コンラッド・ローレンツ
鏡の背面
思索社 1974
ISBN:4783500312
Konrad Lorenz
Die Ruckseite des Spiegels 1973
[訳]谷口茂

 最初に『攻撃』を読んだ。「悪の自然誌」というセンセーショナルなサブタイトルがついていて、ローレンツの名を一躍一般読者に知らしめた一冊である。
 動物行動学者や生物学者が「悪の自然誌」とか『裸のサル』(デズモンド・モリス)とか『パンダの親指』(スティーブン・グールド)とか『パラサイト日本人論』(竹内久美子)のように、ちょっと露悪的か逆説的なタイトルをつけると、だいたいはベストセラーになることウケアイなのだが、この本はタイトルほどには「悪」を扱ったわけではなく、むしろエソロジー(動物行動学)の水位を根底の方にもっていくという剛腕の仕事になっている。
 早稲田小劇場をつくったばかりで意欲に燃えていた鈴木忠志は、そのころぼくに会うごとに「いま、何かおもしろい本、ある?」と聞くのがクセだったものだが、あるとき「うーん、最近はローレンツかな」と言ったところ、鈴木忠志もそのときは『攻撃』を読んでいたらしく、「うん、あれは演劇論だよな」と言ったのが印象的だった。この一言はその後のぼくと鈴木の蜜月関係を暗示した。

 しばらくして『人、イヌに会う』を読んだ。これは杉浦康平に勧められた
 ジョン・レノンが飼っていたダックスフンドの子を「朝日ジャーナル」の矢野編集長から貰って「レア」と名付け可愛がっていた杉浦さんは、「あれはおもしろいよ、感心した」「ぼくの犬の育て方はあの本で変わった」と言っていた。
 1970年代に入ると、ローレンツがノーベル賞を受賞したこともあって翻訳が次々に出始め、いよいよローレンツが文明論的に人間の将来を真剣に考えていることがあきらかになってきた。
 とくに『文明化した人間の八つの大罪』は問題作というにふさわしく、日本ではあまり話題にならなかったが、ぼくはこの本をかなり広く紹介した。ローレンツが告発している八つの大罪とは、次のことをいう。

 [1]人口過剰
 [2]生活空間の荒廃
 [3]人間どうしの競争
 [4]感性の衰微
 [5]遺伝的な頽廃
 [6]伝統の破壊
 [7]教化されやすさ
 [8]核兵器

 とくに[5]や[7]が気になるだろうが、ローレンツはこの八つの大罪の説明に先立って、「生きているシステムの構造の特徴と機能の狂い」を強調した。
 この1章は注目すべき1章で、当時のぼくは「正のフィードバック」に対する「負のフィードバック」(ホメオスタシス)の確立が、かえってそれを支えてきたサブシステムに機能低下をもたらす幅をつくったということに、いわば“未必の故意”をつくっていたということに、仰天したものだった。

 この『八つの大罪』とほぼ同時期に書かれたのが、本書『鏡の背面』である。
 サブタイトルには「人間的認識の自然誌的考察」という科学者としての重たい意志をあらわす言葉がついている。ローレンツがこの大きめの一冊をもって『攻撃』以来の思索の集大成をしようとしたことがずっしり伝わってくる。タイトルの『鏡の背面』もあいかわらず凝っていて、人間という生物が自分を鏡に映してみたときに見える(あるいは見えない)背面の像を、扱った。
 どんなことをローレンツが言いたかったのか、ぼくなりにかいつまんでおく。

 ローレンツは前置きで、ジャック・モノーの『偶然と必然』を揶揄し、生命体や生物体というものはモノーのように確定的に叙述できるばかりのものではなく、「生きたシステムのプロセスとしてしか現れないものがいっぱいあるんだ」とクギを刺す。モノーは自然の客観性を記述できることが科学の使命だと考えていた。そのモノーは才能はあるがいささか自信過剰な分子生物学者で、ローレンツはその客観性こそがあやしいとみなしたのである。
 ついでローレンツが本論を展開するにあたって前提にしたのは、自殺した熱力学者ブリッジマンの次の言葉だった。「知識の対象と知識の道具は、当然ながら分離されるはずはなく、一つの全体として共にとりあげられなければならない」。
 これは、ローレンツが構築したい科学というものが、認識する主体も認識される主体も同種の現実に帰属しているときに、これを同時に記述できる科学の可能性のほうに向かっているということを示している。一般に「身-心-問題」とよばれているこの見方は、そうは問屋がすぐには卸さないジグザグとした難しい科学的見地の可能性なのであるが、ローレンツは本書でそれに敢然と立ち向かいたいと宣言してみせた。

 そもそもわれわれは、自分が何かを見たり聞いたり考えたりしているとき、その内容がどのように動いていくかということを知ることと、そのときにどのような生物学的かつ生理学的な出来事が動いているかということを知ることを、同時に認識(知覚)することはできない。何か見ているときには眼球の動きに気がつかないし、何かを聞いているときには耳のことを忘れてしまったいる。
 そこで、二つの問題が出てくる。なぜ、そうなのかということをめぐる問題と、どのようなことをこの二律背反な現象から導き出せるかという問題だ。欲ばりなローレンツはその両方を考えようとする。つまり鏡に写った現象と、その鏡を見ている者の現象とを、二つながら問題にする。
 そこでローレンツはドナルド・キャンベルにならって「仮説的実在論」ともいうべきアプローチを試みる。まず、われわれの認識のプロセスは、もとをただせば系統発生的な現象にもとづいているとする。系統発生的だというのは、サカナのヒレは水流との関係から生まれ、胃腸の発達は食べたものによってつくられていくというような見方のことで、つまりはわれわれの目や手はそれ以前の生物がつくりあげてきた器官性をもとにしながら、新たな環境や変化した生活にあわせて発達させてきたものだという見方である。
 そして、このようにしてできあがった“生きた装置”を、ローレンツはとりあえず「世界像装置」とよぶ。かつてカントが「先験的なもの」とよんだものやカール・ポパーが「知覚装置」とよんだものに似ているが、ちょっとちがっている。カントやポパーは鏡に映りこんだほうだけを相手にしたからだ。
 ローレンツはそこをなんとか同時に見るようにする。そのためには、この“装置”そのものの科学というものが必要なんだというふうに進んでいく。

 「生命の最も驚嘆すべき、そして同時に最も多くの説明を要するはたらきは」と書いて、ローレンツはつづけて次のように結論づける。「生物が確率の法則に一見矛盾するかたちで、つまりありそうな事態からありそうもない事態の方向へ、単純なものから複雑なものへ、低い調和をもつシステムから高い調和をもつシステムへ発展することである」と。
 おまけに、こんな奇妙なことをやってのけているにもかかわらず、生命現象はこれまで発見された物理法則に反してはいないし、熱力学の第2法則も破ってはいない。すべての生命現象は、「宇宙に放出される、物理学でいういわゆる消費エネルギーの“余り”で維持される」のだ。いいかえれば、生物とは、正のフィードバックの回路においてエネルギーを獲得するシステムなのである。
 では、なぜこんなことがおこりうるか。
 外界のエネルギーや何やかやを取りこんだときの“装置”に秘密があるからだ。その外界の何やかやとは、ひとまとめでいえば「情報」である。その「情報」をたくみに刷り込むしかけが“装置”にあると考えるべきなのである。ときに「模写をする」し、ときに「形を変える」。
 人間でいえば、こうして“装置”に取りこまれた情報が「知識」だということになる。けれども、この「知識」はおおかたの人々が想像するように、脳によってのみ取りこまれるのではないし、脳にばかり貯まっていくわけでもない。ローレンツのいう“装置”の全体に吸収される。いや、そのように情報吸収したことが、その生物の特徴になっているわけなのである。

 ここから話はややこしくなっていく。情報が取りこまれたことが“装置”そのものの特性にぴったりあてはまるなら、それほどの面倒はない。ところが、そこに特別のことがおこるのだ。これこそローレンツが長期にわたって観察し、考察しつづけたエソロジーの成果である。
 それは「創発特性」あるいは「システム特性」というものだ。この“装置”にはいつしか新たな特性がそなわっていく。それでどうなるかというと、「全体はその部分の総和より多い」ということになっていく。
 このことを説明するために、ローレンツはおびただしい動物行動の例をあげる用意を見せつつ、意外にもニコライ・ハルトマンを借りて、人間が獲得する「存在のカテゴリー」というものがどういうものかの検討に入る。そして、そのカテゴリーには存在するものの基本的な述語性がちゃんと入っているということを指摘する。そして、ローレンツの用語でいえば、生物にはそのような「述語のレール」のようなものがあるはずなのだということになっていく。ということは、システム特性というのは、実はその生物を存在させているカテゴリー特性でもあったのだ。

 こうしてローレンツは、認識のメカニズムと系統発生の比較と検討から、次の3点にクサビを打ちこむ。

 [1]どんな単純な生命システムにも他の生命とは自立して機能する“装置”がそなわっているということ。
 [2]生命現象にはすでに先行していた機能とはちがう新たな機能がたえず統合的に現れ、そのようにして現れた機能は次々にその生物の生命現象の構成要素になっていくということ。
 [3]ただし、そのようなシステム特性だけを取り出すのは不可能であるということ。

 話をとばしていうと、この3点からローレンツはついでゲノムの機能の解読に入り、「生得的解発」というはたらきを“装置”に発見することになる。最初の複雑系に対する予言的な指摘といい、ゲノムと解発機構を結びつけるところといい、このあたりは21世紀の科学をかなり先取りしているところでもあった。

 さて、「生得的解発」を秘めた“装置”はどのようにして確立されるのだろうか。ここからがローレンツの独壇場になる。
 詳しいことは省くが、わかりやすくいえば、この解発はハイイロガンの親と子のあいだに解発が伝わるように、フロクウがズアオアトリの警告反応を解発したように、親と子のあいだのやりとりでも、別種の動物のあいだのやりとりによってもおこるのである。
 興味深いのは、「解発」はそれとは反対の「外傷」(トラウマ)をもつくるということだ。たとえば、一度回転ドアに押しこめられたイヌは、すべての回転ドアを避けるだけでなく、トラウマをうけた場所の一帯すら回避する。
 もっともこうした話は、これまでローレンツがたびたび著書のなかで指摘してきたことなので、本書のこの部分は重複が多い。次に検討するパターン・マッチングのしくみ、すなわち“装置”が秘めている「型」の問題も、実はそれまでの著書のくりかえしに近い。やや新しいのは「移調可能性」という考え方で、これは音楽や歌のメロディに移調があっても、人々はそのメロディの「型」を容易に維持できるように、生物にもそのような「移調」がおこっているということである。これはエゴン・ブルンスヴィックの「擬合理性」とも関連して、いささかおもしろい。

 こうしてローレンツは大胆にも、人間の言語活動をふくむ概念作用がどのようにできているかという方面に入っていく。
 チョムスキーやヘップが登場し、あれあれとおもうのだが、結局ローレンツは、言語学者が考案した言語のしくみでは、とうてい生命現象の只中に出現した例の「世界像装置」は説明できないだろうと言って、ホッとさせる。ホッとさせるのだが、そんなことで言語論の成果を片付けてもいいのかともおもわせる。このあたり、たいそう強引なのである。
 かくて第8章は「人間の精神」という危険な章になる。ここでローレンツは「文化」にさえ立ち入って、文化の定義を「超個人的システムの個別具体的実現」というふうにする。これはかなりムリがあるところで、案の定、このムリがそのあとの数章にまたがっていく。しかしローレンツが言いたいことがわからないではない。「生きたシステムとしての文化」は、必ず分岐的に発展していくものだということをなんとか説明したいわけなのだ。
 このことを説明するのにローレンツはあまりうまくない。とくに生物学の事例を人間の文化にあてはめるのは、あやしい点が目立っている。そのため、このようなローレンツの主張は、これまでほとんど無視されてきた。しかしながら、ここが肝心なところになるのだが、では、このような問題に立ち向かうときにどうすればよいかという対案など、その後は誰によっても提出されていないのだ。われわれは“このローレンツ”をこそ検討すべきなのである。

 ぼくが一縷の望みを賭けるのは、習慣・共鳴・好奇心(好み)・誘導といった、生物にも人間にもあてはまる現象が、これまでエソロジストたちによってみごとに説明されてきた装飾・表示(ディスプレー)・過剰防衛といった現象と同様につっこんで議論されることにある。
 そのためには、ローレンツが本書の最後で提案しているように、文化が破壊されていったプロセスに注目して研究をするのがいいようにおもわれる。
 生物の現象はつねに不変性や恒常性を維持するための戦いによってつくられてきた。これは、誤解を惧れないでいえば、いわば“生物的な伝統文化”とでもいうものである。生物たちのこの伝統文化は、環境の激変や遺伝子の狂いによって破壊されることがある。では、人間の伝統文化はどのように破壊されるのか。
 ここからはおそらく、文化というものには先験的な計画性がないのだという驚くべき本質が浮上するはずである。また、このことを知るには、まずは文化の破壊のプロセスにエソロジストのような視点をもちこむことがひとつの突破口なのである。
 本書はそのあたりの暗示を仄めかせて、おわっている。コンラッド・ローレンツ、1903年に生まれて85歳で死んだ。一個の生態系が倒れたようなものだった。

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