー・ミリガン自身が『アルジャーノンに花束を』を読んでいて、自分のあまりに混乱した人格をキイスに「書いてみてほしい」と頼んできたからだった。こういうことはよくあるらしく、1982年にはクローディア・ヤスコーという分裂症の美しい女性が訪ねてきて、自分が連続殺人事件の犯人扱いされていることを告白されている。この女性の”心の出来事”については『クローディアの告白』(早川書房)という本になっている。キイスはその後もビリーを追って、『ビリー・ミリガンと23の棺』(早川書房)を書いた。これはビリーがオハイオ州立ライマ精神障害犯罪者病院に移送されてからのドキュメントというべきもので、世間から“地獄の病院”とよばれた病院内でビリーが受けた電気ショック療法をはじめとする未曾有の「生の体験」が述べられている。


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