才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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神と翁の民俗学

山折哲雄

講談社学術文庫 1991

仏は永遠の姿で表現されるのが多いのに、
なぜ神はしばしば「翁」の姿をとるのだろうか。
山折さんはこの疑問から発して、
これを新たな主題に拡張し、
神と仏のあいだに出入りする「翁」という化人の
不思議な存在の意味と、
その歴史的変容の意味を追いかけた。
本書は、日本の神仏や民俗を不得意とする者にとって、
ちょっと高級な入門書となるにちがいない。

 山折さんとは、何かの会議やコンファレンスなどで顔をあわせるほかは、めったにお目にかからない。けれどもいつも親しみを感じてきた。先だっても8月のニドム軽井沢セミナーで一緒になったけれど、たしか20年ぶりくらいだったはずなのに、なんだかいつも会ってきたかのような気になった。
 学問的な研究というものは、ふつうは「おもしろみ」をとくに意識はしていない。そんなことより目くじら立ててでも、重箱の隅をつついてでも、どんな些細なことであれ、それなりに独自の主題を奉じて、それがいかに他人の見解とは異なるかを声高に言い立てたほうがずっといいということになっている。それはそれでたえずオリジナルな研究成果を生み出す原動力となっているのだが、それがまたアカデミズムの通例というものだが、そのような学問の見せ方を、ぼくは必ずしも評価してこなかった。些細なオリジナリティばかりを読み聞かされるのは、やりきれない。
 そういう学界事情のなかにあって、山折さんはいつも大胆な組み立てで、必ずや「おもしろみ」や「あやうさ」を披露してくれるのだ。それを学界ではどのように見ているのかは知らないが、ぼくは日本のアカデミズムでももっとこのようなリプレゼンテーションがふえたほうがいいと思ってきた。
 そういう山折さんの数あるリプレゼンテーションのなかから、今夜はあえて35年前の傑作『神と翁の民俗学』をとりあげることにした。これはもともと『神から翁へ』( 青土社)と題されていたものを加筆訂正して表題を変えたものだが、中身は一貫して「なぜ日本の神々の多くは翁の姿をとっているのか」というテーマをめぐっている。

 山折さんが「神と翁の関係」に関心をもったのにはいろいろ理由があったようだが、ひとつは、神がこの世にあらわれるときに老人の姿をとることに謎を感じたということと、もうひとつには、それならどうして仏は若々しい青年の姿で描かれることが多いのかという疑問をもったからだった。
 神と仏の関係は、神仏習合・本地垂迹・神本仏迹・神仏分離・廃仏毀釈をはじめとした、日本の社会文化の根底にかかわる「地」(グラウンド)の問題になっていて、宗教史と思想史を専門とする山折さんにとっては、そこをなんとか切りくずしていくことが年来の課題だった。そこへ新たに「神と翁と仏」という「図」(フィギュア)があらわれた。このとき神と仏のあいだに「翁」が浮上したのだ。山折さんは、ひとまずは自分の眼前に「仏は若く、神は老いたり」という警句のような命題を掲げて、いろんな思索をめぐらした。
 そのうちいったんは、仏が若々しいのは、大乗仏教の経典が「永遠の仏」ということを説いたからで、そのため「死滅しない仏陀」というヴィジュアル・イメージが全面化したのだろうと推理した。だったら、神が老人や老翁に見立てられるのはどうしてなのか。なぜ神は老いなければならないのか。若いままではまずいのか。山折さんは、人間はその最終段階にやっと神との同化がおこるというふうに考えたからではないかという仮説をたててみた。
 こうして山折さんの興味深い探索が始まるのだが、その出発点には、柳田国男がどちらかというと「童子」に興味をもったのに対して、折口信夫が「翁」に関心を寄せつづけていたという、日本を代表する2人の民俗学者による際立つ対比があった。

 よく知られているように柳田は、桃太郎や瓜子姫などの昔話の起源をめぐって「小サ子」をめぐる伝承に研究の目を寄せた。そして、そこに母子神信仰や水神信仰の関与があることを指摘した。そこにはダイダラボッチなどの巨人伝説との「大きいもの・小さいもの」の関連も指摘されていた。
 こうした童子神を研究したのは、柳田ばかりではない。神話学者のカール・ケレーニイもそのあたりに深入りして、童子神を「母」と結びつけた。それはユングの「幼児元型」とも結びついていた。一方、図像学者のエルヴィン・パノフスキーが「盲目のクピド(キューピッド)」に着目して、やはり童子神から発するイコノロジーの展開を組み立てたことについては、ぼくもたっぷり千夜千冊しておいた。しかし、これらは総じて「小さいもの」「幼児」「母」という連鎖はもっていても、そこに老人や翁が介在するわけではない。
 これに対して折口は、『翁の発生』において、翁の面影の奥には「山の神」とともに「マレビト」の面影についての信仰があることを指摘して、独自の「日本という方法」の愁眉をひらいたのである。それならいったい、翁とは何なのか。何者なのか。たんなる爺さんであるはずがない。

 能には『翁』という特別の演目がある。「能にして、能にあらず」と言われてきた。
 上演にあたっては演者は「別火」の日々をおくり、身を潔斎する。別火については宮田登さんの『ヒメの民俗学』(青土社→ちくま学芸文庫)を紹介したときに詳しいことを書いておいたのでそれを読んでもらいたいが、神事にかかわる者たちの禁忌のひとつだった。関係者だけの特別の火を用いるのである。準備の日々は別火でおくる。それで『翁』上演の当日になると、別火とともに鏡の間に「翁かざり」をし、尉面を祀って酒をくむ。
尉面には白式尉・黒式尉・父尉がある。いずれも翁面である。シテは、この翁面をあらかじめ付けてはいない。直面で舞台に出てきて、面箱から翁面(白式尉)を出して恭しく付ける。こんなことをする能は『翁』以外にはない。
 この『翁』を役どころから見ると、2人の老人と1人の稚児が登場する。能舞台で最初に舞うシテの「翁」と、最後に舞いおさめる「三番叟」が老人なのである。中どころで舞う「千歳」はツレで、これが稚児になっている。老人2人は面を付け、稚児は直面である。ここに、老人と童子のきわめて劇的な対比があらわれてくる。

左より白色尉、黒色尉、父尉

「翁」の役者が舞台上で面をつける様子
このように面を着けるのは翁だけである

さっそうとした若さにあふれる「千歳」(せんざい)の舞

黒色尉の面をつけて舞う「三番叟」(さんばそう)

 しかし、ここからが肝心なところになるのだが、この翁舞はもともと古くは3人の翁によって演じられていた。世阿弥の『風姿花伝』はそこを強調する。翁舞は、稲積の翁、代継の翁、父の尉の3人の老翁が舞い勤めるものだった。
 世阿弥は、翁舞が3人になっているのは、仏教でいう「法身・報身・応身」の如来の姿を象っているからだという説明もする。仏の三化身のことだ。実際にも、このように3人で舞うからこそ、能楽界では「式三番」と言うと伝えてきた。
 それなら当初に3人で舞っていたものが、なぜそのうちの1人が稚児になったのか。世阿弥の「法身・報身・応身」説だけでは牽強付会にすぎて、説明にはなりにくい。どうして三翁パターンは二翁・一稚児パターンになったのか。この謎がのこった。
 ここから山折さんの推理の翼が広がっていく。それは能勢朝次の『能楽源流考』(岩波書店)や天野文雄の『翁猿楽研究』(和泉書院)や山路興造の『翁の座』(平凡社)などの推察とは異なる新しいものだった。まずは、翁と童子の物語や場面のある事象を引っぱってきたい。山折さんは八幡神と稲荷神に目をつけた。

 八幡神は「武の神」である。発生には諸説があるが、そのひとつの縁起に『扶桑略記』欽明天皇32年の条があり、そこに八幡大明神が筑紫にあらわれた話がのっている。
 豊前国宇佐の菱潟池に一人の「鍛冶の翁」がいて、はなはだ奇異な恰好をしていた。その地に大神比義なる神主がいて、穀断ちすること3年、御幣をかかげて何事かを祈っていると、その翁がたちまち3歳の少児に身を変じて、「われは第十六代応神天皇なり、護国霊験威身神大自在王菩薩なり」と名のったというのだ。詳しい経緯をべつにして、この話で何が伝わっているかというと、八幡神は最初は翁の姿をとって、のちに童子神に化身して、自身の出自を名のったということになる。
 稲荷神にも似たような話がいくつもある。ぼくも『空海の夢』(春秋社)に書いたことだけれど、弘仁7年のこと、空海は紀州の田辺で「異相の老翁」に出会った。老翁がしきりに仏法紹隆・仏法擁護を誓うので空海もそれに応え、二人は京の教王護国寺(東寺)での再会を約した。それから7年後、弘仁14年になって、その「異相の老翁」(化人)が稲を背負い、杉の葉をさげ、2人の女と2人の童子を連れて教王護国寺を訪れた。それが稲荷大明神であったと、『稲荷大明神流記』は記しているのである。稲荷とは稲を荷なっている恰好の神をいう。
 山折さんはこの稲荷神が2人の童子を連れているという事例から、不動明王が脇侍として2人の童子、コンカラ(矜羯羅)童子とセイタカ(制吒迦)童子を連れていることに思いを馳せる。不動明王が翁だとか、その変形であるというのではない。しかし、不動明王には生と死の両義性とともに、「忿怒」の形相と「童子」の肌をあわせもっているという忿怒相と童子相との対同性がある。これは見逃せない。
 そういえば金春禅竹はその『明宿集』に、翁面はつねに鬼面と一体のものとして伝承されてきたと書いていた。どこか不動明王の姿とつながるものがある。それならどうして山中の修行者の前に翁と童子が出現したり、変身したりするのだろうか。翁は神の変身なのか、零落なのか。それとも仏の化身で、童子の伴身を促すものなのか。

 ここまでの例は、主として「山の翁」の伝承をあらわしている。日本の神話や説話や昔話にはもっと別の翁たちもいる。
 たとえば、日本神話に何度も登場するシオツチは、「塩土老翁」として神話上でも重要な役割をはたしている。塩を守る「海の翁」というべきものである。釜石の塩釜(鹽竈)神社にはシオツチが祀られている。
 ホノニニギが日向の高千穂に天孫降臨し、そののち笠狭の御碕に到着したとき、そこで事勝国勝長狭という者に会う。略してナガサというが、これがシオツチで、ホノニニギに「どうぞ自分の国にとどまるように」と勧めた張本人だった。つまりシオツチは海洋系の老翁なのである。
 この話は、天孫一族が出雲のスサノオ=オオクニヌシ系とはべつに、海洋系の連中ともちゃっかり取引をしていたことを物語るのだが、ここではそのことよりも、翁の類型には「山の翁」とともに「海の翁」があることを伝えてくれる。では山の翁と海の翁は別々の者たちなのか。実は、そうでもない。

 いわゆる神武東征神話には、大和に入ろうとしたイワレヒコ(カムヤマトイワレヒコ=のちの神武天皇)が、磯城と高尾張を拠点としていたヤソタケル(八十梟帥)の頑強な抵抗にあったという話が含まれている。
 イワレヒコが困っていると夢に天津神があらわれて、天香具山の土で器を作ってそこに神酒を入れ、天神地祇を祀りなさいと言った。また土地の豪族のオトウカシ(弟猾)も同じことを進言した。イワレヒコがオトウカシとシイネツヒコ(椎根津彦)に土取りを託したところ、二人は蓑笠をつけて「老嫗」と「老父」に変装し、みごと敵陣を突破して天香具山の土を持ち帰った。これで神武はヤソタケルを討つことができた。
 話はこれでおわらない。老父に変装したシイネツヒコとは、もとは「珍彦」(渦彦)という国津神で、曲浦という海浜で釣魚を生業にしていた者だったのである。シイネツヒコは海のリーダーから山のリーダーに転身していたのだ。ということは、山の翁と海の翁といっても、そこにはけっこう転身も交換も交流もあったということになる。

 こうして山折さんは、記紀や風土記の伝承を通して、「翁」が記紀においては国津神としての神の系類に近づけて示され、風土記のような民俗的記録ではおおむね人間の領域に近づけた示し方をされていることに気がついていった。
 しかし、この山と海とをまたぐ2つの記述には微妙な「ゆれ」もある。「ゆれ」もあるのだけれど、あえていうのなら、その「ゆれ」こそが「翁」の不可思議な性格を特色してきたのではないか。そういうふうに考えた。
 だいたいこのあたりで、山折さんの“翁像”はあらかた結像しつつあったようだ。ただしもうひとつ、たいそう気になることがのこっている。それは、各地の老翁の伝承には、しばしば門付や乞食に身をやつす老人の話がけっこうあるということだ。たとえば『伊勢物語』第八一段である。
 左大臣の源融が、賀茂川のほとりの邸宅に時の親王たちを招いて宴をひらいていた。親王たちが邸宅や庭の美しさを褒め称える歌を次々に詠んでいたところ、それまで床下の座あたりをうろうろしていた乞丐の老人が、最後にこんな歌を詠んだ。「塩釜にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はここに寄らなん」。
 この邸内にしつらえられた塩釜の景色はとてもよい眺めで、いつのまにか陸奥の塩釜に来てしまったような気がした、朝凪の海に浮かんでいる舟があるなら、ぜひこの浦に寄ってほしいという意味の歌である。
 乞丐とは、わかりやすくいえば「乞食」のことだ。当時は「かたい」とも「ほかいびと」とも言った。『伊勢物語』には「かたゐをきな」というふうにある。「かたい」は社会的には総じて賤民扱いをされてきたのだ。その賤民扱いをされているような「かたい」が、『伊勢物語』では殿上の源融の歌会に居合わせたり、歌を詠んだりしている。なぜ、そういうふうになるのか。これはちょっとした謎である。

 『伊勢物語』よりややくだった『今昔物語』の巻十五に、「比叡山僧長増往生語」という段がある。
 比叡の長増という僧は、師が往生したというので、そのあとを追うようにして姿をくらました。どこかへ死出の旅路にたったと思われた。それから数十年後のこと、長増の弟子だった清尋が伊予に下ってその地で庵を結んでいると、そこへ身なりの貧しい老人がやってきた。笠をかぶって腰には蓑を巻きつけ、杖をついている。そして「かたい」として物乞いをする。よくよく見ると、それは自分の師匠の長増だったという話だ。
 この話の「かたい」は、シイネツヒコが蓑笠で「翁」に身をやつしている姿と酷似する。そればかりか、門付をする者が、よくよくその身分を聞くとかつての高僧だったとか、高貴な者だったという話のパターンを踏襲もしている。そもそも「蓑笠をつける」というのは、日本民俗学に詳しい者ならすぐ見当がつくだろうが、神々があえて落ちぶれた姿をしてみせる「神のやつし」なのである。さらに杖をもっているというのは、「神のもどき」なのである。ぼくも『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)にそのへんのことは詳しく書いておいた。
 以上のことからおよそのことが推理できる。『伊勢』の「かたゐをきな」は、高貴な身分をやつしている者かもしれなかったということだ。いや、「かもしれない」どころではない。あえて強くいうのなら、老法師や老翁の姿には、つねにそうした「聖と賤とをまたがる面影」が付与されているというべきなのである。
 こうして、ここに八幡神、稲荷神、シオツチ、シイネツヒコなどが伝える物語と、童子が出たり入ったりすることと、能の『翁』の伝えようとしている意味とが、スパークするようにつながってくる。やはり、日本には神と仏と、そして翁とがいたわけなのである。
 このような見方はどのように結着すればいいのだろうか。山折さんは、その結着はあいかわらず折口信夫の考え方が握っているとみた。

 本書の第4章は「メシアとしての翁」という、はなはだ大胆なチャプター・タイトルになっている。そのサブタイトルは「折口信夫論の試み」だ。
 山折さんは何を書いたのか。ここで述べられていることにはベルイマンの映画《野いちご》の話から、エリクソンの熟年論にいたるまで、いろいろな興味深い例示もあるのだが、集約すると、こういうふうになる。
 柳田国男の『遠野物語』の序文に、「翁さび飛ばず鳴かざるをちかたの 森のふくろふ笑ふらんかも」という歌が示されているが、この「翁さび」の意味の大半をうけとめ、展開できたのは折口信夫だった。折口は、「翁さび」とは翁が「神のもどき」を見せていることであり、そのように「神のもどき」をする神とは、マレビトとしての来訪神であることを証した。
 折口の分析はそれにとどまらなかった。「翁さび」とは「神さび」と同様、そのものらしく振る舞うことで、そこには翁として神事を振る舞う意図がふくまれているはずだというのである。たとえば『続日本後紀』には、「翁とてわびやは居らむ。草も 木も 栄ゆる時に、出でて舞ひてむ」という尾張の浜主の歌があるのだが、これは神事演舞の扮装演出に言及しているのであって、したがって「翁さび」とは、そのように翁らしい振舞ができているかどうかを問うたのだ、そう折口は判断したのだった。
 さて、そうなると、能の『翁』に象徴される様式や振舞の意図の背後には、日本の芸能の根源によこたわる「祭りの本質」がひそんでいたということになる。折口はこのことを『翁の発生』と『大嘗祭の本義』で示した。たいへん有名な論文で、すこぶる直観的連想性に富んでいるのだが、わかりやすく要約すると、こうである。

 日本の祭りは四季に応じていると見られがちだろうけれど、もともとは大晦日の一夜のうちにおこなわれた“一続きの祭り”が母型になっていたはずだ。
 その日の宵のうちにおこなわれるのが「あき祭り」で、深夜におこなわれるのが「ふゆ祭り」、そして暁方におこなわれるのが「はる祭り」なのだ。それがのちに暦が導入され、各季節の祭りに分化していった。
 このうち「あき祭り」は収穫に対する感謝であって、宵のうちにやってくる来訪神としてのマレビトに、その家の主人が田畑の成績を報告することを主旨とした。次の「ふゆ祭り」は、その来訪神がその家の主人のために生命の言祝(寿ぎ)と健康の祝福を与えた。すなわち、「あき祭り」と「ふゆ祭り」は、来訪神と主人とのあいだの問答と応酬で成立している。つまり、ここには客と主の応接がある。
 こうして、夜中の「ふゆ祭り」によって家の内外に魂の力が漲ると、そこから夜明けの「はる祭り」としての再生復活のステージになっていく。「ふゆ」に充塡された魂の力が「はる」をもって晴れわたり、また張っていく。そして、野山に芽吹きと開花をもたらしていく。
 このような一連の出来事が、そもそも日本の祭りの母型にあったはずなのである。そうだとすれば、ここで最も重要になるのは、再生の力をもたらした来訪神としてのマレビトの面影だったということになる。折口は、この来訪神はたいていの場合、「神のもどき」としての「老体」や「翁」に身をやつしていたと考えた。それは、祭りの庭に招かれて、共同体の繁栄と再生を約束する“メシア”の役割をもっていたのである。翁はメシアであることを暗示する姿だったのである……。

 どうだったろうか。ぼくはこれをもって、本書の案内をとじることにするが、途中、大幅な中抜きをしていることを白状しておかなければならない。第2章にあたる「古代における神と仏」というところを、すべて中抜きした。たいへん痛快な分析もあるのでぜひ本書に当たって読まれることを勧めておく。
 それはそれ、本書は日本の神仏や日本の民俗風習なんて苦手だと思う諸君には、やや高級ではあるが、高級であるがゆえに、そういう諸君がいちはやく入門すべき核心を描いている一冊ではないかと思う。最初に書いたように、山折さんはめずらしく研究成果を「おもしろく」「あやうく」書ける人なのだ。

附記‥山折さんは父君が浄土真宗の布教のために赴任していたサンフランシスコで、1931年に生まれた。7歳のころ日本に戻って、戦争中は花巻に疎開していたため、宮沢賢治に対する愛着が深い。東北大学を出て、ぼくにもおなじみの春秋社に入って10年近くを編集に携わった。その後は駒沢大学・東北大学をへて国立歴史民俗博物館に6年ほどいて、そのころぼくはお会いしたのだが、あとは国際日本文化研究センターで教授や所長を務められた。著書はめっぽう数多い。とても全部を紹介できないし、ぼくもその3分の1も読んでないと思うけれど、本書に関連して印象深いものを、以下、あげておく。
 『仏教とは何か』(中公叢書)、『ブッダはなぜ子を捨てたか』(集英社新書)、『信ずる宗教・感ずる宗教』(中央公論新社)、『仏教民俗学』(講談社学術文庫)、『仏教信仰の原点』(講談社学術文庫)、『宗教思想史の試み』(弘文堂)、『日本仏教思想の源流』(講談社学術文庫)、『神と仏』(講談社現代新書)、『日本仏教思想序説』(講談社学術文庫)、『日本人の思想の重層性』(筑摩書房)、『日本人の宗教感覚』(NHKライブラリー)、『日本人の宗教とは何か』(太陽出版)、『日本宗教文化の構造と祖型』(青土社)、『日本人と浄土』(講談社学術文庫)、『地獄と浄土』(春秋社・徳間文庫)、『日本人の霊魂観』(河出書房新社)、『日本人の心情』(NHKブックス)、『さまよえる日本宗教』(中公叢書)、『日本文明とは何か』(角川叢書)、『近代日本人の宗教意識』(岩波書店)、『近代日本人の美意識』(岩波書店)、『坐の文化論』(佼成出版社・講談社)、『無常という名の病』(サンガ)、『親鸞を読む』(岩波新書)、『人間蓮如』(洋泉社)、『霊と肉』(講談社学術文庫)、『愛欲の精神史』(小学館)、『神秘体験』(講談社現代新書)、『環境と文明』(NTT出版)、『アジアの環境・文明・人間』(法蔵館)、『インド・人間』(平河出版社)、『聖と俗のインド』(第三文明社)、『ガンディーとネルー』(評論社)、『物語の始原へ・折口信夫の方法』(小学館)、『執深くあれ・折口信夫のエロス』(小学館)、『巡礼の思想』(弘文堂)、『死の民俗学』(岩波書店)、『臨死の思想・老いと死のかなた』(人文書院)、『生と死のコスモグラフィー』(法蔵館)、『神と王権のコスモロジー』(吉川弘文館)、『天皇の宗教的権威とは何か』(三一書房・河出書房新社)、『「歌」の精神史』(中公叢書)、『涙と日本人』(日本経済新聞社)、『悲しみの精神史』(PHP研究所)、『演歌と日本人』(PHP研究所)、『美空ひばりと日本人』(現代書館)。