才事記

乾電池あそび

実野恒久

保育社 1981

  一点のダアリア複合体
  その電燈の企画なら
  じつに九月の宝石である
  その電燈の献策者に
  わたくしは青い蕃茄を贈る
 
 宮沢賢治の『風景とオルゴール』の一節である。何も言うことはない。完璧だ。賢治はそもそもが『春と修羅』の冒頭で、「わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です」と宣言していた“電気者”なのである。これでわからない者にはできれば付き合いたくないが、そういう手合いにも少し忠告するのなら、『電線工夫』のこういう詩だろうか。
 
  でんしんばしらの
  きまぐれ碍子の修繕者
  雲とあめと そのまっ下の
  あなたに忠告いたします
  それではまるでアラビヤ夜話のかたちです
 
 ぼくが最初にクラブ活動に乗り出したのは小学校での電気俱楽部だった。家が大工の花井クンという同級生がいて、彼と谷利クンとの三人で電気を探検しようということになって、ひそかに結成した。電気の探検といっても乾電池で遊ぶか、コイルを巻くか、鉱石ラジオを作るか、そのたった3つだけの探検だ。しかしそれだけでも夢がいっぱいだった。
 今晩、花井クンのところで集まるというだけで、われわれはメンロパークの魔術師の気分になれたのである。けれども、さあ何を作ろうかということになると、花井クンのお父さんがあっというまに箱を拵えたり、その箱に重源の一輪車よろしく車をつけてくれるので(乾電池が入る祇園祭の鉾を作ってくれたのだ)、ぼくたちはそっちのほうに感嘆してしまって、実のところはついぞ目に見える成果に到達はしなかった。そういうぼくたちのヘマを、4年から6年までを担任した吉見先生は、いつも「お前ら、電気クラブとちゃうなあ。電気クラゲやな」と笑っていた。
 この電気俱楽部の集いの感覚は、その後のぼくを大きく変えた。実際にも鉱石ラジオに熱中したり、手製乾電池づくりに耽ったりという後日談もあるのだが、それよりなにより、電気的精神幾何学とでもいうものがその後もずうっとぼくを占めたのだ。そしてその挙句が、賢治の文学的乾電池とでもいうべきキラキラとの出会いなのである。これはもう電気雷鳴であった。いや、やっぱり電気クラゲだった。

 こうした衝撃の後遺症はいつまでもやまないもので、「遊」創刊号に「電気式記憶物質館」や1005号に「電気+脳髄」という特集をつくったのも、このせいだった。つまりはこれらは小学校の乾電池遊びと宮沢賢治の後遺症だったのだ。
 この1979年の「遊」1005号は、いま見てもおもしろい。冒頭に松岡桂吉君が撮りまくった夜陰の電信柱だけをずらりとレイアウトした。ついで日本にマイコン・ブーム(パソコンという言葉はなかった)をおこした慶應大学のロゲルギストであった高橋秀俊さんに「電気の光景」を語ってもらい、その電子に分け入って関英男さんに「超電子の動向」を、秋山邦晴さんに電子音楽論を、山口勝弘さんにエレクトロニック・アート論を披露してもらって、ここで真打登場である。電気が怖くてしかたがない中井英夫さんに「電気地獄草子」というエッセイを綴ってもらった。原稿依頼では桑沢デザイン研究所の写真科出身の田辺澄江が活躍した。
 世の中には電気に慄く一群がいるもので、三島由紀夫や中井英夫はその代表なのである。そのうえで、ぼく自身が「文学的電界の消息」という電気文学案内を書いてみた。ヴィリエ・ド・リラダン偽伯爵の『イシス』と『未来のイヴ』にひそむ電気的無常の案内に始まるもので、「電気には芳香と雑音と加速度が棲んでいる」ということをなんとか告げたくて綴った。
 これがぼくが初めて電気の恋を告白した文章なのである。小学校時代の電気俱楽部にもふれて、こんなことを書いた。
 
 小学校の電気俱楽部のメンバーだったぼくは、丹羽保次郎の『電気をひらいた人々』やエジソンやフランクリンの自伝、青刷の広告ページの秘密めいた電気工具こそがおめあての「子供の科学」、配電図がいっぱいのラジオ雑誌などでさかんに電気的緊張に身を浸し、電気の芳香と雑音と加速度に溺れていた。大学時代には、ただただ電気事情の渦巻く現場の一端にかかわりたいというそれだけの目的で、照明技師のアルバイトにも精を出した(早稲田の劇団「素描座」に入ってアカリを担当した)。
 このような電気的半抽象劇場にかかわっている興奮にくらべると、友人たちが執心するジッドやら志賀直哉やら井上光晴やらの、つまり文学と称する界隈のなんと退屈に見えていたことか。バリアブル・コンデンサーの華厳経にも似た緻密な励起からみれば、トニオ・クレーゲルは二重コイルのない善財童子にすぎず、グレゴール・ザムザもまた電界を喪った仮名乞児にすぎなかった。しかし、その情意の起伏をしか知らぬとおもわれた文学が“一人の宮沢賢治”をもっていたことに遭遇して、ぼくはあらためて文学と言葉による半抽象劇場の愉快と可能性を告示されることになる。

 ぼくは手ひどい電気病に罹っていたわけである。犯人の一人が賢治であり、主治医が足穂であって、電気病棟でぼくを待ち受けているのがヴィリエ・ド・リラダンやマックス・エルンストやジャコモ・バッラであった。
 きっと病窓からは朔太郎が「青猫」と名付けたボギー電車のパンタグラフからスパークする電光が見え、どこかからは野川隆と北園克衛の「ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム」という、GGPGの音が聞こえていたのであったろう。ぼくはそういう屋外の病室にいつづけたのであったが、しかし、この連中には共通する持ち物があった。
 それこそが「乾電池の夢」あるいは「いつか放電するための沈黙の装置」という名の少年時代の記憶なのである。
 
 なんだか勝手なことばかりを書いてしまったが、本書はこういう少年少女のための乾電池遊びの原点を告げて、正しくどぎまぎする夢を見るための一冊だった。
 著者の実野恒久さんは、ぼくたちからすると理科工作の“ガリレオ先生”で、小学校の先生から大阪教育大や神戸女子大で理科教育を確立させた憧れの人である。『手作りおもちゃ』(保育社)、『電池とモーターを使った動くおもちゃ工作ヒント集』(黎明書房)などのほか、幼児に理科を遊ばせる『はてななるほどサイエンス』(保育社)というバイブルのようなシリーズがある。
 こういう一冊に出会うたびに、少年はときめいたのだ。磁石がくっつけてきた砂鉄を指で擦り取るときの感触、ぐるぐる巻きにしたエナメル線の秘境のような光沢、ハンダ付けの甘く焦げた匂い、息を詰めているとぷうっと光を発した豆電球の光芒、そうしたものが再来襲来して、いつもどぎまぎしてしまうのだ。賢治がこう書いていた。そいつらはきっと遠いギリヤークの電線に集められしものどもなのでありましょう、というふうに。
 ふりかえってみると平成は「電子」の時代だが、昭和はまさしく「電気」の時代だったのである。ぼくだけが花井クンや谷利クンと乾電池遊びをしたのでなくて、みんなが二股ソケットや停電や「明るいナショナル」とともに暮らしていて、街の電気屋さんは夜遅くまで店をあけていなければならなかったのである。そして、われら昭和少年たちは、ぼ、ぼ、ぼくらが少年探偵電気団、だったのである。