才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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平謝り

K-1凋落、本当の理由

谷川貞治

ベースボールマガジン社 2012

編集:斎藤雄一
装幀:早乙女貴昭

誰だって他人の噂話や事件の裏話や
スキャンダラスでトリビアルな話が好きだよね。
だから、ときどきはそういう本もとりあげる。
今夜はK-1だ。テレビも鳴り物入りで、
大晦日の数年は騒がしいほど賑やかだったのに、
いつのまにかピタリとなくなっていた。
べつだん困りもしなかったが、
あるとき書店で『平謝り』という本を手にとった。
谷川プロデューサーがペコンと頭を下げている。
帰りに珈琲2杯、キッシュ1個、煙草5本で読んだ。
以下のような裏事情を告白する本だった。
みんなは知ってた?

 あらかたバレているかもしれないけれど、何を隠そう、ぼくはずっと以前からの格闘技ファンだ。武道は考えたいが、格闘技は見たいのだ。
 だからいつか適当な本を選んで、痛快な千夜千冊をしようと思ってきた。何をえらぶかはわからないが、これまでも数十冊を見てきた。最近では柔らかい書きっぷりの『泣けるプロレス』2冊組(アスペクト)、大宅壮一ノンフィクション賞をとった増田俊也の分厚い『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)、『植芝盛平と合気道』2巻本(合気ニュース)などに目を通した。

 格闘技といっても広い。広くて結構だ。ぼくもいろいろが好きなのだ。誰それ一途なのでは、ない。
 力道山大好き、ルー・テーズやっぱりえらい、ミル・マスカラスかっこよかった、上田馬之助は変だからいい、極真空手は痺れる、藤原喜明はしつこくてよろしい、前田日明大いに好き、ヴォルク・ハンのサブミッションは尊敬する。
 形意拳はすばらしい、藤田和之の凄みの不発がいい、みちのくプロレスは体育館のリングづくりが涙ぐましい、グレイシー柔術には虚をつかれた、鈴木みのるは性格の悪いところが天下一品だ、船木誠勝のハイブリッドはなくなってほしくない、吉田秀彦の柔道力こそ得難いもの、泣き顔の小橋健太の引退は残念だ、オカダ・カズチカはそろそろブレイクだろう‥などなどなどなのだ。いや、もっともっと大好きはいる。

 ただし、アメリカの現地でのショーアッププロレスだけは、一貫してあまり好きになれなかった。それならマスクが本場で、華麗猛者たちがファンタジックなメキシコのほうがいい。
 そんなこんなで好き嫌いもあるのだが、日本ではK-1がビミョーで、なんとも好きになれなかったのである。リングスやパンクラスの凋落の直後に、突然にテレビの話題を独占するようになったせいもあって、何か敬遠していた。
 それでもWOWOWでリングス中継がなくなって寂しくなっていたので、だんだん見るようになった。見てみると、アンディ・フグがいい。ピーター・アーツも悪くない。ヒョードルが見られたのもありがたい。おまけに知人のフランス人がジェロム・レ・バンナの親友で、彼のグループに乗せられて、リングサイドや控室やパーティにも顔を出すハメになった。

 その後は、ゴリラ筋骨のボブ・サップも、ぶざまなヨコヅナ曙も、涙が出るほど美しい魔裟斗の剣が峰の闘いぶりも、素人スターのボビー・オロゴンも見た。
 関根勤や長島一茂のくだらない解説を聞かされ、藤原紀香や長谷川京子の嬌声を見させられるのは苦痛だったが、おかげで大晦日の紅白をめったに見なくなった。
 そのK-1が地上波からばったりと消えた。K-1のみならず、Dynamite!やイノキ・ボンバイエなどの大晦日の格闘技大会がすっかりなくなった。
 内輪もめがおこったのだろうとは思ったが、べつだんその理由を知りたいほどの義理もないので、そのうちすっかり忘れていた。2カ月前、書店の店頭で、タイトル『平謝り』も、中年男がペコリと頭を下げている表紙もおもしろい本書を手にとってみて、近くのサ店でキッシュと珈琲をしながらトリビアルに読んだ。
 なるほど裏はそういうことだったのか。
 本書に書かれていることが「ほんと」かどうかは知ったことじゃない。そもそも告白本や暴露本は「ほんと」の近くを書くだけなのだ。けれどもK-1の三から十まであたりをつくってきた谷川貞治が“平謝り”に告白しているのだから(谷川が喋ったことを誰かがまとめたのだが)、おおむねはこういうことだったのだろう。
 それより、谷川がどんなことをK-1で企画実行して、メディアを操り、多くのファンをその「つもり」にさせたのかということが、興味をそそった。それで紹介することにした。

 K-1を運営していたのはもとは株式会社K-1(柳澤忠之代表)で、その後は株式会社FEGである。そのFEGの代表取締役の谷川貞治が後期K-1のプロデューサーだった。
 ただし、K-1のライツホルダーは正道会館館長の石井和義になっていた。この捩れが最後になってK-1を解体させたようだ。谷川は石井の信認をうけていたのだが、いざという時にリーガルポイントが座骨に響いた。

 谷川がプロデューサーになったことと、K-1の根底に亀裂が入ったことは、ほぼ同時の出来事だったらしい。
 きっかけは2000年8月に圧倒的な人気を誇っていたアンディ・フグが突然死んで、翌月に正道会館にマルサが入ったことにあった。石井館長は脱税容疑で、連日にわたって国税や検察に呼び出された。
 2000年というのは、PRIDEの忍者のような桜庭和志が宿敵のグレイシー一族を次々に倒した年で、これをきっかけにK-1が勢いを増した年だった。続いて翌、2001年の大晦日にはイノキ・ボンバイエ2001で、K-1軍と猪木軍の対決が演出された。マイク・ベルナルドVS高田延彦、ミルコ・クロコップVS永田祐志、ジェロムVS安田忠夫、などなど。TBSは視聴率15パーセントを稼いだ。ぼくも見た。勝った安田がえんえん男泣きをした。
 次の2002年はK-1とPRIDEをたくみに糾合させて、8月28日に国立競技場でDynamite!を開いた。PRIDEの榊原信行とK-1社長の柳澤と谷川の仕掛けだったようだ。初登場のボブ・サップがノゲイラを破り、セミファイナルでは柔道の吉田秀彦が格闘技デビューしてホイス・グレイシーを柔道技で屈服させ、メインでは桜庭とミルコが闘った。
 国立に熱気むんむんの9万人が集まっただけでなく、スカパーも中継した。続く10月のK-1グランプリではボブ・サップが当時のチャンピオンのアーネスト・ホーストを破る番狂わせがおきた。
 K-1の絶頂期がやってきたのだ。
 しかし、石井の周辺では検察がどんどん攻撃をかけていた。年の暮、石井は谷川に「おい、K-1のプロデューサーを頼むよ」と言う。それからまもなく石井は起訴された。石井は館長を辞任。新たに石井の弟の石井俊治が就任して、社名を株式会社ライツコムにした。

 2003年、事態はさらにドラスティックに動いた。1月に新生PRIDEをプロデュースしていたDSE(ドリームステージエンターテインメント)の森下直人社長が自殺、2月に石井が逮捕された。
 スポーツ紙はいっせいに「K-1、ついに解散か」と煽った。しかし、この“商品”の価値を高く見ていたCX(フジテレビ)は、谷川に石井ファミリーとは関係のないプロデュース会社をつくるように勧め、日テレもTBSもこれを了解した。地上波は怪物番組K-1を消したくなかったのだ。こうして谷川を代表とするFEGができた。

 谷川は「メディア先行型」のプロデュースを徹底する男である。思い切った手を打っていく。
 ふつうの格闘技イベントはマッチメイクから仕事が始まるのだが、谷川は最初にテレビに火をつける。それもCX(フジ・関テレ)、TBS、日テレにそれぞれ別の特徴を与える。
 CXの清原邦夫プロデューサーはアスリート重視で、ヘビー級はいいけれどモンスターを毛嫌いする。TBSの樋口潮プロデューサーは大ヒット番組「筋肉番付」「SASUKE」などを手掛けただけあって、実質的な充実が見えるミドル級を重視する。日テレの高橋利之プロデューサーは「行列のできる法律相談所」や「24時間マラソン」で欽ちゃんを走らせたバラエティ派なので、おもしろターゲットが広い。
 谷川はこれら各局のプロデューサーの好みと傾向の特徴をいかして、そのうえでマッチメイクをしていった。2003年の大晦日はこうした谷川の乾坤一擲が大当たりした。

 そのころいろいろの関係がこじれて、K-1はPRIDEと対立状態にあったようだ。TBSの大晦日はフジと日テレに対抗してK-1を盛り上げるしかなくなっていた。よほどの手が必要だ。
 ここで谷川が口説いたのが元ヨコヅナの曙だった。九州場所の東関部屋の前で行って、朝の6時に突然に本人に電話を入れて「ヨコヅナ、お願いがあります。部屋の前にいますので、出てきてください」と口説いた。ボブ・サップと大晦日にやってほしい、ファイトマネーはこれこれ、仮の契約書がこれ、嫌だったら笑い話として忘れてほしい、ぼくは真剣です。
 これだけ喋りまくると、曙がその気を見せた。すぐにマイク・ベルナルドのトレーナーを南アフリカから呼んで、曙につけた。曙がグローブをポンポン叩いてトレーニングを始めた映像を、TBSは何度も流した。
 会場はさいたまアリーナをPRIDEがとっていたので、やむなくナゴヤドームにした。そのほか須藤元気とバタービーンの対戦などを組んだが、これだけでは足りない。ヒクソン・グレーシーと若貴兄弟、マイク・タイソンの飛入り参加なども考えたが(よくまあ、思いつくものだ)、こちらはうまくいかない。ただ、タイソンにはハワイからの中継でコメントをもらえることになった。
 そこへ樋口プロデューサーから「曙とボブ・サップのときは国歌斉唱でいきたい」という注文が入った。『ぴあ』を見ていたらスティービー・ワンダーが日本で年末ツアーをやっているではないか。呼び屋を通してなんとか口説いた。「君が代」のほうは小柳ゆきにした。
 あれこれ手を打っての当日、曙はあっけなく1R2分58秒で撃沈した。あと2秒もてば2Rに突入していたのに。しかし、そのときの視聴率は43パーセントに達していた。K-1がついに紅白を超えたのだ。

 その後も谷川は視聴率のとれるマッチメイクをしつづけた。2004年には魔裟斗と山本キッドを対戦させ(これはなかなかの見ものだった)、2005年は素人のボビー・オロゴン、俳優の金子賢を起用して話題をとり、これまた見ものだった吉田秀彦と暴走王小川直也の対戦を実現させた(これは真剣に見た。久々に「危険」がナマ放送されていた)。
 しかし、このあとの韓国巨人チェ・ホンマンの起用あたりで、さしものモンスター路線も頭打ちになってきた。谷川は新日本プロレスのマッチメイカー上井文彦に相談して、プロレスを交ぜはじめた。これはボブ・サップや武蔵たちをプロレスのリングに登場させるWRESTLE-1(主催ビッグマウス)というものだったが、なんとも中途半端だった。
 あげくに2006年の大晦日で、桜庭と対戦した秋山成勲が全身にオイルをたっぷり塗って顰蹙を買ったりもした(実際にはオイルは塗っていなかったという説もある)。
 この時期はおまけに「ハッスル」がレーザーラモンHC、泰葉、和泉元彌などをリングに上げるという愚挙に出て、谷川のなりふりかまわぬ路線が飛び火するとともに、格闘技はどんどんバラエティ化してしまった。髙田延彦すらこの愚挙の片棒をかついだ。
 この責任はむろん谷川とテレビ局にある。実はAKBやももクロを格闘技会場に早々に引き入れたのも、谷川とその周辺だったのである。

 その後はどうもうまくいかない。PRIDEや猪木チームとの確執も深まるばかり。そのあいだをとっていた怪人めいた百瀬博教ともソリが合わなくなってきた。
 百瀬は知る人ぞ知る、柳橋の侠客の息子で、立教大学の相撲部出身、力道山刺殺事件で有名な赤坂の「ラテンクォーター」の用心棒をやっていた怪人だった。早くに石井館長が付き合っていて、その後は格闘技の社会を隠然と出入りした。
 そのほか、各種の事情が錯綜したようだ。そんななか、FEGは再興PRIDEにスター選手を次々に引き抜かれながら、だんだん力を失っていったのである。そのPRIDEも2007年にはUFCに身売りした。2008年には旧PRIDEとHEROSの選手が合体してDREAMとなり、これをリアルエンターテインメントの笹原圭一が引き受けた。
 他方ではドン・キホーテの安田隆夫会長が「戦極」(せんごく)を旗揚げし、吉田道場の国保尊弘がプロデューサーになるという林立状態になった。どうやらすべてが乱立乱交時代に入っていったのだ。リーマンショックの年だった。
 時間が前後するが、プロレスラーとK-1が対決したK-1ROMANEXも失敗していた。イグナショフが新日本プロレスの中邑真輔にやられるなど、ことごとくK-1軍団が完敗したのである。
 FEGの資金繰りもせわしなくなっていく。貸しビル業のバルビゾンからお金を借りたり、K-1に色気を見せたソフトバンクの孫正義に投資をしてもらおうとしていたりしたが、なかなか隘路は突破できない。
 そもそも谷川には、旧K-1株式会社時代の脱税にまつわる多額の税金の支払いがのしかかっていた。延滞税もある。気がつけば借金が10億円以上にふくらんだ。このころから谷川は周囲に「すみません」を連発せざるをえなくなったらしい。つまり“平謝り”だ。

 それでも2009年の大晦日は、「戦極」とK-1が組んでさいたまアリーナに、魔裟斗の引退試合、柔道金メダリストの石井慧のデビューなどを仕組んだマッチメイクをして、チケットを売り切った。石井は吉田とぐたぐたの試合をしてひどかったが、ストイックな魔裟斗はみごとにアンディ・サワーを倒して、引退を飾った。
 そんな2010年の春、韓国の投資家でゲーム会社で大儲けしたキム・ゴンイル(金健一)から「K-1を買いたい」という情報が入った。買い値は35億円くらい。
 さっそく谷川は会うことにした。初対面のとき契約書を書かされた。デューデリ(デューデリジェンス)もしない。が、その話は流れた。

 K-1を買いたいという相手はほかにもいた。中国の投資ファンド会社のPUJI(プジ)、マレーシアのスポーツエージェントTSA、日本の某社。これらは2008年8月に出所していた石井館長が交渉に当たった。
 実はK-1の身売りについては、谷川はフィールズの山本英俊会長の斡旋に期待していたようだったが、何だかんだで石井・山本の関係がこじれてしまったそうだ。
 2011の4月に、またキム会長がEMCOMホールディングス(ナスダック上場会社)の社長となって来日して、今度はEMCOMでK-1を買いたいという話になった。これで話が決まった。かくてK-1はEMCOMがつくった子会社K-1ホールディングスのものとなった。この時点でFEGは解体、谷川はK-1プロデューサーを降りたわけである。

 降りたはいいが、すぐに追い打ちがかかった。東京地裁から破産手続き申し立ての通達がきた。
 訴えたのはノックアウト・インベストメント社のバス・ブーンだった。セーム・シュルト、エロール・ジマーマン、グーカン・サキ、アリスター・オーフレイらが所属するオランダの格闘技チーム「ゴールデン・グローリー」を運営している。かれらに対するファイトマネー1億円ほどが未払いになっていたためだ。外国人ファイターには20パーセントの源泉税がかかるのである。
 もっとも「ゴールデン・グローリー」はそのころすでにTSAが買収し、ピーター・アーツ、ジェロム・レ・バンナ、アルバート・クラウスらはみんなそちらに移籍した。TSAはつづいてオランダのもうひとつの格闘技グループの「イッツ・ショータイム」(バダ・ハリ、ダニエル・ギタ、メルヴィン・ヌーフらが所属)をも2012年7月に買収した。
 こうして谷川が仕切っていたK-1は跡形もなくなっていった。もぎ取られていったという印象だ。こういう事態はすぐに波及する。K-1と連動していたライツコム、DREAMを運営していたリアル・エンターテイメントも自己破産せざるをえなくなってしまった。
 そのほか、いくつかの動きやイベントはあったようだが、ここで紹介しなくともいいだろう。

 顛末の前後はあやしいが、以上がだいたいのK-1解体のお話だ。いっときは売上げ50億円を超えたK-1だったようだが、栄冠は短期でおわった。うまくはいかないものだ。
 それにしても谷川という男、いったい何者だったかというと、子供の頃からプロレスと格闘技と梶原一輝に憧れ、愛知から上京して日大法学部受験で上京した青年だった。受験日に猪木VSウィリー戦があったのが、彼にとってはこの上京が大きな記念日となったらしい。
 卒業して、そのころはおんぼろビルの神田錦町のベースボール・マガジン社に入り、「近代空手」の編集者になった。梶原一輝に憧れた少年が神様大山倍達に会えるようになったのである。しばらくして、「週刊プロレス」の編集長だった杉山穎男(ひでお)が「格闘技通信」を創刊した。1986年だ。谷川はそこに引っ張られた。

 杉山はぼくも前田日明に紹介されて何度か出会っている。深い読み目のある編集者で、格闘技をコンテンツとして編集する目をもっていた。のちにぼくも連載を頼まれた。
 そのころの杉山は、極真空手のことはターザン山本の「週刊ゴング」や「パワー空手」にまかせ、自分は新たな空手や格闘技の世界を掘り起こそうとしていた。
 その杉山が目をつけたのが、極真から分かれたばかりの正道会館の石井だったのである。門下に中山猛夫、川地雅樹、角田信朗、佐竹雅昭、柳澤聡行らがいた。「格闘技通信」が創刊された。谷川はそこを舞台に観戦と取材と記事に突っ込んでいった。
 そんなある日、杉山が谷川を会社の1階に呼んで、風間健を紹介した。風間健は縁あってぼくも何度も話しこんできた格闘技界の大先輩格である。元キックボクサーのチャンピオン、元マーシャルアーツのチャンピオンで、一緒に旅もした。ブルース・リーの友人でもあった。
 その風間健のそばにいたのが石井正道会館会長だった。谷川は一目惚れした。

「格闘技通信」表紙(1996〜2000年前後)

「格闘技通信」より

 1980年代後半、大山空手はいくつもの分派をつくっていた。東孝の大道塾、芦原英幸の芦原会館、大山茂のUSA大山空手、添野義二の士道館、佐藤勝昭の佐藤塾、中村忠の誠道塾、真樹日佐夫の真樹道場‥‥。
 正道会館は、極真会館芦原道場大阪支部長だった石井和義がつくった正道館が母体になっている。
 石井のことは本書だけではよくわからないが、若い頃からずいぶん柔軟な人物だったようだ。ヴェルサーチを着こなし、メディアミックスを好み、ヒエラルキーにこだわらない。K-1を発想できたのは、目立ち屋っぽい石井の生き方と関係があるのだろう。

 当時は一方で、プロレス業界もさまざまに分派や独立がおこっていった。
 90年代に入ると新UWFの結成を皮切りに、UWFインターナショナルの旗揚げ、藤原組の旗揚げ、前田日明によるリングスの旗揚げが相次ぎ、そこから船木らのパンクラスや高田道場が、また新日本・全日本からSWS、NOWなどが分かれていった。
 しかし決定的なのは1994年の大山倍達の死去、99年のジャイアント馬場の死去だったろう。そのほか詳しいことはわからないが、ぼくにはこれらの動向には、前田日明のファイトスタイルが大きな牽引力をはたしていたように思う。
 谷川は谷川で、こうした格闘技界の激しい離合集散を目撃しつつ、何かにめざめていったようだ。とくに格闘技の社会では“共犯関係”をつくっていくのが重要だということを肌で感じたようだ。

ハイパーコーポレートユニバーシティ〈3期第2講〉
(2007年11月16日:明治神宮)
編集工学研究所主催、松岡正剛が塾長を担う企業の次世代リーダー養成塾。
この回は前田日明氏をゲストに招き、「失われた日本」と
「これからの日本」のあいだをテーマに、議論を交わした。
日本の武士道や呂氏春秋(中国諸学)の真髄を語る前田氏。
持参の日本刀コレクションの一部も紹介された。

 まあ、こんなところでいいだろうか。
 今夜はたんにK-1の顛末を一人のインサイダーの告白録にもとづいて紹介しただけなので、この“共犯関係”の背後で日本の格闘技がどんなふうに憤撃していたかということは、ほぼわからないだろう。
 ただし、そういう憤撃も、実情を見ていた者でなければ伝わらないことがむろんそうとうにあるだろうから、どんな本をとりあげてもなかなか“正体”はあからさまにはなろうはずもない。しかも時代の折れ曲がりによって、見えなくなったものも多い。
 その点について一言だけ感想を言っておくと、ぼくは「現代思想」が2002年の2月臨時増刊号で「プロレス」の特集を組んだあたりが、その最も大きな折れ曲がりだったように感じたものだった。
 ターザン山本と香山リカの対談の「過剰の滅亡」を筆頭に、澤野雅樹の神話学的格闘技論、村松友視の猪木エッセイ、リ・スンイルによる圧倒的な前田日明インタヴュー、松浦理英子による長与千種インタヴュー、その他の社会学や哲学による応援演説、流智美の遠近法‥‥。かつてこれらを読んで、存分にたのしめただけでなく、ああ、ここでこうしてプロレスも格闘技もネステッドにも、ごっちゃにもなって、光ファイバーのように折れ曲がっていたのだなと思えたのである。
 けれども、想像力にとってはそもそも「ほんと」よりも「つもり」のほうが断然に大事だということ、あらためて言うでまでもない。では、いずれまたその手の本でこの“男の極道”の世界に諸君をちょっぴり誘いたいと思う。 

「現代思想」2002 vol.30-3
総特集:プロレス より

⊕ 平謝り ⊕

∃ 著者:谷川貞治
∃ 発行人:池田哲雄
∃ 発行所:株式会社 ベースボル・マガジン社
∃ 印刷・製本:共同印刷株式会社
∃ 装幀・本文デザイン:早乙女貴昭
∃ 構成:斉藤雄一
∃ スチール撮影:馬場高志
∃ 2012年10月28日 第1版第1刷発行
∃ 2012年12月14日 第1版第2刷発行

⊗ 目次情報 ⊗

∈ はじめに
∈ 第一章|まったく新しい格闘技「K-1」の誕生
∈ 第二章|モンスター路線はなぜ生まれたか?
∈ 第三章|「PRIDE」との仁義なき闘い!
∈ 第四章|深まっていく石井館長との心の溝、そしてFEGの破産
∈ おわりに
∈ K-1(およびその周辺)略史
 

⊗ 著者情報 ⊗ 
谷川貞治[たにがわ・さだはる]
1961年9月27日生まれ、愛知県出身。日本大学卒業後、ベースボール・マガジン社入社、1991年、『格闘技通信』の編集長となる。1996年、ベースボール・マガジン社を退社し、パーフェクTV!(現・スカイパーフェクTV!)のプロレス・格闘技専門チャンネル・FIGHTING TV サムライの初代編成局長の職に就くも、半年ほどで退社。フジテレビの格闘技情報番組『SRS』にて格闘技評論家としてコメンテーターを務める傍ら格闘技雑誌『格闘ゲリラマガジン』『格闘パンチ』『SRS-DX』編集長を歴任。2003年1月にK-1イベントプロデューサー(K-1運営会社FEG代表取締役)就任。2012年4月5日、K-1の商標がK-1グローバル・ホールディングスに移行したことに伴い、K-1プロデューサーを辞任。