才事記

イーディ

ジーン・スタイン&ジョージ・プリンプトン

筑摩書房 1989

Jean Stein & George Plimpton
Edie An American Biography 1982
[訳]青山南・堤雅久・中俣真知子・古屋美登里

 ストックブリッジの墓地にイーディの一族が眠っている。ニューイングランドの歴史を象徴するセジウィック一族だ。とんでもなく豪華な一族だった。
 イーディはその大金持ちの娘で、カリフォルニアの家にいたときは客が来る前に妹と二人で車寄せの円柱の上に妖精のような恰好をさせられて、スフィンクスのように座らされていた。そんなお姫様がいつしかアンディ・ウォーホルのファクトリーのアイドルになった。アイドルというよりもアイコンになった。
 イーディをポップ・アイコンにしたのは、ファクトリーでウォーホルとつねにいがみあっていたアストラル超心理学や地球外生物体が好きな神秘主義者のチャック・ワインである。ワインはイーディを「パンチ」のマンガ家デュ・モーリアの小説に出てくるトリルビー(邪悪で天才的な音楽家によって変身させられた歌姫)に見立てて、映画に出した。SMめいた《ヴィニール》だ。それからである、イーディの神話がニューヨーク中に、アメリカ中に、世界中に洩れ出したのは。
 
 パーティが好きなウォーホルはファクトリーのそこかしこに、たえず美女と美男と狂気と驚喜と狂喜を侍らしていた。イーディはその美女のなかでもとびきり有名な第二号の妖精である。第一号はベビー・ジェーン・ホルツァーだった。第三号がルー・リードとヴェルヴェット・アンダーグラウンドを組むニコ、さらに第四号にヴィヴァが続いた。彼女たちがいなければウォーホルはあんなに有名にはならなかったか、それとももっと筋金入りになっていた。
 ウォーホルはその美女たちの誰とも寝なかった(らしい)。本書のヴィヴァの証言によると、美女たちの誰かがウォーホルの体に触れようものなら、ウォーホルは必ず縮みあがっていたという。むろんイーディにも手を出さなかった。そのかわりゲイの大半がイーディに手を出した。
 だいたいファクトリーは毎夜毎朝がドラッグ漬けである。ほぼ全員が笑気ガスを吸ったような状態で、病的な雰囲気が似合わない者なんていなかった。そのなかでイーディだけがその病的な男たちに詩人を見出す才能をもっていた。
 そのうちイーディが「ヴォーグ」に出て、眩しいほどの脚光を浴びた。一九六五年である。そのときのイーディの印象を、当時、「ヴォーグ」こそが自分の全意識だったというパティ・スミスは「しめた、これだと思った」と言っている。「輝く知性とスピードはこういうふうに一緒になればいいんだ」ということが、イーディの黒のレオタードとラフなノースリーヴのセーターのポーズを見て、すぐにわかったのだ。
 そのときの「ヴォーグ」は二二歳になったばかりのイーディを「ユースクエイカー」と名付けている。名物編集長ダイアナ・ヴリーランドのあいかわらずのお手並みだ。ピンク色の地震波だ。イーディはインタヴューに「ヘンリー・ムーアのぼんやりした彫刻を見ているみたい」に変身させられたとだけ答えている。
 同じ年、今度は「ライフ」にイーディがとりあげられた。やはり黒のレオタードの上にルディ・ガーンライヒのシルクプリントのドレスを無造作に着て、体を自由に捻っている。ガーンライヒはトップレス水着「モノキニ」のデザイナーだ。これでアメリカ人は新しい時代のコンセプトが「フィジカリティ」であることを知らされた。
 
 本書は二八歳でこの世を駆け抜けていった不可解な美女の思い出を、一〇〇人近い証言だけで編集構成したもので、読みすすむうちにたちまち当時のセパレートリアルでストーンな状況に立ち会わされているような眩惑をおぼえる。
 この編集術はそうとうにみごとなもので、イーディやウォーホルのことはもとより、当時居合わせたありとあらゆるスノッブとセレブリティのスタイリッシュな息づかいが耳元に次々に吹きつけられるようになっている。だから耳が痒くなる。発言者たちの登場のしかたも凝っていて、その発言者がどのような出自のどのような人物かはわからないまま、喋りだす。これが徹底している。また耳が痒くなる。
 読みすすんでいくと、そのうちやっと、その発言者がイーディの大学のクラブの友人であったことや、ルー・リードの紹介でイーディに一度だけ会ったゲイであることなどがわかってくる。それらの発言がとびとびに交じって、その発言だけでドラマがつくられているという編集なのだ。当初からの計画ではなかったかもしれないが、よくできた映像ドキュメンタリーのようで、まったくうまい編集だ。
 ともかくも会話がページの奥からのべつまくなく聞こえているので、あまりに耳が擽ったくて二度も読む気はおこらないが、これが映像になっているなら、きっと何度も見たくなったであろう。
 八人兄妹の七番目だったこと、父親が牧場主でもあったこと、その父の不倫の現場を見てしまったため「うつ」になったこと、シルヴァー・ヒルの精神科病院に入れられたこと、兄のミンティが自殺したことなども、だんだんわかる。
 それにしてもイーディが一九七一年の十一月十五日までのたった数年間の時の流れのなかで、アメリカのアヴァン・ポップなシーンのど真ン中を疾走していったことは驚嘆に値する。本書の証言を読むと、たいていの猛者たちがイーディだけにはなんらかの過剰な幻想と、過剰な幻想ゆえの失望と羨望とをもっていたことがよくわかる。あたりかまわず人を罵ったボブ・ディラン(いっときイーディと付き合っていた)も、悪魔のようなジム・モリソン(ドアーズのボーカリストで、ニーチェ、カフカ、コクトーの信奉者)も、どうやらイーディだけにはぞっこんだったようだ。
 
 イーディ・セジウィックは最後の最後になってマイケル・ポストと束の間の結婚をする。が、すでにクスリと疲労でおかしくなっていたイーディはもう蘇らない。二八歳で死ぬとはあまりにも哀しいが、本書に収められた数々のイーディの写真を見ていると、彼女はどこにも“実在”してはいなかったのだということも伝わってきて、なるほどイーディはそういう宿命の女だったということに納得もさせられる。
 ウォーホルはイーディの死についてはとくに発言をしていない。「あまり親しくなかった」というような、いかにもウォーホルらしいこそこそした呟きめいた感想しか残っていない。しかしトルーマン・カポーティはさすがに事態を見抜いていて、こんなふうに言った。
 「思うに、イーディはアンディがなりたかった何者か、だったんだ。ピグマリオン風にアンディは彼女に転換しようとした。ほら、よくいるだろうが、女房が服を選ぶときにわざわざくっついていきたがる男がさ。ああいうのは自分がそれを着たいからじゃないかと私は思っている。アンディ・ウォーホルはイーディ・セジウィックになりたかった。チャーミングで生まれのいいボストン社交界の娘になりたかったんだ。アンディ・ウォーホル以外の誰かになりたかったんだ」。