才事記

父の先見

先週、小耳に挟んだのだが、リカルド・コッキとユリア・ザゴルイチェンコが引退するらしい。いや、もう引退したのかもしれない。ショウダンス界のスターコンビだ。とびきりのダンスを見せてきた。何度、堪能させてくれたことか。とくにロシア出身のユリアのタンゴやルンバやキレッキレッの創作ダンスが逸品だった。溜息が出た。

ぼくはダンスの業界に詳しくないが、あることが気になって5年に一度という程度だけれど、できるだけトップクラスのダンスを見るようにしてきた。あることというのは、父が「日本もダンスとケーキがうまくなったな」と言ったことである。昭和37年(1963)くらいのことだと憶う。何かの拍子にポツンとそう言ったのだ。

それまで中川三郎の社交ダンス、中野ブラザーズのタップダンス、あるいは日劇ダンシングチームのダンサーなどが代表していたところへ、おそらくは《ウェストサイド・ストーリー》の影響だろうと思うのだが、若いダンサーたちが次々に登場してきて、それに父が目を細めたのだろうと想う。日本のケーキがおいしくなったことと併せて、このことをあんな時期に洩らしていたのが父らしかった。

そのころ父は次のようにも言っていた。「セイゴオ、できるだけ日生劇場に行きなさい。武原はんの地唄舞と越路吹雪の舞台を見逃したらあかんで」。その通りにしたわけではないが、武原はんはかなり見た。六本木の稽古場にも通った。日生劇場は村野藤吾設計の、ホールが巨大な貝殻の中にくるまれたような劇場である。父は劇場も見ておきなさいと言ったのだったろう。

ユリアのダンスを見ていると、ロシア人の身体表現の何が図抜けているかがよくわかる。ニジンスキー、イーダ・ルビンシュタイン、アンナ・パブロワも、かくありなむということが蘇る。ルドルフ・ヌレエフがシルヴィ・ギエムやローラン・イレーヌをあのように育てたこともユリアを通して伝わってくる。

リカルドとユリアの熱情的ダンス

武原はんからは山村流の上方舞の真骨頂がわかるだけでなく、いっとき青山二郎の後妻として暮らしていたこと、「なだ万」の若女将として仕切っていた気っ風、写経と俳句を毎日レッスンしていたことが、地唄の《雪》や《黒髪》を通して寄せてきた。

踊りにはヘタウマはいらない。極上にかぎるのである。

ヘタウマではなくて勝新太郎の踊りならいいのだが、ああいう軽妙ではないのなら、ヘタウマはほしくない。とはいえその極上はぎりぎり、きわきわでしか成立しない。

コッキ&ユリアに比するに、たとえばマイケル・マリトゥスキーとジョアンナ・ルーニス、あるいはアルナス・ビゾーカスとカチューシャ・デミドヴァのコンビネーションがあるけれど、いよいよそのぎりぎりときわきわに心を奪われて見てみると、やはりユリアが極上のピンなのである。

こういうことは、ひょっとするとダンスや踊りに特有なのかもしれない。これが絵画や落語や楽曲なら、それぞれの個性でよろしい、それぞれがおもしろいということにもなるのだが、ダンスや踊りはそうはいかない。秘めるか、爆(は)ぜるか。そのきわきわが踊りなのだ。だからダンスは踊りは見続けるしかないものなのだ。

4世井上八千代と武原はん

父は、長らく「秘める」ほうの見巧者だった。だからぼくにも先代の井上八千代を見るように何度も勧めた。ケーキより和菓子だったのである。それが日本もおいしいケーキに向かいはじめた。そこで不意打ちのような「ダンスとケーキ」だったのである。

体の動きや形は出来不出来がすぐにバレる。このことがわからないと、「みんな、がんばってる」ばかりで了ってしまう。ただ「このことがわからないと」とはどういうことかというと、その説明は難しい。

難しいけれども、こんな話ではどうか。花はどんな花も出来がいい。花には不出来がない。虫や動物たちも早晩そうである。みんな出来がいい。不出来に見えたとしたら、他の虫や動物の何かと較べるからだが、それでもしばらく付き合っていくと、大半の虫や動物はかなり出来がいいことが納得できる。カモノハシもピューマも美しい。むろん魚や鳥にも不出来がない。これは「有機体の美」とういものである。

ゴミムシダマシの形態美

ところが世の中には、そうでないものがいっぱいある。製品や商品がそういうものだ。とりわけアートのたぐいがそうなっている。とくに現代アートなどは出来不出来がわんさかありながら、そんなことを議論してはいけませんと裏約束しているかのように褒めあうようになってしまった。値段もついた。
 結局、「みんな、がんばってるね」なのだ。これは「個性の表現」を認め合おうとしてきたからだ。情けないことだ。

ダンスや踊りには有機体が充ちている。充ちたうえで制御され、エクスパンションされ、限界が突破されていく。そこは花や虫や鳥とまったく同じなのである。

それならスポーツもそうではないかと想うかもしれないが、チッチッチ、そこはちょっとワケが違う。スポーツは勝ち負けを付きまとわせすぎた。どんな身体表現も及ばないような動きや、すばらしくストイックな姿態もあるにもかかわらず、それはあくまで試合中のワンシーンなのだ。またその姿態は本人がめざしている充当ではなく、また観客が期待している美しさでもないのかもしれない。スポーツにおいて勝たなければ美しさは浮上しない。アスリートでは上位3位の美を褒めることはあったとしても、13位の予選落ちの選手を採り上げるということはしない。

いやいやショウダンスだっていろいろの大会で順位がつくではないかと言うかもしれないが、それはペケである。審査員が選ぶ基準を反映させて歓しむものではないと思うべきなのだ。

父は風変わりな趣向の持ち主だった。おもしろいものなら、たいてい家族を従えて見にいった。南座の歌舞伎や京宝の映画も西京極のラグビーも、家族とともに見る。ストリップにも家族揃って行った。

幼いセイゴオと父・太十郎

こうして、ぼくは「見ること」を、ときには「試みること」(表現すること)以上に大切にするようになったのだと思う。このことは「読むこと」を「書くこと」以上に大切にしてきたことにも関係する。

しかし、世間では「見る」や「読む」には才能を測らない。見方や読み方に拍手をおくらない。見者や読者を評価してこなかったのだ。

この習慣は残念ながらもう覆らないだろうな、まあそれでもいいかと諦めていたのだが、ごくごく最近に急激にこのことを見直さざるをえなくなることがおこった。チャットGPTが「見る」や「読む」を代行するようになったからだ。けれどねえ、おいおい、君たち、こんなことで騒いではいけません。きゃつらにはコッキ&ユリアも武原はんもわからないじゃないか。AIではルンバのエロスはつくれないじゃないか。

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日本/権力構造の謎

カレル・ヴァン・ウォルフレン

早川書房 1990

Karel van Wolferen
The Enigma of Japanese Power 1989
[訳]篠原勝

 民主党の新代表が小沢一郎になった。まだ陣営は未発表だが巨頭体制になるだろう。小沢はただ一言、「政権をとる」だけを信条にしている。権力を握らないで、何が政治か、政党かというのである。
 しかし、権力とはいったい何なのか。日本においてはその権力はどのような制度や地方や経済に裏付けられているのか。実は意外にこれがわかりにくいのだ。
 そこで、いったい日本という国家は誰が権力をもっているのか。どこに権力の中枢があるのか。どのように権力がはたらいているのか。日本人でさえ解きがたい謎に一人のオランダのジャーナリストが敢然と挑んだ。15年前の挑戦である。この手の本はゴマンとあるが、ぼくが読んできたかぎりでは十指に入るものだった。
 むろん言及できていないところも多い。日本文化についてはほとんど踏みこんでいないし、幕藩体制や鎖国や仏教天皇制度神道についての分析も甘い。しかし、本書の狙いは日本の権力構造を炙り出すことにあり、とくに政治体制に組みこまれている諸問題にメスを入れようとしたのだから、こういう不足があっても非難されるには当たらない。むしろ「文化」の問題を引き入れないようにして本書は書かれた。だいたいウォルフレンは日本の政治家や知識人が何かというと説明のつかない問題を日本文化のせいにするのがひどい病気だと見ているのである。
 また、本書を今日読むには、本書が書かれた時期を勘定に入れる必要もある。そのことについてはあとでのべるが、それでもそれらの不利な勘定を差っ引いても、なお本書は日本人が読むに値する盲点を突いた。日本人でこのような議論に挑んでいる例は情けないほど、少ない。

 ウォルフレンが本書を書いたのは、アメリカの外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」1986-87年冬号に掲載した「ジャパン・プロブレム」が思わぬ反響で迎えられたからだった。各国のメディアやジャパノロジストから好評が寄せられた一方で、日本の外交筋や高官から猛烈な反発が突き刺さってきのだ。これでウォルフレンは発奮して大著というべきほどの本書を執筆する気になった。
 その「ジャパン・プロブレム」では、こういうことを書いた。日本は世界を当惑させている。大国となった日本は、世界が期待しているような大国にふさわしい態度をとっていない。それなら、国際社会の一員になりたくないのかといえばそうでもなく、国際的なプレステージを気にしている。欧米のゲームに参加して、80年代の初期からたいそうな勝ちを収めているのに、そのルールを守らない。
 この時期は日本が主にアメリカによってジャパン・バッシングされていた時期である。自動車をはじめとする日本の輸出品がアメリカの"怒り"を買って、各地で壊されたり焼かれたりしていた。しかし、日本からすると困った実情であるはずなのに、日本はその基本姿勢を改めなかったばかりか、なぜ日本はそのような姿勢をとりつづけるのか、説明しようともしなかった。
 ふつうなら、これは日本に国益を守るべき明確な意志や意図があるからだと想定されるところだった。そういうものがあってもかまわない。国家というものはどこだって国益のために動くものである。しかし、アメリカをはじめとする各国がそのような日本の意志や意図を分析しようとしてみると、あるいは当事者間で交渉してみると、日本側にそのような明確な方針があるとは思えなくなってくる。失礼しました、改善するように努力しましょうと言うばかりなのだ。
 いったいこれはどうしたことか。そこでウォルフレンは次のように推理せざるをえないと書いたのだ。

 なぜ日本がこのような態度をとるかというのに、おそらく3つほどの虚構(フィクション)があたかも現実のように動いていて、日本を"変な国"にさせているからではないか。
 第1に、日本は主権国家として最善の国益を選択しているのだろうと諸外国からは思われているが、実はそのようなことができていない国なのである。第2に、日本は自由市場経済を徹底していると主張しているが、どこかでごまかしているか、あるいは内側の顔と外側の顔を使い分けているにちがいない。第3に、おそらく日本は世界中がまだ定義すらできていない体制をとっている国なのだろうが、その体制について自覚も分析もできていないのは当の日本自身なのである。
 ざっとそんな観察をしたうえで、ウォルフレンはこういう日本を「柔軟だ」とか「曖昧だ」とか「独自だ」と弁護したり非難したりするのはよくないと判断した。日本のためにもよくないのというのだ。それより、日本には権力の行使を見えないものにする「システム」がある、そう見るべきではないかというのだ。「フォーリン・アフェアーズ」の論旨はだいたいこういうものだった。
 しかし、このときはたんなる憶測を書いたにすぎなかった。本書はそこで、その「システム」の正体をなんとかあきらかにしようという目的で書かれた。

 日本国憲法が定めるところによれば、日本は議院内閣制の民主主義国である。国(ネーション)とは共通言語を使用し、ほかとは異なる独自の文化をもっているものをいう。国家(ステート)は国(ネーション)を成立させている国土(カントリー)をもっていて、その国土のすべてに統治権を発揮する。
 主権は国民にあり、立法権は選挙で選ばれた議員によって構成された国会両院にある。したがって国会は法的にはすべての決裁者であっていいのだが、日本の国会はそうなってはいない。両院から委任されて行政府としての内閣がつくられ、その政府(ガバメント)のトップに内閣総理大臣が立つ。したがって行政権のすべての決裁者は内閣総理大臣すなわち首相にあるはずだが、日本の首相はそのような権力を掌握していない。少なくとも本書が書かれた90年代初頭まで(ありていにいえば小泉純一郎が登場して2年たつまで)、日本の首相は自民党政治の領袖を争うだけであって、国家の行政責任をまっとうするための権力を発揮していなかった。
 国会と首相が国家の中核としての権力を掌握していないとすると、ではこれに代わって権力をもっている可能性があるのは官僚と財界ということになるのだが、どうもこの両者にも究極的な権力はない。ボスはたくさんいるようだが、他の力を支配するだけのボスをもつ集団にはなっていない。
 それにもかかわらず日本は高度に中央集権的である。東京にすべての力が一極集中しているのは日本人のすべてが好むと好まざるとにかかわらず認めているところで、首都移転の議論は何度提出されてもあっというまに雲散霧消する。中央集権的であるということは、どんなに力のある集団がこの国に複数あっても、それらがなんらかのしくみで統括できるようになっているということだ。しかし、そのしくみには明確なヒエラルキーがなく、複合的にしか動かない。

 日本の中央集権を"成立"させているのではなく、それを"体現"しているのは自民党である。自民党はどう見ても派閥の連合体であるから、これを欧米同様の定義による政党と名付けるのはまちがいだが、それでも戦後政治の大半の流れのなかで自民党が権力の座をもててきたということは、自民党に権力機構がそなわっているとみなすしかない。
 ところが自民党の内部には、「予算掌握」と「派閥の力学」と「巨大な集票機構」と「利益誘導」(ポークバレル)が動いているだけで、政治意志や権力意志の哲学や力学が動いているとはいいがたい。しかも予算掌握と利益誘導は省庁の官僚に依存ないしは結託されていて、たとえば中央集権を保持するには地方自治体の反乱や行きすぎた自立を押さえていなければならないのだが、その押さえ方は地方にばらまく「補助金」という制度に頼っているありさまなのである。
 一方、野党はつねに権力を掌握する意志を見せはするものの、日本という国家を律するための用意などしているとは思えない。与野党の力の逆転を選挙で画するだけが目標になっていて、"万年野党"の名があらわしているように、自民党政治の一角を実質的に切り崩すというような明確な戦略によって動いていない(本書が書かれたのち細川政権が誕生して、自民党の一党独裁にヒビが入り連立政権時代が始まったのだが、その後も与野党は議員数の確保のための離合集散をくりかえすばかりになっている)。

 内閣や政党に権力機構が明示できないとすると、官僚の力が侮れないということになるのだが、半分くらいはその可能性があるようには見える。
 まず、各省庁を統括する大臣に力がない。内閣改造が頻繁であるために担当大臣は1年以上の省庁把握などできないし、大臣自身がふだんから官僚コントロールのための知識や準備をしているともおもえない。大臣は失言せずに任期をまっとうして点数を稼ぐことだけが重大な任務なのである。
 そこで政務の実権を行使するのは省庁の次官だということになる。実際にも、たいていの法案やアジェンダは次官の指示にもとづいて官僚がつくりあげている。自民党はそのプログラムに適当な変更を加えて、"お墨付き"を与えるだけなのだ。
 日本の政治が官僚の手に握られているというのはそこである。ところが、その官僚のしくみのなかに権力の構造を浮き立たせようとすると、省庁間の縄張り争いをふくめて、これらの省庁を統括する力をどこが握るかということはとうてい明確ではない。かつての明治官僚のように官僚機構そのものを強化して、それが列強に伍する日本だというようなことを見せようとする官僚はいないのだ。
 仮に官僚にそのような意図をもった者がいたとしても、何かの強権を指摘されるとすぐに民主主義的なそぶりを見せるようになっていて、もしもそれが不服なら政治家に転出してしまって、もっと不透明な日々をおくるだけなのだ。
 財界にもそのような権力構造の代替性は明確ではない。明確でないどころか、経団連が国家の指針に対して有効な助言をしているなんてことはほとんどないし、生意気な顔をしているわりには政治や国益の議論をしている機構をもってはいない。

 警察権力はどうか。日本警察能力はたしかに各国のそれとくらべて遜色ないし、犯罪発生率や不正検挙率などをくらべても格段の腕前をもっている。極度に中央集権化されているところは国内随一でもある。もし野心を抱く一派がクーデターをする気になれば、検事と公安と機動隊を擁した警察権力こそがその可能性を一番もっているようにも見える。
 しかし、ここには国家の利益のために機能するという意志がない。好意的に見ても、国内の正義と安定を守るだけなのである。とりわけ海外に対してのシナリオがまったくない。日本の評判をつくるという意図もない。また、その警察権力とバランスをとるための対外戦略を策定するCIAやKGBにあたる機関もない。
 同様に自衛隊にもなんら権力がない。国会や首相の決定がないかぎり、自衛隊は何も動けない。かつての石原莞爾と関東軍のような独断専行は今日の日本ではまったくありえない。もし諸外国で日本の軍事大国化を心配する向きがあったとしても、それを自衛隊に対する行動の不安と見る必要はない。

 では圧力団体はどうか。ウォルフレンは当時の日本の圧力団体とみられる農協、日教組、日本医師会、法曹界、連合(労働組合)、解放同盟などを次々に点検するのだが、どれも権力を掌握しているとはいいがたいと結論づけた。とくにそれらをヨコにつなぎタテにひっぱっている機構が見えてこない。農協と農水省、銀行と金融庁、日弁連と法務省の関係が見えてくるばかりなのだ。
 いずれにしても利権をめぐる構造はいくらでもあるのだが、そこに日本の国益を統合する思想やしくみがはたらいているとは、とうていいいがたいのだ。というようなことで、これでは日本は国家が無用な長物なのかと言いたくなるような姿をもって"運営"されているとしかおもえなくなってくるのである。
 いったいどう考えたらいいのか。ウォルフレンは知恵を絞って、次のように結論づけた。日本の権力は(それがないなどということはありえないのだから)、極度に非政治化されるように見える政治的プロセスでできていて、それは欧米で規定する権力機構のしくみとは異なる「システム」になっているのではないか、そのシステムは議会や内閣や官僚が制度的に掌握しているのではなく、複数のアドミニストレーター(管理者)によってそのつどツボが抑えられていると見るしかないようになっているのではないか、そう結論づけたのだ。
 いわば、パワープロセス(権力行使過程)はあきらかにあるのだが、またそれが中央集権的なものと結びついていることもたしかなのだが、それはつねに分かちがたいボディ・ポリティックス(統治体制)としてのみ見えるようになっている。そう見えるような努力ばかりをしている。
 つまりは日本はアドミニストレーター天国ではあっても、その天国は日本という国家なのではなく、日本国家はそうしたばらばらのシステムの統合体でしかないということなのである。だからこそ、日本は長らく東大法学部出身のアドミニストレーターをあらゆる政界・業界・法曹界・公安界のトップに迎えてきたのである。

 ウォルフレンの結論は、これを反証する制度や機能を明示できないかぎりは、当たっているように見える。しかし、とはいえシステムとアドミニストレーターですべてを説明しても何の説明にもならないようにも見える。かつてから日本には集団志向や集団主義のようなものがはたらいていて、そこに日本の見えざる本質があると指摘されてきたのだが、またそれを日本の研究者も指摘していたのだが、そのような結論とのちがいも曖昧である。
 つまり一神教による歴史のうえに近代国家を構築したヨーロッパ型あるいは欧米型の国家権力の作り方とは異なる日本を、国家や権力のしくみから説明しようとしても、その欧米型の概念にあてはまらない機能を新たな概念で説明するか、それとも旧来の日本がもっていただろう価値観を支えた概念で説明するしか、説明のしようがないのだ。
 むろんウォルフレンは自分の分析がそのような傾向に陥る危険があることも十分に承知していて、たとえば日本の"三大精神体系"となっているであろう神道・仏教・儒教がもたらしてきた役割についてもちょっとだけ言及しようとするのだが、たちまちこれらが今日の日本の不透明さをあきらかにするようなものではないことに気がついて、そんな説明をしつづけても無駄だろうというふうに切り上げる。
 また、システムとアドミニストレーターにすべてを委ねる日本人の価値観が、大学や家庭や会社で育まれているのではないかという当たりをつけて分析にとりかかるのだが、これも作業半ばであきらめる。大学は何も国家のことも日本のことも、まして日本人の矜持につながる日本文化のこともまったく教えていなかった。まして小中学校でも家庭でもそんなことを教えない。学校での日の丸の掲揚すら問題になるほどなのである。
 知識人もまた知的空洞のなかにいるとしか見えない。これについては、のちにウォルフレンが『日本の知識人へ』で書いたことを加えると、より鮮明になる。ウォルフレンはそこで「日本では知識人がいちばん必要とされるときに、知識人らしく振る舞う知識人はまことに少ない」ことを嘆いて、この国には知的摘発調査(インテレクチュアル・プロービング)という独立した分野がないことに失望しているのである。

 本書が言及していることはまだまだいっぱいあるが、おおむねは以上のような指摘がなされた。本書以前に、ウォルフレン以外にこのようなアプローチで日本を記述する方法を提起した者はなかった。
 ぼくが見るに、ウォルフレンが以上のような結論に達したことは、やむをえないものだろうという気がする(ただし、天皇と天皇制の問題にはほとんど言及していない)。反論もしにくいだろう。その理由は、日本人が研究者もマスコミも日本の権力機構を説明してこなかったこと、とくに権力の座についたことのある者やその側近にいた者が、それが内閣であれ大蔵省であれ農協であれ、その権力の謎をなんら解き明かしてこなかったのだから、海外のジャーナリストによる分析がここまで達したことに反論する方法もないだろうということにある。
 しかし、日本がはたしてシステムによって"真実"を隠している国であるかどうかということになると、どうか。日本がその"真実"を認識しているかどうかさえ危ういことなのだ。本書によって、日本には責任をとって自殺したり沈黙したりしてしまうレスポンシビリティ(行動責任)があっても、政治的説明をしようとするアカウンタビリティ(説明責任)がないというウォルフレンの指摘がさかんに流行したのだが、そのアカウンタビリティを日本の政治家や知識人に期待するのは、残念ながら無理なのだ。
 かれらは説明するための準備をもって行動しているのではなく、説明ができないから行動しているのである。政治家や企業家や農協の指導者たちばかりではない。音楽家や陶芸家や小説家すらそうなのだ。かれらは国際的にも評価をうけるすぐれた作品をいくらもつくれるけれど、その説明で国際的な評価をうけることはめったになく、たとえばヴェネチア・ビエンナーレですばらしい作品を提示したアーティストに講演を頼むと、がっかりするような感想しか言わないために、多くの講演会主催者はそのギャップに戸惑うばかりなのだ。

 そんなことでいいのですかと言われれば、こんなことでいいはずがない。作品に徹したい芸術家ならともかく、日本の政治や経済が国際的なプレステージをグローバルな政治経済の状況のなかでなんらかの地歩を築きたいのなら、こんなことでいいはずがない。
 本書を書いたあと、ウォルフレンは『日本をどうする?』『日本を幸福にしない日本というシステム』で、「システム」に依存している日本にさらに警鐘を鳴らし、続いて『なぜ日本人は日本を愛せないのか』や『日本の知識人へ』などで、日本文化の特殊性に逃げこむ日本人が勇気をもってそこから抜け出てくることを呼びかけた。憲法改正にも踏み切るべきだと提案した。
 またウォルフレンは本書をふくめて、何度も日本のマスコミのはたしている問題を指摘した。日本のジャーナリズムは社会秩序の維持が仕事だという勘違いをしていて、社会が変革される方向のために努力をしていない。ジャーナリストの責任を問わないで他人の責任ばかりを問うている。とくに権力の構造についての説明をしていない。まだしも週刊誌がその役割をはたしているようなのだが、ウォルフレンにはその週刊誌がなぜヘアヌードとそれを一緒に取り扱うのかが解せないという(それを説明できる日本人も少ないが)。
 つまりは、日本は日本の幸福のために機能していないのではないかというのだ。当然、お節介なことを言う奴だと、ウォルフレンは嫌われた。しかし、ウォルフレンのお灸は効いた。アカウンタビリティを問いあうことは日本人のあいだでも慣行になってきた。湾岸戦争で日本の政治的説明の空洞が露呈したという指摘も、日本人に納得できるようにもなってきた。

 それにしてもこれは、第2、第3のアーネスト・フェノロサやブルーノ・タウトやルース・ベネディクトに、今度は日本の政治権力についてのヒントを貰ったということなのだろうか。そういうこともあるだろう。それが悔しいなら、言い返せばいいのだ。
 しかしぼくがおもうに、いまのところ次期首相や次々期の内閣に入りそうな政治家にウォルフレンの言説を覆せる者は、一人としていないように見える。かれらはなんとかして言説ではなく(ぼくが知っている30代・40代の政治家たちの言説はもっとひどいものだ)、あいかわらず行動で示したいだけなのである。
 一方、知識人はどうかというと、左翼運動が廃れて以降、行動にはまったく関心がない。たまに署名運動や声明文で見せる言説もろくなものがない。しかし「千夜千冊」にもときおりとりあげてきたように、「日本とは何か」を問う傾向はふえている。ただしそれらはたいてい日本の国家の全貌についてのものではなく、限定した領域の研究であるのだが、ぼくはそれでいいのではないかとおもう。問いが深まれば、そこにしだいに答えも滲んでくるものなのだ。
 いずれにせよ、日本の権力の問題は、日本に作用しつづけている「負のしくみ」に目を及ぼさないかぎりは、新たな"説明"には入れまい。しかし、それを政治家が説明したところで、権力の座が得られるとはかぎらない。

附記¶ウォルフレンはロッテルダムに生まれて、18歳のときに母国を離れてトルコ、アラブ圏、インド、南アジアをまわって1962年から日本に住んだ。1972年からオランダの新聞の東アジア特派員となり、フィリピン政権交代劇などで評価をえた。著書は本書のあと、『日本をどうする?』(早川書房)、『民は愚かに保て』(小学館)、『人間を幸福にしない日本というシステム』『なぜ日本人は日本を愛せないのか』(毎日新聞社)、『日本の知識人へ』(窓社)、『日本という国をあなたのものにするために』(角川書店)、『怒れ、日本の中流階級』(毎日新聞社)などを連打した。