才事記

ダスト

チャールズ・ペレグリーノ

ソニー 1998

Charles Pellegrino
DUST 1998
[訳]白石朗

 ノヴァーリスは「人は生涯に一度の聖書を書くために生まれてきている」と言ったものだが、ちょっと空想力に富んだキリスト教徒の作家なら、誰しもが聖書に書かれたような地球と人類の歴史を、近未来の物語として再現してみたいと企んでいる。ジェフリー・アーチャーやシドニィ・シェルダンたちは、そういうなかでも最もおっちょこちょいのほうである。
 けれども、そのような近未来の聖書を本格的な科学小説に仕立てるのは、そんなに易しいものじゃない。なぜなら紅海が割れるとか世界が洪水になるとか、言葉がバベルのような塔に閉じこめられるといった知られすぎた話を科学に置き換えるのでは、ろくなSFにもならないからだ。本書はその無理難題に挑戦して、アイザック・アシモフ、アーサー・C・クラーク、ロバート・フォワードに続く本格的な科学議論にもとづいたSFを、しかも聖書の構造に擬して仕上げてみせた。

 ペレグリーノは、もともとこういうことをしかねない才能の持ち主だった。ぼくもよく憶えているのだが、1985年に当時は毎月購読していた雑誌「オムニ」にペレグリーノが「恐竜のタイムカプセル」という特集記事を寄せていた。いまではあまりにも有名になったが、琥珀に封じこめられた中生代の吸血昆虫の胃の中から恐竜のゲノムをまるごと回収できるかもしれないという、例のアイディアの御披露である。そうだとすれば、恐竜は現代に蘇って再生するのかどうか、そういう話だ。
 この記事を読んだマイクル・クライトンがさっそくペレグリーノを訪れて、やがて『ジュラシック・パーク』を書いて大儲けをしたことは、ペレグリーノが苦々しく語っているほかはクライトン側からは感謝の言葉のひとつも聞かれない。クライトンにはモントレーのTEDで会ったことがあるが、とても冷たい印象の作家だった。話もつまらなかった。まあ、そんなことはどうでもいいほどに幅広い領域の科学者であるペレグリーノのアイディアは、その後も群を抜いてきた。
 海洋学者としてタイタニック号の調査にかかわったり、土星の衛星エンケラドスの内部にひそむ生態系を予告したり、省力型で水素を過熱噴出する原子力ロケットの発想をしたり、ともかくその才能はたいそう広い領域で発揮されてきた。しかし、これほど科学好きな読書人たちを震撼させる科学小説を書けるとは、予想できなかった。
 
 物語は、ロングアイランドにダニのような、クモのような、埃のような微小動物が大量発生し、次々に住民を黒く覆っていくところから始まる。
 死者はどんどんふえていく。ところが、この微小動物の正体がわからない。ダニやクモがふえているのではなく、もっと微小なウイルスやバクテリアのようなレベルの侵攻がおこっているようにも想定できた。ダニやクモはそのヴィークルにすぎないらしい。一方、各地でハエやチョウが激減していることがしだいにわかってきた。科学者たちがさまざまな推理をし、しだいに猛威をふるう“ダスト”の脅威を抑えようとする大統領とその周辺とのあいだで、さかんに仮説が交わされる。
 やがて浮上してきたのが、古生物学者たちが持ち出した信じがたい仮説である。それは、ある種のDNAのレベルに時限ロックがかかるような仕組みがあり、そのタイムロックがある周期で解錠されているのではないかというものだった。
 たしかに、そのような仮説を裏付けるようないくつかの現象がすでに確認されていた。たとえば竹のDNAは、どこかに遺伝的な時計を隠しもっていて中国の竹林の生態系を定期的にリセットさせているとか、ガンマ線を照射した森よりもアリがいなくなった森のダメージのほうがずっと大きいとか、もっと有名なところでは恐竜の絶滅がわれわれの祖先である下等哺乳類を発生させる余地をつくったとか、どうも地球の生命のシナリオにはしばしばそうした大きな転換や変換がおこっているらしいのだ。
 こうして“ダスト”の脅威は地球上のいたるところで次々に発生していることがわかっていく。バラードの『結晶世界』(創元SF文庫)に似て、世界は極小の生物のもたらす作用によって変質しつつあることが確定的になったのである。世界中でBSE(牛海綿状脳症)の事例が報告されはじめてもいた。

 恐るべきバイオ・ハザードが地球大におこりつつあることは、もはや疑いがない。たとえばいま世界中のニュースになっているBSEを引きおこす病原体プリオンは、生物の体内に侵入すると(この物語ではBSEの発生と拡大が正確に“予言”されている)、スタンリー細胞とよばれるタンパク質の成分を変質させて、侵入者プリオンの姿恰好と寸分たがわぬものにしてしまう。かくて冒された生物の脳脊髄液や血液はいつのまにかプリオンでいっぱいになってしまうのだ。
 どうやらこれに似たことが、多くの現象のなかでおこっているらしい。いったい何がおこっているのか。聖書はすでに「塵から生まれた人間は、また塵に帰っていく」と書いていた。しかし、いままさに地球の生物が“ダスト”に冒されてことごとく滅亡するというのだろうか。大統領たちは呆然とし、科学者たちは懸命にこの異常事態の意味を考えようとする。主人公の古生物学者リチャード・シンクレアは、この事態が大昔の何かに似ていると感じはじめて、あることに思いあたっていく。
 このあとの展開を紹介すると、本書を読む愉しみをあらかた奪うネタバレになってしまうので遠慮するが、謎を解く鍵らしきものがどこにあるかということだけ、いくつか指摘しておく。これは科学の問題でもあるからだ。
 
 最初に、かつてペルム紀から三畳紀のあいだにおこった未曾有の出来事と何かが酷似していることがヒントになる。このとき巨大隕石の突入があった。隕石にはある種のポルフィリンが内包されていて、それが地球の環境と交じったはずなのだが、それに似たことがおこっている可能性があったのだ。
 次に、いくつかの生物種のあいだでは、それぞれがゲノム単位での情報を交わしあって意思疎通をしている可能性がある。これは地球が一種の情報生物学的共同体であることを示唆するのだが、この意思疎通のために何かが“通信機”としてつかわれているかもしれなかったのだ。それがダニやクモたちであったのかもしれない。
 深海でおこっていることにも十分に気をつける必要がある。たとえば地球の鉄の総量の90パーセントは25億年前から18億年前にかけて、深海のシアノバクテリアが海水から抽出し、それが沈殿したものなのだが(そのバクテリアが二酸化炭素を吸収し、鉄と結びついて酸素を放出したから、わが地球に酸素が登場することになったのだが)、本書に暗示されているのは、このようなバクテリアに似たものが昆虫の生態と結びついたらどうなるかということなのである。
 このほか、本書にはしばしばギョッとする仮説が顔を見せている。筋書きに関与しないものも少なくない。
 筋書きのほうは、あくまで聖書の再現のように進んでいく。それも詳しいことを言わないほうがいいだろうから省いておくが、まずはノアの洪水がおこる(あっ、書いちゃった)。ついで方舟づくりが始まり、バベルの塔が崩壊して、そしてモーセの出エジプトとなっていく。こんなふうに書くと、本書の構成が陳腐な物真似に見えるかもしれないが、実際にはこれらの黙示録的な進行はごく淡々と描かれていて、いっこうにそんな戯画感がない。むしろ厳粛な科学的事実の進行に見えるのだ。
 
 ところで本書には、「3300万年周期の出来事」という問題が下敷きにつかわれている。これは、例の恐竜を絶滅させた隕石落下の出来事に深い関係がある「大量絶滅周期」とでもいうべきものだが、著者もこの仮説には並々ならぬ関心を寄せているようなので、このことについて一言ふれておく。言い出したのはオハイオのトレド大学の地球物理学者クレイグ・ハットフィールドとマーク・キャンプたちである。ぼくもめっぽう気にいっている。
 あまり知られていないが、わが太陽系は銀河系の重力中心の周囲を約2億年周期でまわっている。しかし太陽系の公転軌道は銀河平面と完全に合致しているのではなく、むしろ大きく傾斜している可能性がある。もしそうだとすると、太陽系はその公転周期の大半を銀河平面の外側に飛び出してすごしていることになる。それでも太陽系が飛び出して宇宙にさまよわないでいられるのは、銀河重力のせいである。
 いずれにしても、この太陽系の傾斜運動と銀河重力との関係は、太陽系の運動を傾いたメリーゴーラウンドのようにいびつな運動にする。ということは、太陽系はときどき銀河平面を突っ切っていくことになる。地球上の生物たちに大量の絶滅をもたらすのは、ひょっとするとこの太陽系が銀河平面を突っ切るときの周期をもっているせいではないかというのが、この仮説の主旨なのだ。
 この仮説の最初は1970年くらいに提出されたものなので、その後もさまざまな新説が加わっている。
 そのとき、銀河磁場にとらえられた荷電粒子の流れに地球が浸されて放射線が降りそそぐのではないかという意見、そのとき太陽系が星間分子雲にのみこまれて太陽光が遮断されてしまうのではないかという意見、そのとき巨大な隕石群と遭遇するのではないかという意見、いや、星間分子雲とのあいだにさまざまな摩擦がおこって、太陽系の外側をとりまく彗星の核が擾乱をうけ、そのとき大量の彗星が地球に降りそそぐのだという意見、いろいろである。

 どちらにしても地球の生物環境など一定であるはずがない。ぐらぐらしているし、ふらふらでもある。割り箸をつかわないでアマゾンの木々の保全に協力するのもいいけれど、ウイルスがどんな宿主を選ぶかということから彗星がどのように発生するかということまでがつながっているということ、すなわちミクロ=マクロ環境系のふとした異常におもいをいたすことも、ときには必要なのである。
 もっとも本書が“予告”したようなことがおこりはじめれば、ユダヤ教やキリスト教やイスラム教が原点から再噴出するか、それらに代わる世界宗教が胚胎するか、きっとそのようなとんでもないことのトリガーが引かれることになる。それとも、すでにそういうことが始まっているということなのだろうか。エイズ、BSE、テロ戦争といった連打ばかりを知らされていると、ときどきそんな気になってくる。
 しかし、それよりなにより考えこまざるをえないのは、いったいわれわれはいったい何者と連れ立ってきた情報生命系だったのかということだ。ぼくはかねがね感じてきたのだが、世界にとって一番きわどい問題は、何と何とが「ぐる」なのかということなのである。