堀内誠一
父の時代・私の時代
日本エディタースクール出版部 1979

 ぼくが自分でトンカチをして造船した最初の「編集の船」を、杉浦康平の偉大なオールで一心に漕ぐことにしたのは、20代後半から30代の日々にとっては決定的な選択だった。
 しかし、そのことは、ぼくのグラフィックデザインの感覚が杉浦康平的な世界によって閉じられたということは意味しなかった。ぼくはだからこそ、いろいろなグラフィックデザインの動向に関心をもちつづけられるようになっていた。日本でいうなら、たとえば田中一光、たとえば横尾忠則、たとえば堀内誠一である。

 本書は、サブタイトルに「わがエディトリアルデザイン史」とあるように、堀内誠一の半生をエディトリアルデザインの仕事の編年的な紹介で埋めたものである。この業界のことに暗い読者には、おおいに蒙を啓くものとなるだろう。
 堀内は父のアート感覚の中で育った少年だった。父の堀内治雄がすでに図案家、すなわちデザイナーだったからである。その父は多田北烏の門下生である。キリンビールの広告美人や新高ドロップの犬に飴をあげている少年や『幼年倶楽部』の表紙は、すべて多田北烏の抜群のデザイン感覚が生んだものだった。多田が大正時代に滝野川に構えたサン・スタジオは、日本の最初のデザイン・スタジオだったとさえいえる。
 北烏はその後は童画家としても勇名を馳せた。たとえば『キンダーブック』の挿絵の多くは北烏の作品である。このことはのちに堀内誠一の中で蘇る。堀内は数々の雑誌のエディトリアルデザインで大成功をおさめたのちに、童画家としてすばらしい仕事をする。

 堀内治雄は多田北烏のサン・スタジオをまねてレインボー・スタジオをつくっている。本所向島にあった。長屋の中の一軒である。
 堀内誠一少年は、この下町のアートスタジオですばらしい少年時代を送る。ローセキによる地面の絵、ボール紙の宇宙、板切れに彫った英文字、人形劇のための小さな舞台装置、たくさんの製図道具。これらは少年堀内の恰好の夢工場だった。本書でいちばん読ませるのも、この少年時代の回顧談である。とくに上野不忍池で開催された「レオナルド・ダ・ヴィンチ博」については、ぼくはうらやましくなったほどだった。
 その堀内が商業美術にとりくむのは15歳で伊勢丹に入ってからである。ここで堀内は「エスクワイア」の新進デザイナーだったポール・ランドを知り、三岸節子の表現力に出会い、岩波写真文庫やコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』に憧れていく。
 しかし、実際に堀内を鍛えたのは連日連夜の百貨店催事の準備であった。体育学校にいた左幸子や新宿のバーにいた芳村真里や宝塚の松田和子をひっぱりだした水着ショーは、伊勢丹に始まった日本で最初のファッション・イベントだったし、堀内を雑学に溺れさせることになった「百貨展」も伊勢丹の名物イベントだった。本書を読むと、堀内がつねにどんなイベントにも熱心で、「シャボン展」「郷土玩具展」「発明展」「染織展」「原子力展」などの、未知のイベントのたびに成長していったのが、よくわかる。
 いま、若いデザイナーからディレクターが生まれないのは、こうした雑多な堀内的経験を積んでいないせいだろうということも、はっきりよくわかる。

 一方、堀内の感覚を飛躍させたのは、伊勢丹のイメージ・アーティストであった高沢圭一と、アメリカ帰りの富田英三だったようだ。ぼくも強烈な印象で眺めていたが、とくに富田英三のセンスは堀内を感化していったと見える。
 やがて伊勢丹は季刊誌「BOUQUET」を創刊し、堀内もその手伝いをする。秋山青磁、秋山庄太郎、植松国臣に出会うのはこのころである。この体験が生きて、アルス社の「カメラクラブ」の玉田顕一郎が堀内に目をつける。ついで千代田光学(ミノルタ)がPR誌「ロッコール」の編集長に玉田を迎えると、堀内はそのデザインを担当するようになった。初めてのエディトリアルデザインである。ここに集まったのが若手の石元泰博・中村正也・佐藤明・東松照明・奈良原一高たちであり、批評家の重森弘奄だった。のちに川田喜久治、常盤とよ子も加わっていく。
 このあと堀内は、「装いの泉」「若い女性」などの服飾系の雑誌を手がけ、中村乃武夫や長沢節に影響をうける。1957年くらいのことである。そのころ堀内は伊勢丹からアドセンターに移っていた。

 こうした堀内が一躍脚光を浴びるのは、1966年に「アンアン」のアートディレクターを引き受けてからである。
 このときのことはぼくも鮮烈に憶えている。「平凡パンチ女性版」というのが「アンアン」の準備号だったのだが、これを店頭で見たときは、体の脇が魚の側線のようにぴりぴり動いたものだった。ついで堀内は澁澤龍彦三島由紀夫らと『血と薔薇』に取り組みもした。堀内誠一の絶頂期だったろう。そのころはまた宇野亜喜良や横尾忠則の、そして杉浦康平の絶頂期でもあった。
 もし、ぼくがこの直前に『遊』を発想していたら、さていったい誰にデザインを頼んでいたか、わからなかったとおもう。けれども、ぼくが『遊』を発想した1970年という年は、1968年にステューデント・パワーが頂点に達し、その後2年をかけてすべてが灰燼に帰していった時期だったのである。『血と薔薇』を飾った三島由紀夫も、その写真とは裏腹の最期を遂げていた。ぼくが杉浦康平を選んだのは、正解だったのだ。

 このほか本書には名取洋之助のことをはじめ、「父の時代」のことが堀内の目で語られている。
 日本のデザイナーは、建築家をのぞくと、さっぱり文章を書くことを苦手としているのであるが、堀内はよくその苦手をするりと抜けて、懐かしくも瑞々しい文章を綴っている。
 ぼくとしては、もっと詳しい「父の時代」と「私の時代」の“あいだ”がほしいのだが、それはいつか誰かが書いてくれることを期待することにする。

コメントは受け付けていません。