才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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無意識の脳・自己意識の脳

アントニオ・ダマシオ

講談社 2003

Antonio R. Damasio
The Feeling of What Happens 1999
[訳]田中三彦

エモーション(情動)とフィーリング(感情)。
アイデンティティ(自己同一性)とパーソナリティ(個性)。
脳には、たくさんの自分が棲んでいる
デカルトの心身二分論以来、
ココロ男とカラダ女が別々にいる。
そんなところへ、ソマティック・マーカー仮説。
アントニオ・ダマシオのちょっと小粋な脳科学。
これって編集的自己リロンじゃん。
まあしばらく、黙って覗いてみてほしい。
それは自己意識の暗闇の奥に咲く、
「花の御所」の蕾(つぼみ)に似ているね。

SM 今日のお相手はアタシでいいですか。
MS アタシ? いいよ。久しぶりだね。
SM 何でも尋ねていいですね。
MS まあ、うん。
SM じゃあ、さっそくいきますよ。松岡さんが一番大事にしているヴィジョンって何ですか。
MS えっ、そうきたの。ヴィジョン? うーん、ヴィジョンではなくて、ぼくの場合は方法だね。主題的ヴィジョンなんて、あやしいよ。方法的な思考の行き先のほうがずっとおもしろい。
SM 一番大事なのは思考方法? でも思考方法っていってもいろいろですよね。
MS ぼくがずっと考えてきたことは「編集的自己」(editing self)の可能性や役割についてのことです。
SM ずっと?
MS 三五年間くらいはね。まあ、四、五年おきに集中的に考えている。最近またそのシーズンになっているかな。
SM その編集的自己ってどういうものですか。松岡さんそのもの? だったら、たんなる自己や自己意識とどこがちがうんですか。ひょっとして隠れ自己愛?
MS ハハハハ。でもね、ぼくはぼくの自己や自己意識なんて説明できないと思っているし、それを「私」として説明する興味もほとんどないんだよね。
SM そういう松岡さんが、どうして「編集的自己」などという難しそうなものだけにはめざめたんですか。自己愛しにくいじゃないですか。
MS だから自己愛じゃないっていうの。
SM じゃあ、何ですか。
MS 自分が何かを感知したり認識したり、あるいはそれを再生したり表現したりするにあたって、ずいぶん以前からトレーニングしてきたことがあってね、そこからいろいろなことが積み重なってきただけだろうね。そのトレーニングが編集的だったんです。どこか非線形っぽくてね。そこからぼくが、座敷わらしだか天狗だか冬虫夏草だか粘菌類のように派生してきたようなもんだね。だから編集的派生自己。それが松岡正剛ですよ。
SM ちょっとよくわからない。ごまかされているのかも。
MS わからなくてもいいけれど、それ以前のぼくもむろんあったわけだが、それ以前を含めて、ぼくはそのトレーニングの中で「編集的自己という松岡正剛」になったわけですよ。
SM ま、本人がそう言うんだから、いいか。じゃあ、そうなったきっかけは何ですか。
MS いまはまだヒミツだな。ぼくの若いころ、ある知人が脳の障害をおこして、ぼくがそれにかかわったということです。でも、その話はまだしにくい事情があるんでね。
SM まあ、いいです。じゃあ、そのトレーニングについて話してください。

MS ごくごく一部については『知の編集工学』(朝日文庫)の一七四ページ以下に紹介してあるんです。そうだなあ、今夜は、そのことをアントニオ・ダマシオの「ソマティック・マーカー仮説」とその周辺をめぐるいくつかの変わった仮説とともに話してみようかな。
SM 誰? ダマッチオ? ダヌンチオ?
MS ダマシオ。
SM ゴマシオみたい(笑)。誰ですか、それ。
MS ポルトガル生まれの脳科学者で、お医者さん。ぼくと同じ歳で、リスボン大学やハーバード大学で脳科学や認知神経科学の研究をして、とくには脳障害者の治療と研究をすすめたのち、いまはカリフォルニア大学の「脳と創造性の研究所」のメインキャラクターになっているのかな。イケメンだよ。
SM そのダマシオさんのソマチカ・マーカー・カセツ? マーカーって癌マーカーとかの、あのマーカー?
MS うん、マーカーはそれに近い医学用語だけれど、ダマシオを有名にした脳の仮説だね。自己意識に関する「ソマティック・マーカー仮説」(somatic marker hypothesis)というもので、ソーマ(soma)というのはギリシア語の「体」という意味だよね。その身体的なものを脳はどういうふうにマーキングしているのかという仮説。だから、これを訳せば“脳における身体的記譜仮説”とでもいうものになるのだろうけど、とりあえずわかりやすくは、「自己意識は脳のなかでの身体的なマーキングをともなっている」という仮説と思ってもらえばいいかな。ただし、脳と体は連動してますというような、おおざっぱな話じゃありません。
 そのダマシオの提唱した仮説と、ぼくがかつてどんなふうにトレーニングによって「編集的自己」に関心をもっていったのかということを、今夜はちょっと重ねてみようかな、と。それでいい?
SM はい、いいかどうかわからないので、そっちのほうの話からしてください。

 

脳が受け取る感覚信号の種類
感覚信号の種類は体液性のものと神経的なものという
二つの異なる伝達径路によって分けられる
またこれら全ての信号には外界と身体という二つの源がある

脳の体性感覚システムは、接触、温度、痛みといった外側の感覚と
間接位置、内蔵状態、痛み、といった内側の感覚の双方を感知する

MS かつてぼくが自分自身に試みたトレーニングには二つの編集的な基本型があってね、それがあいついで重ね合わされていったんです。でも、最初の基本はカンタンなもの。ひとつは、自分のアタマの中で動いている編集プロセスをリアルタイムで観察して、それをちょっとおくれてから再生し、またしばらくたってから再生するというもの。まあ、自分のリアルタイムな意識変化をどのくらいトレースできるか、まあリバース・エディティングを複相的にどうできるかというエクササイズだね。
SM リバースするって、そんなことできますか。だって自分で自分を精神分析するみたいなものでしょ。
MS むろん、とうていうまくいかないんだよ。ただしこれは精神分析とはまったくちがっていて、むしろ逆で、深層に入るんじゃなくて、出てくるほうのプロセスを見るんだね。途絶えない流れのほうをね。ウィリアム・ジェームズやプルーストやジョイスの「意識の流れ」のほうに近い。
SM ふーん、じゃあブンガクと同じ?
MS べつだん作品にまとめたいわけじゃない。発表するわけでもない。
SM シュルレアリスムのオートマチスムでもない?
MS あれは学生時代にかなりやったけれど、それこそすぐにブンガクできるので、つまらなかった。
SM じゃあ、何のためですか。
MS これを何度もくりかえしているとね、自分の観察や思考といっても、いったい何が肥大して、どこでズレがおこって、どういう語感が曖昧になり、どんな印象がまったく抜け落ちてしまうのかといったことが、だんだんわかってくるんです。たとえば、ぼくはいま珈琲を飲もうと手をのばしたわけだけれど、その数秒間のあいだにいろいろなことがアタマの中を走っているわけだよね。そこには記憶の突出もあるし、次に話す言葉をさがしてもいる。そのような「ためらい」と「暫定的決断」のあいだのことを見てみたかったんだね。
SM マジに? ええーっ、わかんない。それって何のためですか。
MS さっきも言ったような知人の事故に立ち会って、記憶がなくなった人の意識の中に何があって何がないのか、そのサポートを頼まれたのと、あとは空海の言語論やライプニッツの「アルス・コンビナトリア」やホワイトヘッドの「ネクサス」や、禅の公案にひそむ意識論や三浦梅園の「反観合一」の条理に関心があったからかな。まあ、ぼくのアタマの中が見えないままで、何が思想か、何がブンガクかと思ったんだろうね。
SM そうか、やっぱり何か深いワケアリですよね。で、そういうことをして、それがうまくいかなくていいんですか。
MS これはトレースだよね。順逆がいろいろのエディティング・トレース。でも、そのトレースさえうまくいかない。けれどもまったくできないのではなくて、あとで気がつくんだけれど、編集的自己にとっては、その「失落」や「誇張」の特徴のほうが大事なんだね。
SM シツラク? シツラクエンの? あ、ごめんなさい。まだ狙いがよくわからなくて。で、二つあるって言ったもうひとつのトレーニングは?

損傷をうけると推論と情動のプロセスを阻害する領域群
イメージの統合と記憶の想起の間に身体が関与している

MS もうひとつは、外から入ってくる刺激や情報を実況中継することをした。街を歩きながらいろいろ試してみるんだね。見えてくること、聞こえていること、感じたこと、その場その時に思い出したことなどを、これもリアルタイムでアタマの中でかたっぱしから実況放送するんだね。
SM そんなことして、おかしいヒトと思われませんでした?
MS まあ、ブツブツと声には出さなかったから、なんちゃっておじさんにはならないですんだ(笑)。アタマの中で実況していたから。
SM ああ、そうか、それって考えてみれば誰だってしてますよね。アタマの中では。でも、信号渡っているときに考えていたことなんて、次々に忘れちゃう。
MS それもそうなんだけれど、もっと問題なのは、刺激によって知覚されてくる情報の質量とスピードに、言葉が追いつくわけはないでしょう。発話言語だって思索言語だって、すっごく遅いからね。追いつかないだけではなく、それにもまして知覚情報と言葉情報とはほとんどぴったりしない。思いつきの言葉というものは、どうにもだらしないものなんだよね。まったくがっかりする。
 ところがね、それでも、言葉をちょっとは意識的につかおうとすることが、そもそも編集的な自分をブーツストラッピングしているのだということだけは、だんだんわかってくるんだね。だからこういうエクササイズをいろいろな場面で徹底していると、自分が選んでつかう言葉や思わずつかう言葉の連結ぐあい(リンキング)、イメージしている事柄のおおざっぱなドメインの範囲(フィールディング)、認識と表現とのあいだのいちじるしい欠損の度合い(ルナティング)というものが見えてくる。
SM リンキング、フィールディング、ルナティングですか、はい、よくわからないけど。それで、どうなっていくんですか。
MS おおざっぱな編集的自己の骨格のようなものが見えてくる。これって「心の正体」のひとつかもしれない。でも、まだなんとなくちがっていた。
SM まだちがうの? ドリョクしているのにね。
MS 急にタメグチだね。ま、いいか。ちがっていたというのは、この二つのエクササイズには、実は大きな欠陥があったんだね。それはアタマの中での処理に片寄っているということなんです。「心」にしては脳が勝ちすぎている。ヘタすりゃドードーめぐりだものね。
SM ヘタしなくてもドードーめぐりです。
MS そこである時期からは、スタッフやゲストと喋っているときに、この逐次トレースの反応を口にしたり、相槌だけにしたり、投げ返したり、感想をすばやく話したり、ノートをとりながら対話してみるということをやってみたんです。それも半年くらい続けてね。またときにはそれらをドローイングにしたり、ラフな図解にしてみるということをしたんだね。
SM 何か変わってきましたか。
MS 自分では気づかずに、あることは繰り返しループに入りこみ、あることは適当な笑いですませ、あることはしっかり語句変換したり、急にアタマの中にラフな図解が浮かんだりしていたことが見えてきた。そしてそれらのことを、またあとで追想し、再生してみたわけだ。
SM めんどくさいことが好きなのね。

MS こうしてやっとわかってきたことがあった。情報編集的体験というものはね、アタマの中だけではなく、「アタマの中の何かのしくみ」と「体を含めた何かのマーキング」とが、いろいろ連動しているらしいということだったわけだ。それが口元や手の動きとしてとか、言いよどんだフィーリングとしてとか、口がカラカラになった感じとしてとかね。そういうノンバーバルな言葉以外のものとけっこう結び付いていたんだね。
SM うんうん、それはわかる。
MS それから、その日のトータル・エモーションの調子の波の起伏なんかとも関係がある。あるいは相手の気持ちに感応しすぎているとかね。というわけで、自分の現在のトレースというかんたんなことだって、実は脳と体のあいだのさまざまなファクターやファンクションによって何らかのマーキングをうけていたということなんだね。
SM なるへそ、なるへそ、それでダマシオさんですか。
MS そうだね、編集自己トレーニングで感じたことは、体との関係のことだけじゃないんです。情報の体験的編集には「場」もおおいに関係があった。当時は体の関与のことよりも「場」との関係やそのコンフィギュレーション(布置)のほうが関心があったかな。で、そうこうしているうちに、ぼくはそのようなマーキングや場とともに編集的自己をもっと拡張しながらトレースしようとしていくわけだね。
SM まだ懲りてない(笑)。拡張というのは何ですか。
MS 一番わかりやすいのは読書だね。本を読んでいるときにこのエクササイズを同時にやると、とんでもなく多重化してくるんだね。
SM どうして?
MS だって、本の著者がリテラルに書いていることがまずアタマに入ってくるんだけれど、それをまたぼくがいろいろ想像したり、とびはねたりするわけだから、その流れをトレースすると、かなり複合的になるでしょう。文脈を追うだけでじゃなくて、ぼくの視点の動きがザイテンになる。
SM ザイテン?
MS 在点。ポイント・オブ・ビューの視点じゃなくて、ポイント・オブ・ビーイングの在点。ま、ブラウザーが多重になっていくということかな。それをプラトン読んでもやって、湯川秀樹読んでも、江國香織を読んでもやって、ともかくいろいろ読んで、それをまた多重化してトレースするもんだから、どんどん拡張して、複合重層化していくんだね。

視覚情報のトレース実験
ある図柄を見せて実験動物の視覚皮質に活性化を引き起こさせる
視覚皮質のマーキングパターンと動物が見た図柄に
著しい相関があることがわかる

SM そうすると、松岡さんの「編集的世界観」というのは、そういうところからつくってきたんですか。
MS そうだねえ。
SM それって知識の積み上げからじゃなかったんですか。
MS そういう人はいっぱいいるだろうけれど、ぼくは「読み方」という方法のザイテン化から入ったから、結果としては知識もふえただろうけれど、むしろ最初から「関係の多重ブラウザー」をつかっていたということのほうがずっと大きいね。どちらかというと、白川静さんの方法に近い。白川さんは最初から「詩経と万葉集を同時に読む」という方法と、甲骨・金文を関係的にトレースしつづけたわけでしょう?
SM あれっ、アタシ、急にわかってきた。それって、やっぱりすごいですね。でも、なんちゃっておじさんと紙一重なんだ。
MS まあ、アンタのアタシにかかると、そうだろうね。
SM では、今夜の本論、ダマシオさんに行きますか。その前に聞きたいのは、脳の科学ってつまらなくありません? だって、人間の本質も心の本質も、生きるも死ぬも、サルもヒトも技能もアーハ体験も、何だって脳だなんて、そんな答え方ってインチキじゃないですか。最近の脳死の問題だって、ちょっと変。
MS 何だって脳の問題だというのは、たしかにおかしいね。脳死で死を決めるのも、おかしい。生命のシステムは連続的でかつ、とびとびで、しかも自律分散系で複雑適応系だからね。ただ、脳でわかることも仮説できることも多少はあるわけで、ダマシオだけじゃないし、それはそれでかつての量子力学や宇宙理論のように、かなりスリリングな分野ではあるんだね。
 それに「自己」とか「意識」というのが、そもそもあやしいよね。「私」ってよくわからないものだよね。そのあやしさの原因のけっこう大きな部分は唯脳論にあるんだから、あやしさはあやしさをもって破墨されなくちゃいけないわけで、そういう意味では「脳に勝手なことを言わせない」という仮説も大事なんだ。
SM 多様性を多様性で破るということですか。
MS そうそう、その責任を脳や脳科学者にとらせなくっちゃ。
SM それでダマシオさんは、体を持ち出したんですか。
MS まあ、そうだね。ただし、自己や意識の輪郭的正体や概念的正体を議論するにあたって、身体や身体感覚を持ち出すことはめずらしくないんです。すでにアリストテレスからベルクソンにいたるまで、スピノザからメルロ゠ポンティにいたるまで、かなりたくさんの哲人や思想者たちがそのこと、それを「心身問題」っていうんだけれど、議論してきたよね。
 ところが脳科学や脳医学において重視されてきた身体は、その多くは脳の部位やニューロトランスミッター(神経伝達物質)がどのように運動機能や連絡機能と関連しているかというようなことを指摘するにとどまってきたわけだ。脳のどこかに障害がおこるとどこかの運動機能が損傷するというふうにね。だから、身体という概念のモデルや身体の動きの全像のモデルを、脳がなんとかしようとしているというような見方は、ほとんどなかったわけだ。そういうあたりに、アントニオ・ダマシオが脳の中の出来事によってソマティックなマーキングの証拠をあげだしたということです。

身体から脳への信号の伝達
モード認知と関連想起に変化を起こす誘発部位と
感情に対する直接的基盤を構成している身体マップに
変化を引き起こさせることで、身体が感情形成に影響を与える

SM で、今夜はダマシオさんの何をとりあげるんですか。
MS 『無意識の脳・自己意識の脳』(講談社)という本だけれど。
SM なんか、堅いなあ。
MS いちいちうるさいね。原題は“The Feeling of What Happens”というもので、けっこうカッコいいんだよ。「フィーリングの正体とは何か」というんだね。
SM それならちょっとおもしろそう。でも、無意識とか自己意識って、その用語そのものがつまらない。
MS それはね、みんなが「自己」(self)をもっていると思っていること、そんなふうに子供のころから思いこまされていることが、つまらないというか、片寄った見方だからだろうね。それをしかもアイデンティティ(自己同一性)があるとも、パーソナリティ(個性)があるとも言っているよね。これまた哲学的にも科学的にも、またぼくの実感からしてもたいへんあやしい用語なんだけれど、それはひとまずおくとして、その自己は意識(consciousness)で充満している、あるいは意識とその隙間をもって埋められているとも思われているわけだ。それで、それをまとめて「自己意識」(self consciousness)とも言ってきた。だから、その正体に切りこむためにも、いったんはこの用語とぶつかるしかない。
SM ダマシオさんはマジでぶつかったんですか。「編集的自己」に徹したんですか。
MS かなりマジにぶつかってはいるね。たとえば、よくフィーリング(感情)とかエモーション(情動)と言うけれど、脳科学はついついフィーリングを個人的なもの、エモーションを類的で本能的なものと分けたよね。でも、これは何かすっきりしない。いろいろ注文をつけたいはずなのに、これまで脳科学はこのあたりをできるだけおおざっぱに見るようにして、責任をとってこなかった。
 しかし、それがよくなかったのではないかとダマシオは考えた。そして、そのように自己像や意識像をよくいえば大目に、わるくいえば無責任に見逃してきたのは、この自己意識をめぐる議論に「脳内の身体像」の関与がなかったからだと考えたんだね。こういうところはちゃんとぶつかっている。

内蔵、筋肉と間接、神経物質を生産する核からの神経信号が
大脳皮質に届くこと、また内分泌系の化学的信号が血流などを介し
中枢神経系に届くこと、以上のソマティックなマッピングにより
脳は情動を感知することができる

SM それがソマティック・マーカー仮説?
MS いや、それだけじゃない。ただ、ソマティック・マーカー仮説については『生存する脳』(原題『デカルトの誤り』講談社)という本のほうが詳しくて、最新のものは『感じる脳』(原題『スピノザを探して』ダイヤモンド社)が邦訳されているので、以下、適度にまぜながら案内することにするね。
SM はい、どーぞ。で、ダマシオさんって有名な科学者なんですか。アタシが知らないだけ?
MS アメリカやヨーロッパではベストセラーになっている。日本ではまだだねえ。さいわいにも、日本語の訳者はいずれも旧知の田中三彦くんで、この人はね、ぼくが二十年以上も前にアーサー・ケストラーの『ホロン革命』(工作舎)で翻訳をお願いした人だった。勘のいい人だよ。お世話になったのだけど、その後はほとんど再会できていない。こんなところで、どうもお久しぶりでしたと再会するのもおかしいけれど、まあ、千夜千冊で紹介するんだから勘弁してもらおうね。これでダマシオ本もちょっとは売れていくでしょう。
SM それではセンセー、ごくごくわかりやすく言ってもらうとすると、ソマティック・マーカー仮説って何ですか。
MS 脳にはソマティック・ブレインともいうべき「脳が身体を表象しているしくみ」があるだろうということだね。これが出発点の発想です。実際にはさまざまな脳障害患者の詳しい事例研究から出発しているんだけれど、そういう研究のなかから、けっこうたくさんの仮想脳をつくりだしていった。また、その仮想脳の説明のために、いろいろ新しい仮説用概念を用意した。そこがちょっとおもしろい。
SM どういう概念?
MS あのね、われわれはつねに「注意のカーソル」(cursor of attention)をめまぐるしく動かしているよね。それで何をしているかといえば、次々に決定しなければいけない脳の中のオプションを選択しようとしている。しかし、注意のカーソルがどんなふうに動こうとも、それによって自己意識がすぐにひっくりかえったり、解体したり、おかしくなったりするようでは困るよね。だって連想ゲームをすればわかるけれど、アタマの中の注意のカーソルはいま「リンゴ」と思っても、次には白雪姫になり、札幌になり、大倉山シャンツェになって、骨折の思い出になったりするからね。それでもそういう連想を支える何かが脳のどこかにないと、ヤバイよね。じゃないと、カーソルが飛ぶたびに自己解体がおこってしまう。
 それでダマシオはそんなふうにならないための一種のホメオスタシス(恒常性を保つしくみ)のような「維持のしくみ」があるはずだと考えたわけだ。脳が、脳によって表象されている事柄や出来事をフレーミング・インしたりフレーミング・アウトしたりするための、小さくて柔らかいだろうけれども、しかしきわめて重要なホメオスタシスのようなものをね。ダマシオはそのホメオスタシスのようなものを支えているのがソマティック・マーカーだと考えたんです。
SM 脳のなかでの身体的なアフォーダンスのようなもの?
MS うんうん、そういうものに近い。そのモデル化だね。そこにココロとカラダの按配をうまく調整しているマーキングの作用があるはずだと仮説したわけだ。いわば「心の体節」みたいなものだね。
SM たとえば、どんなふうにですか。

MS ちょっと専門的になるけれど、ダマシオが突きとめつつあるいくつかの候補のソマティック・マーカーの重要なひとつには、前頭前皮質に始まるマーキングがあるみたいね。
 前頭前皮質というのは感覚領域からの信号の大半をうけとっている領域のことで、われわれの思考をつくりだしているとみられている。そこには体性感覚皮質も含まれるんだね。これはわれわれの触知感をつくっている。それとともにその前頭前皮質は、脳の中のいくつもの生体調節部位からの信号も同時にうけとっている。ドーパミン、ノルエピネフリン、セロトニンなどをばらまくニューロトランスミッター放出核からの信号とか、扁桃体、前帯状回皮質、視床下部からの信号とかをうけとっているんだね。ニューロトランスミッターというのは神経伝達物質のことで、ニューロンとニューロンがつながる結節点にあるシナプスの袋からパッと出てくるものです。脳内ホルモン。
 こういうような任務をはたすことによって、前頭前皮質はわれわれがどんなに注意のカーソルを動かしても、平気の平左で“自己意識身体”とも“自己身体意識”ともいえるような表象を維持できるようにしているというんだね。
SM それって、脳の部位をいろいろ刺激してMRIなんかで見るとわかってくるという、例のやつですよね。
MS それだけじゃなくて、実際の患者さんのデータとかいくつもの症例の重ね合わせとかもあるんだけれど、まあ、脳科学実験で見えてきたものということだよね。でも、それをもって自己意識がソマテッィクに支えられているとは、まだいえないよね。
SM はい、そんな気がします。そうすると、どこがダマシオさんはおもしろいんですか。
MS そこに理論的な仮説も加えていって、一種のソマテッィク・ワールドのプロトタイプをモデル化していったということかな。
SM そのことのために仮想概念をいろいろ想定したんですか?
MS そうだね。
SM たとえばどういう概念ですか?
MS 「原自己」(proto self)とか、中核意識(core consciousness)とか、延長意識(extended consciousness)とかね。
SM なんかリクツっぽ~い。
MS またまたうるさいんだよ。あのね、仮想概念は理論モデルだけのためでもあるんだよ。でも、仮想概念といっても、パウリのニュートリノや、湯川さんの中間子じゃないけれど、ほんとうにあるのかもしれない。
SM その前に、リロンだけでもおもしろくしてください。

MS じゃあ、ちょっとだけ順序を追っていうと、そもそもダマシオは、これまで脳科学は自己意識については、ほぼ次のことまでをなんとかあきらかにしてきただろうと整理をつけたんです。
 第一には、意識のプロセスのいくつかは脳の特定の部位やシステムの作用と関係づけられるだろうっていうことだね。これはまさにMRIなんかで確かめられることだ。第二には、意識と注意や、意識と覚醒を分けることは可能だろうということ。なぜなら信号を渡るときや卵を割ってオムレツをつくるときに動いている注意のカーソルは、そのつどそのつどは意識の全体にはたらかなくてすむようになっているし、眠っているときの意識は起きているときの覚醒感覚とは一応は分離されているだろうからね。だから、意識は注意や覚醒とは異なっている。そこもわかってきた。
 それから第三には、けれども一方、意識とエモーション(情動)とは分離しがたいのではないかということも見えてきた。ここをちょん切ってはいけないんじゃないか。だからダマシオはあとでこの問題にとりくんでいく。第四に、意識は単純なものと複雑なものというふうにいくつもに分けられるだろうし、それでいてまた複合しているのだろうということで、これもなんとか技術的にもコンピュータを駆使してわかってきた。そして第五に、意識はコンベンショナル・メモリー(通常記憶)やワーキング・メモリー(作業記憶)に依存するものと、依存しないものとの両方をもっているのではないかということだね。
 だいたいはこの五つは見えた。でも、これではとうてい自己意識の形成のしくみには届かないだろうと考えたわけだ。他方、さっきも言ったように従来の脳科学で脳のなかの身体像というものはまったく想定できていなかったから、ダマシオはなんとかソマティック・ブレインのモデルを導入しようと思っていた。まあ、ざっとはこういう手順で、これらのあいだをつなぐものとして、まずは原自己とか中核意識とか延長意識のようなものを想定したわけですね。

身体と脳の相互作用で意識の形成のプロセスを描く
ソマティック・ブレイン・モデル

SM うまくいったんですか。
MS まだまだ実証レベルじゃないから、うまくいったというわけにはいかないと思うけれど、その前に、まずもってはこういう説明概念がうまくつながるかどうかだね。でも、ぼくが「編集的自己」という見方でトレースするかぎりは、ちょっとおもしろい。
SM どこ? どこがおもしろいんですか。
MS まあ、そう焦らない。おもしろいところへいく前に、ちょっと説明しておくと、「原自己」というのは自己意識の前兆のようなものなんです。
SM ゼンチョー?
MS 前兆。きざしの萌芽。意識そのものじゃない。ニューラル・ネットワークのパターンとして示された生物学的な先駆けみたいなものだね。でも、それがソマティックな信号を最初にマッピングするんだね。
 実際にも脳幹核がその有力な候補であるらしい。信号が脊髄路・三叉神経・迷走神経・最後野を通ってきて、最初の身体的現在表象をキックするのがここのようなんだね。そこに、モノアミン核やアセチルコリン核や、それから視床下部、前脳基底部、島皮質、内側頭頂皮質も関与しているらしい。これはけっこうなレパートリーだよ。

原自己に関係するいくつかの構造位置

身体から脳への各信号伝達の構造ダイアグラム
重要な信号のかなりの部分が、
脊髄と脳幹の三叉神経核からの径路により伝達される

SM はあ、そういうものですか。
MS 次の「中核意識」は、脳のなかの生物的な現象や作用による意識をさしていると思えばいいかな。だから人間に特有なものじゃない。高等生物にそなわっているもの。したがって、中核意識はコンベンショナル・メモリーやワーキング・メモリーに依存していないほうの底層の意識ということになるね。ということは、この中核意識は仮に人間的な意識が壊れたりしても、生物的な意識として身体を維持しようとすることになるわけだ。
 さっきちょっと話したけれど、ぼくの親しい知人は事故によってほとんどすべての記憶を喪失して、いわゆる植物状態になったようだったけれど、いや、そのように当時の医学では判断されたんだけれど、必ずしもそうじゃなかったんだね。というのは、その植物状態めいたときは、中核意識だけでちゃんと生命活動をしていたわけで、それが作動していたからこそ、その後にふたたびそこに人間的な自己意識の花を咲かせることになったんだね。
SM なんとなく見当がつくんですけど、それって記憶がよみがえったということですよね。
MS それもあります。実はその記憶の移植を手伝ったのがぼくだった。大学時代のことだけれど、それがぼくの初の脳科学についての学習体験だったんだね。まあ、さっきも言ったように、いつかこの話をしても許される日がきたら、詳しいことを話したい。この体験があったから、ぼくは「編集的自己」に突き進むことになったんでね。
SM はい、うすうすそんな気がしていました。

中核意識の連続パルスが意識の流れを生む
無数の対象との相互作用が常に原自己を修正することから
イメージの強調をもたらす統合的なニューラルバターン
(二次マップ)が形成される

MS 次の「延長意識」はその名の通りでね、脳の中の時間や時制にかかわっているものですね。「いま・ここ」というところに生じた意識や、かつての「いま・ここ」に生じた過去の意識を、その後も「そこ」や「むこう」に持って行っても保持できるデバイスのことです。ぼくなら“here-there デバイス”とでも言いたいところだけれど、これによってダマシオは前にも後ろにもアトサキ自在な「自己」が有機的に編集できているんだと考えたんだろうね。
 というようなわけで、こういう仮想概念による仮想脳のモデルによってソマティックな脳のしくみの説明を試みたわけです。けれども、まだ何かが足りない。なぜ脳の身体像は維持できるのか。それがなかなか壊れにくいのはなぜなのか。これはけっこう難問だったろうと思うけれど、そこで、ダマシオはここまでのソマティック・マーカー仮説に、ちょっと大胆な脳内デバイスをくっつけた。これが小粋だった。
SM 小粋だった? あっ、ついに小粋な姐さんが登場するんですね。
MS そうそう。これまでもおもしろいところはあったと思うけれど、この仮想デバイスはもっといいね。
SM 何ですか、その可能デバイスって。
MS 「あたかも身体ループ」というものなんです。ぼくはこれにいたく感激した。
SM あたかも身体ループ? うーん、小粋というよりナマイキそう!
MS 田中三彦くんがさぞや苦労して翻訳しただろう邦訳用語だろうけれど、もとの英語はね、“as if body loop”となっている。これは、いいよ。「AS-IFデバイス」とでも大文字にしたいくらいだよね。まさにソマティック・マーキングのどこかに出没しているはずだと思わせる「あたかもデバイス」ですよ。これ、かつての雑誌記事などでは「仮想身体ループ」などと訳していたけれど、田中訳のほうがずっといい。
SM はいはい、あたかもの門ですね。
MS いや、門というより、擬似モデルとか擬同型モデルといったほうがいい。実際には、この「あたかもAS-IFデバイス」は脳の中の体液的な信号と電気化学的な信号との二重性を処理しているようで、それならぼくにはなおさらありそうに思われるのだけれど、さあ、これでダマシオは一挙にシナリオをひととおり描くところにきたわけだ。

SM やっと流れが見えてきましたね。

延長意識と自伝的(編集的)自己は
中核自己の連続的パルスと自伝的記憶の連続活性化とに、二重に依存している

 

MS まあ、ダマシオは今夜とりあげた三冊の本のなかのどこにも詳しいシナリオは書いていないんだけれど、それはどういうものかというと、ぼくが補ってみるにおそらくはこういうものでしょう。
 まず原自己が駆動する。そうすると、この原自己は発生学的に古い脳構造のほうにプロトタイピングされるというんだね。ということは、ヒト以前の哺乳動物の脳機能をつかっているんですね。でも、例のジュリアン・ジェインズのバイキャメラル・マインド(二分心)というわけじゃない。そこには生物的な中核意識が待っている。他方、このとき、トポグラフィカルなAS-IFループが動きだして、これによって基本的な自己意識の母型が維持できるようになっていく。しかし、脳に決定的な障害があると、これらが壊される。そう、見たわけです。
 ここまででプロトタイプとしての原自己は何をしたかというと、身体表象を一次的に準形成したということになるわけだ。それとともに、おそらくはAS-IFループをつかってのことだろうけれど、二次的な身体表象を二重、あるいはもうちょっと多重かもしれないけれど、ともかくそれをホログラフィックな“しくみ”のように形成して、ソマティックな表象を強化していった。
 こうして、われわれが日常の日々において自在に注意のカーソルを動かしても急には壊れない経験自己像にもとづいた自己意識というものが可塑化されていく。
SM ほう、ほう、ピー、ピー、ついに一気呵成になってきた。
MS うん、そうなるとね、ここにダマシオがさらに仮想していた「自伝的自己」(autobiographical self)のようなものが駆動するか生成するか、もしくは形成されるんだね。これも、わかりやすすぎるほどの仮想概念だけれど、ちょっとなるほどと思わせる。だってここまでくると、もう、「自伝的自己」のうえに推論デバイスがどのように動こうとも、どんな刺激によって連想の矢印がどんな動きになろうとも、記憶のなかの情報はまさに編集可能状態になっていくからね。
 というわけで、ぼくのかつての編集的自己のトレースは、このソマティックな自己意識をずっと相手にしていたということになるわけです。以上、わかったかな。いろいろつながったかな。
SM ええーっ、それで話はおわるんですか。それじゃ松岡青年は、ずっとダマシオの手の上でがんばっていただけだったということじゃないですか。
MS ふっふっふ、いっときはそうだったろうね。
SM いまはどうなの?
MS あれ? またタメグチになったね。
SM タメグチじゃないけれど、気になるの。
MS いまはというよりも、こういう仮説は「心の科学」だからね。それなりに科学としてトレースすればいいんです。そもそも世阿弥や梅園や、ウンベルト・エーコやマイケル・ポランニーの翼がはえたような仮説からすれば、脳科学そのものが、まるごと科学ゆえの縛りの中にいるんです。それはそれで科学の宿命。それはそれで香ばしい。
SM でも松岡さんは、世阿弥にもダマシオにもいる? そのほかの科学のシナリオの中にもいる?
MS いなくてどうする? 
SM どんな科学の?
MS それは「千夜千冊」でもさんざんふれてきた。オートポイエーシスとか、ミームマシンとか、M理論とかね。もう、いいだろ。
SM ほかにもあるんでしょ? 心のほうだって。
MS それはまたのおたのしみに待ってなさい。だって「花の御所」には幕間があるでしょう。それが複式夢幻能というものでしょう?