芳賀綵・佐々木瑞枝・門倉正美
あいまい語辞典
東京堂出版 1996
ISBN:4490104219

 こういう辞典はこれからふえていく。ひとまず、そのことを予言しておく。
 この辞典の狙いは、多くの識者から「日本人および日本語の恥部だ」と指弾されてきた〝あいまいな表現〟や〝曖昧言葉〟だけを集めて編集したところにあるのだが、これは、一見、不確実で不確定だとおもわれてきた言葉をあらためて整理し並べなおしてみると、そこに意外な姿が見えてくるという逆転劇なのである。そういうエディションもこれからふえていくだろう。
 たとえば、定価が不安定な商品を並べてみるような商品事典、発言が不確実な人物の言葉ばかりを紹介する発言辞書、あやしい運動をしている星を整理してみる星事典、出入りが不規則な虫尽くしを試みる虫百科など。こういうことをしてみるエディションがこれからはけっこう期待されるにちがいない。
 いわば定型や定番から外れたもののエンサイクロペディア、あるいはエンサイクロメディアである。世の中がよく見えない、価値観が統一されていないなどと嘆くよりも、こうした編集の冒険に立ち向かうべきなのだ。
 それにしても、日本語がどんどんあいまいなほうに向かっていることにはなんとも感慨深いものがある。かつて高名な日本のドイツ文学者が外国からの仕事の依頼に対し、「私にできるかできないか、自信をもって言えないものの、ぜひお引き受けしたいものです」と書いて返事をしたら、相手が大声をたてて笑ったという話がある。外国側の反応は、「できるなら、できる」だし、「できないなら、できない」で、それでいいではないかというのだ。
 が、日本人はこの話を笑えない。しょっちゅう、こういう言い方をする。大江健三郎のような翻訳文体がめっぽう好きな作家でも、たとえばノーベル賞講演で「あいまいな日本の私」というタイトルをたて、いったいあいまいなのは日本なのか、私なのか、わかりにくくしたものだった。
 
 では、どんな言葉が曖昧言葉なのか。日本語の偉大な例をちょっとだけ紹介する。たとえば「加減」だ。「いいかげん」はお湯加減や味加減がいいばあいもあれば、ちゃらんぽらんな意味の「いいかげん」もある。これをわれわれは絶妙に使い分けている。たとえば「結構」である。もう必要がないばあいの「結構です」も、「いいですねえ」の「結構ですねえ」もあるし、さらにどうでもよくて「ふんふんケッコー、ケッコー」と受け流す結構もある。本来の結構の意味は、まさに結び構えた姿のことだった。
 このへんのこと、『外は、良寛。』(芸術新聞社)でも書いておいたように、ぼくは試みにトワイライト・カテゴリーと名付けてみたことがあった。二つの光をもつ言葉という意味だ。ということは「両義的概念」の類がトワイライト・カテゴリーになるわけだが、実はそうしたくない。夕方的な言葉たちをここに入れたいのだ。夕方的とはトワイライトだが、和風にいえば「誰そ彼」型なのである。

 トワイライト・カテゴリーにはいろいろの候補がある。「あたり」なんて言葉はどうか。「会議室に置いてきた書類の行方、誰か知らない?」「それなら木村さんあたりに聞いてみたら」。「木村さんあたり」という人称があるわけじゃないのに、これで、木村さんだけではなく、その周辺をさすことができる。「すみません須藤さんのお宅をさがしているんですが」「ここらあたりには、ないとおもうけど」。ここにも含みがある。この含み方は曖昧ではなく、実はかえって厳格なのだ。だから「午後三時十五分あたり」とは絶対に言わない。
 たとえば「ナニ」はどうか。「オイ、源公、ナニはどうした?」「へえ、ちゃんとナニしておきました」。このナニには、コミュニケーションをする二人の共通項が浮き出ている。すでに江戸時代からつかわれていた。古今亭志ん生の落語はナニのなめくじ使いになっている。このナニのちょっとした変形が「アレ」である。「まあ、率直にアレいたしますと、国際関係のアレを改善するには、やはりアレしていくことが必要でありまして」。まったく何を言っているかわからないが、これでアレの見当がつくのだ。 
 たとえば「一応」がある。これも妙である。「一応、クスリをのんでおいた」と「三日前からの吹雪も一応おさまりました」とはずいぶんちがうのに、一応と言われるとなんとなくわかる。一応なのに全対応なのだ。
 もっと変なのがおそらく「一定」で、「当初の目標には達しなかったものの、一定の成果をあげた」なんて、どこが一定だかわからない。これに似たのが「いわゆるひとつの」のナガシマ言葉だ。これもちっとも「いわゆる」でも一つでもないのに、なんとなく安心してしまう。また、たとえば「ばかり」なんてものもある。「男ばかりの集まり」「怒ってばかりいる」は限定だが、一週間にわざわざ「ばかり」をつけると「一週間ばかり」というふうにふくらみをもってくる。

 こうした定形的な言葉によって曖昧な範囲を示す用法もあるし、他方では、一つの言葉が否定形なのにこれを繰り返すと異なった別の意味が出てくることもある。たとえば「いや」は否定だが、「いやいや」というと、「いやいや、すごい」「いやいや、結構、結構」、さらには「いやいや、どうもどうも」などという、とんでもなく何も意味しないのにそれで通用する語法にさえ発展していく。この同類に「うん」に対する「ううん」がある。
 まあ(!)、とにかく(!)こういうぐあい(!)で、曖昧言葉はものすごい。しかし、ちょっと注文をつけると、本書はいわゆる辞書ではないし、辞書が収録すべき語彙数にも達していない。そこはおおいに不満なのだが、これからの曖昧語ワールド賛歌のいわゆるひとつの第一歩として、ここに紹介することにした。

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