才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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哲学ノート

レーニン

白揚社 1932 1975

В.И.Дeнин
ФИДОСОФСКИЕ ТЕТРАДИ 1929
[訳]松村一人

 目で文字を追っているだけではない。本を読むという行為はけっこう複雑だ。ワードとフレーズとセンテンスに引っぱられつつ、文意に賛否を感じながら起承転結を確認する。読書には読む者の心理・生理・物理・教理・学理が絡み、それがページをめくる意欲を後押しし、大小の注意力や前後の集中力を支え、散漫や放心や中断をおこさせる。書き手は仕事を了えているけれど、読み手の仕事はいま進行中なのである。
 本書の読み方は妙なものだった。ひとつはレーニン思想哲学の一冊としての読書体験だ。レーニンの本を読むというなら、何といっても『国家と革命』が筆頭にあがるだろうし、マッハ相手に四つに組んだ『唯物論と経験批判論』も忘れられず、その次にやっと本書か、記念すべき『帝国主義』がくるというところだ。だから『哲学ノート』をこれら三冊より熱心に読めたというのではなかった。
 もうひとつの読み方はやや変わらざるをえない。本書はレーニンの読書に関する書き抜きノートそのものの翻訳で、そのため岩波文庫版ではレーニンが他人の著書の文章に施したアンダーラインやメモや括弧やコメントがそのまま活版の約物をつかって復元されている。それゆえ引用文を読みながら、レーニンの示したメモやマーキングを同時に読むことになる。

 本をどう読んだかという読書録めいたものは、いくらでもある。学術的な本は、ほぼ六〇パーセントが他人の本についての読解性にもとづいているとも言える。けれども、それらの本のあちこちに読み手の感想がかぶさっているような本はめったにない。
 タテ組にはなっているが、岩波文庫を開いて見てもらえばすぐわかる。本書の各ページには随所に「注意」「すばらしい!」「適切で深い言葉だ!」「正しい!」「マッハ主義と比較せよ」「こっけいだ!」といった書きこみ、大事な文章を囲んでいるところ、強調点・線・二重線・波線を使い分けて強調しているところが示され、そしておびただしい量の注解や見解のようなものが書きこんである。それがほぼ全面的に約物入りの活字組で再現されている。
 つまり、レーニンの筆跡こそ再現されてはいないものの、レーニンがどのように本にマーキングをしたかはだいたいわかるようになっている。どんなノートをつくっていたかということもほぼ伝わってくる。こんな本はめずらしい。
 ぼくはこの本で初めて、世の哲人や学者や革命家たるものが、ようするにベンキョー家たちがマーキングをしながら本を読んでいるのだということを知ったのだった。そうか、本って書きこみをしていいのか。本はノートなんだという驚きである。さっそく試みるようになった。
 やってみればすぐわかることだが、本への書きこみは予想以上におもしろい。そこにあるのは白紙のノートではなく、他人のテキストなのである。そのテキストを読みながら書きこめる。印をつけ、色を変え、コメントを書く。もっと愉快なのはそうやって初読時に書きこみをした本を、他日に開いたとき、新たな高速再読が始まるということだ。これは意外なほどに読書体験というものを立体化させていく。
 
 本書でレーニンが読んでマーキングした本とは、ヘーゲルの『論理学』『歴史哲学講義』『哲学史講義』、ラッサールの『エフェソスの暗い人ヘラクレイトスの哲学』、アリストテレスの『形而上学』、フォイエルバッハの『ライプニッツ哲学の叙述・展開および批判』、そしてマルクスとエンゲルス共著の『聖家族』である。
 このうちノートはヘーゲル『論理学』についての抜き書きとメモがいちばん多く、約半分を占めている。だいたいは第一次世界大戦下の一九一四年からスイスのベルンに亡命していた二年間ほどのノートだ。
 このころのレーニンは第二インターナショナルの裏切りにあっていたころで、妻のクルプスカヤの『レーニンの思い出』(青木文庫)によると、ベルンにきてすぐに『グラナート百科事典』のカール・マルクスの項目の執筆にとりくんでいた。それを了え、ヘーゲルの『論理学』にとりかかったようだ。

 レーニンが読書に異常に熱心だったことはよく知られている。
 一九〇三年のジュネーブ亡命のときは、マルクスとエンゲルスの全集を図書館に通って片っ端から熟読しているし、一九〇八年にパリに亡命したときは、国立図書館までの距離が遠く、自転車で通うには要注意人物化していた身には少なからぬ危険が伴ったにもかかわらず、毎朝八時に起きて図書館に通い、いつも二時に帰ってくるという読書稽古を日課にしていたほどだ。むろん自宅でもずいぶん読書に時間を費やしている。
 自宅では手元に本があったのであまりノートをとっていないようだが、図書館に通っているときはたいていノートをとっていた。本書に収録されている本も、そのほとんどがベルン図書館蔵のものである。図書館の本には書きこみはできない。だからレーニンは気になる文章を猛烈なスピードでノートに書き写し、そのうえで、書き写しながら感じたことを、そこに書きこんだ。そこにはアリストテレスからマルクスまでが同時に住みこんで、その住人の言葉にレーニンが添削をしているように読める。まことにめずらしい本なのである。
 
 やはりウラジーミル・イリイチ・レーニンその人のことと、ロシア革命のことを書いておく。ロシア革命についてはかつてどんな歴史もそこに到達しなかったプロレタリア革命が、いかに多様な反抗とストライキの積み重ねであったかを物語る。レーニン本人には謎が多いが、なんといっても革命家の生涯なのだから、ありきたりなこともきっと何かを暗示する。
 レーニンは本名ではない。あとで名のった。本名はウラジーミル・ウリヤーノフだ。一八七〇年のヴォルガ河畔のシンビルスク(いまはウリヤノフスク)で、物理学者の父とやや混血系の母のもとに生まれた。父のイリヤは非ユークリッド幾何学の提案をしたロバチェフスキーの親友で、地元の名士として知られていた。子どもたちは奴隷や貧困に心を致すように教えられていたようで、そのせいか早世した者を除いた兄弟姉妹五人が、すべて革命家に近い道を歩んだ。
 九歳でシンビルスク古典中高等学校に入ると、全科を通じて首席となった。けれども十五歳で父を亡くし、翌年には兄が皇帝アレクサンドル三世の暗殺にかかわった容疑で絞首刑になった。姉も同じ容疑で追放処分を受けている。
 にもかかわらず、そのあたりのことについては長じてもほとんど文章にしなかった。おそらくは、その後のレーニンの身や周辺におこった首肯しがたい事件や出来事の数々の連打からして、兄や姉の不幸な犠牲など(そうとうショッキングなことだったろうに)、語るべきものとならなかったのだろう。革命家には逮捕・投獄・追放はしょっちゅうなのだ。

 一八八七年にカザン大学に進んだ。ラテン語・ギリシア語を習得したが、ここでマルクスの著作に出会っている。マーキングをしたかどうかはわからないが、学生運動にはかかわって警察に拘束され、大学からは退学処分を受けた。
 いったん母の農場などにいたものの、むずむずしていたのだろう、サンクトペテルブルク大学の試験を受けたり(満点だったようだ)、弁護士資格を取得したり、弁護士事務所で一年半ほど仕事をしたりしたのち、ペテルブルクに引っ越した。ゴーゴリの『外套』などを読めばすぐ見当がつくが、ペテルブルクは青年レーニンを起爆させるにふさわしい都市だった。さっそく「労働者階級解放闘争ペテルブルク同盟」を結成するのだが、たちまち警戒され、逮捕・投獄されたのちシベリア流刑罪になった。すぐに逮捕されるなんて、あえてうまく立ち回らなかったとおぼしい。それが一八九七年だから二六歳だ。刑期は三年。そのあいだ寒村ウファで本を読み、そこで再会した革命家のナデジダ・クルプスカヤと結婚し、『ロシアにおける資本主義の発展』を書く。
 当時のロシアは社会民主主義派が多く、ツァーリズムを打倒するより労働者の経済的地位を向上させる〝経済主義〟が主流になっていたので、レーニンは資本主義の蜜の根本に疑義をぶつけたのである。
 一九〇〇年一月、刑期が了わってプスコフに少し留まったのちスイスに亡命した。〝経済主義〟を批判する仲間とともに政治闘争を訴える新聞「イスクラ」を創刊するためだ。イスクラは「火花」という意味だ。
 一九〇二年、明快なアジェンダ『何をなすべきか?』を書く。労働者は経済主義にとどまってはいけない。それではブルジョワ・イデオロギーと変わらない。諸君は社会主義の実現をめざし、少数の職革(職業的革命家)を組織して政治的な革命に向かうべきだというものだ。このときレーニンは、カウツキーの「社会主義の意識はプロレタリアートの階級闘争の中へ外部から持ちこまれたもので、自然発生的に生じるものではない」という見解を引用した。のちに「外部注入論」と言われた。
 翌年、イスクラ派はロシア社会民主労働党(RSDRP)の第二回党大会を開催して気勢を上げた。ここで方針をめぐる歴史的な対立がおこる。メンシェヴィキ(少数派)とボリシェヴィキ(多数派)の分派である。イスクラ編集局六名もここで割れ、以降レーニンはボリシェヴィキ派の亡命リーダーとなった。のちにボリシェヴィズムはレーニン主義と同義の用語になる。

 一九〇五年ロシア暦一月九日は日曜日だった。独自の労働者組織をつくったロシア正教のガポン神父の引率で、労働者たちがペテルブルクでニコライ二世の皇宮に向かっての請願行進をしていた。憲法制定会議の召集、労働者の諸権利の保障、日露戦争の中止などを請願する行進だったが、六万人を超す参加者に動員された軍隊がこれを取り締まりきれずに発砲した。大混乱のうちに一〇〇〇人以上の死傷者が出た。「血の日曜日事件」である。
 当時の民衆はロシア正教の影響によって皇帝崇拝の傾向をもっていたのだが(皇帝は王権神授によるものとされていた)、この事件以降、崇拝は色褪せ、ロシア革命の幕が切って落とされた(ロシア一次革命)。レーニンはすぐに『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』を書き、「プロレタリアートと農民の革命的民主主義独裁」の方向を示した。いささか未熟な労農民主独裁論だった。
 ロシア一次革命は、一九〇七年六月のストルイピン首相のクーデターで終息した。レーニンも潜伏する。労働者運動や革命運動はストライキの頻発度におきかえられていった。ストライキは自発的なものもあるが、多くは指導機関や誘導機関がかかわり、その立場と思想はまちまちである。
 そうしたなか、一九一二年四月にバイカル湖北方のレナ金鉱で鉱山労働者たちによるストライキが始まり、またまた軍隊による発砲で多くの犠牲者が出た(レナ金鉱虐殺事件)。改善闘争は続くのだが、それだけでは盛り上がらず、犠牲を生み出すごとに、改善意識は暴発力を秘めて革命意識に転化していった。一九一四年、ストライキ型の労働運動はかつてなく広がり、厚みを増した。
 ヨーロッパではバルカンのテロを契機に、第一次世界大戦の突端に火がつき、ヨーロッパを巻きこむ戦争が一挙に拡大していた。その波状は予想を超えそうだ。レーニンはそこを凝視する。

 戦争は敵国や敵の兵士を相手にする。そのためどんな戦争であれ、国内には愛国心が昂まり、ナショナリズムが沸々と動く。革命は国内の敵と闘う。労働者は資本家や政府に向かい、農民は地主や為政者に向かう。その一方、戦争は多くの男たちを軍隊に吸収し、家族を孤立させ、軍備力と工業力のための国軍の費用をふんだんに放出する。
 ロシアは第一次世界大戦の連合国側に与し、内に労働運動を、外に戦場をかかえることになった。
 一九一五年の時点で、戦争と革命はごっちゃになりつつあった。政府はロシア各地の住民に兵役を命じ、それまで兵役対象からはずしていた中央アジアの諸民族やザカフカスの住民にも動員を命じた。
 自由主義者は「進歩ブロック」をつくって、戦勝をもたらしうる信任内閣の形成をめざした。急進派は労働者代表を含めた戦時工業委員会を主要都市に次々に送りこんだ。一九一六年十月、ペトログラード(サンクトペテルブルク)の労働者がストライキを打ったところ、軍隊の一部がストライキ側に加わった。政府は動揺し、国会ではロシアが「愚行」を継続するのか、国を「裏切者」に売るのかという議論が沸騰した。「進歩ブロック」のミリューコフの策略だった。
 そんなとき、長らく皇帝夫妻にとりいって権勢をふるっていたラスプーチンが暗殺された。暗殺者はテロリストではない。皇族や貴族の有志が殺したのである。一九一七年一月、国会デモが始まった。

 一九一七年二月、ペトログラードで国際婦人デーにあわせたヴィボルグ地区の女性労働者がストライキに入った。この「パンよこせ」デモは数日のうちに「戦争反対」「専制打倒」の声と混じっていった。革命家はこうした民衆の要求を巧みに暴動に誘導する。暴徒には官憲が出動する。
 ニコライ二世はストとデモの鎮圧を命じ、ドゥーマ(帝政ロシアの議会)には停会命令を出した。ところが鎮圧に向かった兵士が次々に労働者や女性デモ側についたのである(つかせるように陽動した)。すかさずメンシェヴィキはペトログラード・ソヴィエトを結成し、チヘイゼが議長を選出し、ドゥーマは十月党のロジャンコのもとに臨時委員会を動かして、三月二日にリヴォフを首相とする臨時政府をつくった。社会革命党からケレンスキーが入閣した。
 ツァーリの権威は風前の灯である。ニコライ二世は弟のミハイルに皇位を譲ったが、弟がこれを拒否し、ここに三〇〇年にわたったロマノフ朝が自壊した。これがロシア二月革命である。
 ペトログラード・ソヴィエトは、このあとのさまざまな決定はソヴィエトと臨時政府の見解が一致するかぎり遂行されるという声明を出したものの、これは「二重権力」だった。チューリヒにいたレーニンは、マルクスの「プロ独」(プロレタリア独裁)の実行はまだ遠いと思う。

 臨時政府は対ドイツとの戦争を継続すると発表して連合国側の歓心を買った。ペトログラード・ソヴィエトは「全世界の諸国民へ」という声明で、ロシア人民がツァーリの専制権力を倒したように、諸国が民族的にも自決することを呼びかけた。外相になっていたミリューコフは決定的勝利に至るまで世界戦争を遂行しようと呼びかけた(ミリューコフ覚書)。
 何かが食いちがったまま、第一次連立政府がスタートを切った。そこへ三月になって流刑地からカーメネフとスターリンが戻り、四月三日にレーニンがスイスからドイツ経由の覆面亡命列車で帰ってきた。ドイツはレーニンに戦争終結の活動をしてもらったほうがいいので、あえてレーニンを庇護したのである。これで、メンシェヴィキに主導権をもっていかれていたボリシェヴィキが一挙に動きだした。
 機関誌「プラウダ」は「革命的プロレタリアートが行動をおこす」「銃弾には銃弾を、砲弾には砲弾をもって応じよ」と扇動し、レーニンは「四月テーゼ」を書いて、政策転換を訴えた。そこには「ブルジョワ政府に対する反対」、「祖国防衛の拒否」(戦争反対)、「全権力のソヴィエトへの移行」が強く明記された。
 こうして七月蜂起に向かって過激なデモや武装闘争が繰り広げられたのだが、指揮をとったボリシェヴィキとアナキストはことごとく弾圧された。トロツキーやカーメネフは逮捕され、レーニンやジノヴィエフは地下に潜った。デモ部隊は武装解除されて、兵士として前線に送られていった。

 ここから十月革命に至る苛烈な日々には「民衆の熱狂」はない。革命指導者たちによる戦術につぐ戦術、転換につぐ転換、クーデターにつぐクーデター、決行につぐ決行だった。多くはレーニンの判断だ。
 なかでも一九一八年一月の憲法制定議会を、レーニンの判断で機略的に封鎖してしまったことが大きかった。謀略的封鎖だったが、これで決定的イニシアティブがボリシェヴィキの掌中に入った。レーニンが武装蜂起による権力奪取のシナリオを中央委員会に提起すると、中委は十月十日に武装蜂起を決定した。翌々日、ペトログラード・ソヴィエトも軍事革命委員会を設置し、トロツキーの画策も相俟って、軍部の各部隊が次々に蜂起支持を表明すると、臨時政府の打倒が開始された。冬宮は占拠され、最後の反撃を試みるケレンスキーも倒れた。
 残るはどこがソヴィエト権力を握るかである。武装蜂起に参加したエスエル(社会革命党)左派は除名処分され、左翼社会革命党として独立して、十二月九日のボリシェヴィキとの連立政権の確立に応じた。しかしその後のエスエルは憲法制定議会に全権力を集中させることを要求して、レーニンが示した「憲法制定議会はブルジョワ共和国の最高形態だが、われわれはもはやそれより高度なソヴィエト共和国にいる」という見解と対立した。
 翌一月五日に開かれた憲法制定議会はエスエルが主導することになり、ボリシェヴィキの提案は否定された。ところが翌日、レーニンは人民委員会議の名によって憲法制定議会を強制的に解散させ、一月十日に「ロシア社会主義連邦ソヴィエト共和国」の成立を宣言したのである。ロシア十月革命は最後の数週間でとりあえず成就した。世界中がびっくりした。また、警戒した。

 世界大戦は囂々と進行していた。レーニンは「四月テーゼ」以来、一貫して戦争放棄を主張していたから、すべての交戦国に対して無併合・無賠償の講和を要請するのだが、フランスもイギリスも他の連合国もまったく無視した。そこで、ソヴィエト政府はドイツとオーストリア゠ハンガリーとの単独講和に踏み切るべくブレスト・リトフスクでの交渉に入る。トロツキーが交渉に当たった。
 ここでソヴィエトに三つの方針が分かれた。講和ではなくロシア革命をヨーロッパに波及させるべきだというブハーリン派、ドイツ側の条件を受け入れて次の展開に備えるというレーニン派、ドイツに革命を勃発させるべく交渉を引きのばすべきだとするトロツキー派である。
 最初はトロツキーの路線が支持を得て、一月二七日にドイツ側の要求を却下したのだが、ドイツ軍がロシアへの攻撃を再開してロシア軍が潰走するに及んで、レーニン案が浮上した。三月三日、ブレスト・リトフスク条約が締結され、ロシアは講和と引き替えにフィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ、ザカフカスの一部を手放した。のちにドイツ敗北後、この条約を破棄するのだが、ウクライナ以外はそのまま独立に進んだ。エスエルは講和条約に反対して、連立政権から脱退した。
 連合国側は、こうしたソヴィエトの革命政権をこのまま容認できない。各国は口実をつくって出兵や駐屯を試みる。アメリカ・日本はシベリア出兵を、イギリスは白海沿岸都市の占拠を、それぞれ狙った。もしここで、ソヴィエトが動揺するか、甘くなっていたら、その後のソ連はない。
 この緊迫した情勢に、各地で激しい内戦が飛び火していった。ネストル・マフノの抵抗が激しかった。エスエルは白軍を、ソヴィエト中央はトロツキーのもとで赤軍を、この両者に属さない部隊は緑軍を組織する。全土が大戦に続く内戦のため生産力が落ち、食糧が絶え、最悪の経済危機と生活難を強いられた。ソヴィエト政府は「戦時共産主義」を断行した。私企業を禁止してあらゆる産業を国営化し、農村からは穀物を割当て徴発して、いっさいを配給制に切り替えたのだ。失敗だった。ロシア経済は壊滅的になる。農民は叛乱し、労働者は深刻な食糧不足に追いやられた。
 この苦境を突破するため、ボリシェヴィキは一党独裁を強め、他のすべての政党を非合法化し、秘密警察チェーカーは裁判所の決定なく逮捕と処刑ができるようにした。のちのKGBの前身である。
 非合法化されたグループや反革命軍にはレーニン暗殺を企てる者たちが出現した。政府はこれらに「赤色テロル」を宣誓して過激な報復を加えた。退位後は監禁されていたニコライ二世とその家族は、反革命軍が奪還するおそれがあるというので銃殺された。

 内戦は一九二〇年末まで続いた。内戦中に赤軍に対抗する白軍に所属し、その後国外に大量亡命した者たちは、総じて白系ロシア人と呼ばれた。
 一九二一年三月、バルト海艦隊の拠点であったクロンシュタットで、水兵たちが反政府叛乱をおこした。軍艦ペトロパブロフスク号での集会では、言論・集会の自由、農業・家内工業に対する統制の解除、すべての政治犯の解放、勤労人民への配給の平等など十五項目の決議が採択された。まっとうな要求であったが、粉砕された。ジノヴィエフは軍隊を送り込み、トロツキーは赤軍による二度の鎮圧攻撃を指令した。
 クロンシュタットの叛乱によって、ソヴィエト政府は統制経済を緩めざるをえなくなった。ここに政策転換されたのが「ネップ」(新経済政策)である。ソヴィエトは共産党と改称される。
 こうして一九二二年十二月三十日、ソヴィエト社会主義共和国連邦(USSR)の建国が宣言された。マルクス・レーニン主義による世界史上初の社会主義国家が樹立されたのである。どんな歴史にも出現したことのない国家だった。マルクスはこれを予想し、レーニンはその実現を達成したのである。驚嘆すべき国家だった。
 一年後、レーニンは死ぬ。一九二四年一月二一日、まだ五三歳だった。ヨシフ・スターリンがこれを継いだのだが、スターリンの「ソ連」はさらに驚くべき体制を地上に出現させた。

 ついついロシア革命の経過をかいつまんだため(とうていかいつまめないのだが)、いささか煩瑣になってしまったが、レーニンとはこの異様な革命経過そのものなのである。決断も矛盾も目白押し、「やる」も「やられる」も、弾圧も排除も犠牲ものべつ踵を接し、イニシアティブをいつ誰がどこで獲るかの革命人生だった。
 レーニンの読書はいつまでも続かなかったわけである。一九一七年の二月革命で、いままで追放されていた革命家たちが亡命先からペトログラードに戻ってくると、いよいよレーニンの出番となったからだ。あの劇的なペトログラード到着と「四月テーゼ」の発表以来、レーニンは革命パンフレットの執筆者となり、さらにボリシェヴィキ革命グループの中心リーダーとなって、読む者から読まれる者に変貌をとげたのである。その直後、病没した。
 レーニン亡きあとのソ連は長らくスターリン独裁の時代になった。マルクス・レーニン主義は国家イデオロギーになり、計画経済と集団農場化が推進されたけれど、一〇〇万人ともそれ以上とも言われる粛清や圧殺が進行した。スターリニズムである。第二次世界大戦後は「鉄のカーテン」が築かれ、東欧諸国や東ベルリンをソ連の親衛隊にすると、欧米諸国との冷戦に突入していった。
 スターリン死後も、フルシチョフやブレジネフが冷戦を継続させるのだが、一九八〇年代後半になってゴルバチョフがグラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革運動)を断行し、北欧型の社会民主主義への転換を遂げると、折からの東欧の民主化の嵐の中、ついにソ連は崩壊した。いまやプーチンはめったにレーニンの話をしなくなっている。