グスタフ・ルネ・ホッケ
迷宮としての世界
美術出版社 1966
[訳]種村季弘・矢川澄子

 こういう本はさかしらに批評するものではない。批評などしてはいけない。ひたすら読みこみ、ひたすらこのテキストに惑溺するのがよい。そして、コンチェッティスモ(綺想異風派)、クルティスモ、コンセプテュアリスモ(感覚派)、ユーフィズム、ゴンゴラ派、マリーノ派、プレシオジテなどの、まるでイメジャリーな抜刀術ともいうべきマニエラ(方法)の列挙に自身が酔うしかない。それがマニエリスムにふれるということの真骨頂であって、お節介なことをいうなら、グスタフ・ルネ・ホッケがそのことを該博な言葉と華麗な文脈において体現できた稀有な観察力と省察力をもった表現者であったことに感謝するべきだ。
  少なくともぼくは、そう読んだ。大学を出たばかりのころだった。神田の美学校で一度だけ講義を聞いた種村季弘が翻訳した「迷宮のような大著」が刊行されたらしいというだけのニュースを知って、飛びついた(矢川澄子が共訳者だったことはあとで知った)。一読、もちろん目が眩んだが、そのまさにカイヨワのいう眩暈(イリンクス)ともいうべき読中感で得たものはその後のぼくの想像力のための第三番目のエンジン気筒となったのだから、これは、この本を読んだか読まないか、その一点のもつ分岐力だけが重大だったということを告げたのである。

 いま、この本を再読したらどんな感想をもつかどうかは、わからない。
  ぼくもその後、たとえば若桑みどりの訳業によるアーノルド・ハウザーの『マニエリスム』やマリオ・プラーツの『官能の庭』や『綺想主義研究』や『ペルセウス・メドゥーサ』を、その若桑の『マニエリスム芸術論』を、ロバート・エヴァンズの『魔術の帝国』やカルロ・ギンズブルグの『ペナンダンティ』などを、また、これは自分でもよくぞ読みきったとおもうのだが、エルンスト・クルティウスの『ヨーロッパ文学とラテン的中世』やワィリー・サイファーの『ルネサンスの四段階』などをしこたま渉猟してきたので、とくにホッケだけが独自の見解を披露したのではないことは十分に承知している。
  しかも日本では、畏友高山宏君がこの手の画期的文献を十数年にわたってことごとく紹介していて、つい最近ではサイモン・シャーマの大著『風景と記憶』の訳業すらおえてくれた。ここまで事情が詳らかになればもはや一人ホッケを称揚してばかりいられないのであるけれど、しかしそれでもなおはっきりしているのは、これらの本を耽読できたのは、ぼくにおいてはつねにホッケ・種村に貰った第三エンジン気筒のおかげだったということなのである。

 マニエリスムとは、ある時代の割れ目に向かって決定的な精神の変動をおこうとした者たちが気がついた「方法の自覚」のこと、その自覚された方法の体現のことである。マニエラあるいはマニエールの意味は英語ならマナーとかマニアやマニアックになるところ、ごくごく一般的には「手法」と訳されるけれど、たんに手法主義というのではマニエリムの意味はまったくつかめない。

  われわれには原身振り(ウルゲベルク)というものがある。この原身振りはふつうの挨拶や会話をしているときにも、隠そうとしてもしばしば滲み出てくるもので、これを採り出すにはよく知られた手法によるならカリカチュアを用いればよい。だから凝った人物表情に長けているマンガは、ことごとく現代マニエリスムの一種なのである。
  しかし、マニエリスムは表現に遊んだばかりではなかった。そのように表現する目的をもっていた。まずもって、そこには神秘を暗示したいという衝動が渦巻いていた。むろん神秘を扱いたいというだけなら宗教者も宗教画家たちもオカルティストも、あるいはドイツロマン主義に代表されるような文芸者たちもみんな神秘を扱っているのだが、マニエリスムにとっての神秘はそうではなく、絵画的技法あるいは文芸的修辞そのものが神秘の暗号であるような、いわばそれだけを見たり読んだりすれば決して神秘の賛美とは見えないようなもの、すなわちアンチ・クライマックスと見紛うばかりの神秘なのである。
  かつてはそれをヘルメス学とよんだりグノーシスとよんだりしたものだった。むろんマニエリスムにそのような要素や作用がないとはいえないが、それよりそのヘルメスやグノーシスの知をも一幅のタブローや一枚のエンブレムや一条の文章によって衒奇的にツイストさせ、歪曲させ、幻想の遠近法のヒダヒダやケバケバの裡に変換してしまうのがマニエリスムの特異性なのだ。

 マニエリスムを古典主義との比較でいえば、少しはわかりやすくなる。古典主義が神秘という秘匿されたものを悟性的に昇華された自然において描きだそうとしたのに対して、マニエリスムは秘匿されたものを寓意によるイデアのうちにあらわすべく、それが歪んでいくことをほとんど警戒せずに、神秘の多くを人為にひそむ内部の力の開花に託していったのである。
  もっとわかりやすくいえば、神秘を描くのは神ではなく人間であって、その人間にはありとあらゆる欠陥が噴き出ていることを認めたのであった。それは神秘を「隠された人間像」(ホモ・アプスコンディトゥス)に向けてあらわしたというふうにもいえる。
  それゆえ、マニエリスムは自然ではなく人工であり、堆積ではなく逆流なのである。決議論ではなく懐疑論であり、アポロン的ではなくディオニソス的であり、敬われるのでなく呪われ、一方的でなく可逆的で、能動というよりいっさいの受動なのだ。またマニエリスムは、男性や女性が明示されるより早く両性具有をあらわすもの、極端と放縦と倒錯と複神をそこかしこに寓意させるような、親しみよりも分かりにくさを比喩するものの集合体なのである。
  ホッケはこのようなマニエリスムの特質が、ラファエロの死からパスカルの回心にいたる1520年から1650年のあいだに、いくらでも発見できると序文に書いた。

 しかし、はっきりさせておいたほうがいい。ホッケはマニエリスムの美術史などを書こうとしたのではないということだ。ホッケはクルチウスやプラーツと同様、むしろ「近代人とは何か」「近代には問題がある」ということを解明しようとしつづけたのである。
  ヨーロッパにはどう見ても変則的なヨーロッパというものがある。そこからは「隠された人間像」がいくらでも発見できる。それが近代ヨーロッパのなかで消し去られたとはいわないまでも、徹底して軽視されてしまったことはあきらかだ。ときには規格にあわないものは排除された。それはおかしいのではないか。それではもうひとつのヨーロッパは見えてこないのではないか。もし真のヨーロッパを継承したいというなら、むしろこの「隠された伝統」をこそ照射すべきではないか。これがホッケの立場である。
  そこで「変則的なヨーロッパの隠れた伝統」の解明が進んだのであるが、ところが、ここに重大な問題が待っていた。それは、そもそもクルティウスやプラーツやホッケらが解明しようとした当のものが、すでにルネサンスにおいてもそれ以前のマグナ・グレキアの時代においても、いやゴシックにおいてもロマネスクにおいても、ヘレニズムにおいてさえ早々に隠秘されようとしてきたということである。隠された伝統は、あえて隠されてきたと見えるのだ。
  17世紀のアナシウス・キルヒャーはこうした隠秘されたものを「地下世界」と命名し、世界の内部はすべからく迷宮になっていることを示唆していたし、ロバート・フラッドはそのもう一方の暗い世界と現実の天界をふくめた明るい世界との両方で、やっと「両界」というシステムが成り立っているのだと主張していた。
  変則的ヨーッロパには、隠れた伝統ではなく、わざわざ隠した伝統があったのである。そうだとすると、マニエリスムの起源はルネサンスとバロックのあいだにあるのではなく、もっとずっと古いところから始まっていたと言わなければならなかった。こうしてホッケの本書における古今を縦断する旅が始まるのである。

 ホッケが特色を与えたマニエリスムの背後には、意外にも原アジアに結びついている見方があった。
  結論からいえば、ホッケは古代から発展と変遷をとげてきた修辞学的な表現世界のありかたを「アッチカ風とアジア風」として対比的に振り分け、アッチカ風を「適確・集中的・簡潔・精巧・本質的」に、アジア風を「過剰・多義的・非本質的・凝り性・饒舌」などに割り当てたのである。
  これはもともとはエドワルト・ノルデンが試みた分類を踏襲したもので必ずしも新しい見方ではないのだが、それがマニエリスムにハードウェアとソフトウェアの擦り合わせのごとく応用されたところが斬新だった。ホッケの方程式は、古典主義や擬古主義はアッチカ風で調和的・保守的であり、マニエリスムはアジア風で非調和的、近代的でかつヘレニズム的であるとみなしたのだ。
  しかしこれだけを聞いてマニエリスムが理解できる者は少ない。ぼくなりの解説も加えなければならない。

  アッチカ風というのは、紀元前2世紀の思想者や表現者たちが紀元前4~5世紀のツキジーデスやリージアスやデモステネスに溯る趣向のことを起源としている。その理念はミメーシス(模倣)にある。
 アジア風は、1世紀のクインティリアスがサモスのテーオンなどにひそむエトルリア的なファンタジアに注目し、これをアッチカ風から区別するためにアジア風と見たところに始まった。ここには起源におけるミメーシスとファンタジアの対比がある。
  しかし、なぜこれがアジア風なのかということはまだわかりにくいし、それがマニエリスムにつながるだなんてことはもっと理解しにくいにちがいない。これについては少しばかり古代ギリシアの基本思想をおさらいする必要がある。ヨーロッパでは、古代ローマでもルネサンスでも、近代的人間像においても民主主義においても、たえず振り返るべき原点だったからだ。

 そもそも古代ギリシアでは「ウラノスとガイア」の一対と「コスモスとカオス」の一対が先行していた。正確には、最初にカオスが生まれ、ついでガイア(大地)→タルタロス(地底)が生まれ、そのあとでウラノス(父の役割としての天)が生成する。ここまではあきらかに母系的である。
  このガイアとウラノスの子にクロノスが生まれた。ここからギリシア独得の物語になって、クロノスが母ガイアと手を結んで父ウラノスを倒し、そのクロノスがレイアと結婚して、あろうことかレイアが生んだ子供たちを呑みこんでしまうというふうに展開する。物語は一人ゼウスだけが併呑の難を逃れて新たな神々の軍団を組織化し、いよいよ父なるゴッドファーザーとしての天界のリーダーになるところで最初の頂点を迎える。このゼウスの一派がいわゆる「オリュンポスの神々」という軍団である。
  すぐに察知できるように、当初の「ガイア→レイア→ゼウスの多妻たち」という母系の進行に対して、ここには「ウラノス→クロノス→ゼウスの絶対化」という父系による劇的な逆転がおこっている。一般にヨーロッパ思想の中核というものは、この「クロノス→ゼウス」のところで逆転がおこっていることをどう認証するかという議論を属性として、発達してきた。それは20世紀においても変わらない。フロイトからドゥルーズまで、すべてこの問題を考察しつづけた。

 さて、ゼウスが古代ギリシアの神々のシステムを統治したということは、ここに「秩序」が生まれたということである。これが古代ギリシアでいうコスモスだった。注意するべきことは、このときはコスモスが人為的な秩序であって、カオスのほうがナチュラルな根源をあらわしていたということだ。
  続いて、このコスモスとカオスのあいだに社会生活が挟まれる。社会生活はカオスから吹きすさぶ自然の猛威を防いで、そこに安定した日々をおくるための制度をつくる。これがノモス(法)である。ノモスはコスモスの統轄者たる天なるゼウスの、その人工的秩序の、しかしコズミック(コスモス的)な原器を反映して制定されたものとみなされる。
  このノモスによって律せられた社会生活は、二つの領域に分けられた。それがポリス(都市)とオイコス(家庭)である。しかもここが重要なところなのだが、都市空間ポリスは地上の明るい世界で、家庭空間オイコスは地下の暗い世界だとみなされた。なぜポリスが明るくて、オイコスが暗いのか。
 これを理解するには、もともと古代ギリシアが小アジアを背景に、先行するアジア的な野生世界を伐採して、そこに石造りの都市空間をつくっていったという経緯が反映している。つまり「野蛮なアジア的な空間」の上に「開明的なポリス的な空間」をつくりだしたんだ、われわれはそこから上方に向かって出発したんだという見方が、ここに始まったわけである。
 ちなみにこの見方はのちにヘーゲルによってもっと根本的な文明史観にまで高められた。

 ポリスがアジア的空間を封印して形成されたということは、ポリスという理念には天上的なコスモスの秩序があるということになる。逆に、そのように封印されたオイコスには地下的な世界がつながっているということになる。
  ついでにいえば、このようなポリスは、各オイコス(家)の家長が一人ずつ選出されてポリスのメンバーになることによって成立する。これが直接民主主義の基本だった。これをいいかえれば、オイコスはギリシア空間に残された最小のアジアという単位だったということなのだ。だから、ノモスに律せられた社会生活のための基本的な生産力は、このオイコスから送り出される。オイコスはつねにポリスの不足を埋める装置だったのである。いわばオイコスが「負」を充填し、ポリスが「正」を謳歌する。そういう宿命的な関係があった。
  すでにおわかりのように、このポリス(polis)から「政治」(politics)という概念が、オイコス(oikos)からは「経済」(economy)が派生した。ヨーロッパにおいては、経済とは「オイコスの成果をポリスにふさわしくノモス化したもの」なのだ。
  だいたいこんなところでおさらいをすませるとすると、これで一応は「アジア的である」「アジア風」という意味のルーツに見当がついたのではないかと思う。

 それでは、この「アジア風」にどうしてグノーシスやマニエリスムが対応できたのか。グノーシスは、とりわけマニエリスムは、古代ギリアのポリス的ノモスによって封印された地下世界につながるパンドラの函をこじあけたのだ。
  ポリス的ノモスには、当然ながらあらゆる秩序がまとわりついている。黄金比率もそのひとつだし、美の完成の追求もそのひとつ、また文法も修辞も秩序を構成するためのものだった。この比率や美や文法や修辞に従ってばかりいては、オイコスのリゾームは発見できない。マニエリスムはだからこそこのすべてに逆転と歪曲と誇張をもらしたのである。
 しかし、そのこじあけは、神聖ローマ帝国とフランク王国とカトリック・システムというノモス的秩序によって構築されつつあった巨大ヨーロッパ社会では、あからさまに許容されてはいなかった。異端も魔女も男色も、変質も奇形も伝染病も白日のもとに持ち出せないようになっていた。
  こうしてマニエリストたちがひそかな活躍を始めることになったのである。隠しつつ暴いていったのだ。暴きつつ隠していったのだ。たとえばミケランジェロはその楕円において、デューラーはそのメランコリア(憂鬱)において、パルミジャニーノはその凸面鏡において、カラヴァッジョはそのキリストやヨハネの足において、アルチンボルドはその顔貌の要素において、それぞれのノモスの打破をコンチェット(綺想)としてあらわしてみせたのだ。

 こんなところで、ぼくはホッケをあの20代の惑溺そのままに、敬意をもって通過しえただろうか。
もしそうだったのなら、ホッケその人についてごく少々紹介しておく。
 ホッケはドイツ人とフランス人の父母のもとにブリュッセルで生まれ育ち、ベルリン大学でクルティウスの著作に出会って仰天し、しばらくはケルン新聞で編集に携わると、すぐさま伝統と近代のあいだに喘ぐドイツ国学を問う「現代の精神」というシリーズを企画構成した。続いて、モンテーニュからジロドゥにおよぶエッセイ集を手がけて話題を集めると、一方で『精神のパリ』を執筆し、他方でその後のホッケの研究態度を決定する出来事に逢着する。
  それは、南イタリアに旅行したときに往時のエレア学派とピタゴラス学派が思索を展開した「マニエラ・グレカ」(イタリア的ギリシア主義)の光景を目の当たりにしたことだった。以降、ホッケはギリシアとイタリアを結ぶ地下洞窟から全ヨーロッパ文化の謎を解きつづけることになる。その解剖のメスがマニエリスムなのである。
  本書は、このようなマニエリストたちの古今にわたる試作と冒険の大半をイメジャリーに話題にした記念碑である。文芸的な試作と冒険については、このあとに書かれた『文学におけるマニエリスム』のほうに網羅されている。個々の作品例についてはこの2冊にあたられるのがいい。作家名と作品例の多さに驚くだろう。
  最後に一言、こんな感想がいまだに残響する。当時はむろん、いまでも半分はそう思うのだが、ホッケが案内してくれたマニエリストたちは、その多くがなんとも工人ダイダロスっぽくて、ということは仕掛けのあるサイボーグかロボットめいているのに、そのくせやたらにギャラント(伊達)で、マルチスピリチュアル(多精霊的)であったことか‥‥という感想だ。
  では、次はマニエリスムよりもさらに重大きわまりないバロックを相手にしなくてはなるまい――。

附記¶簡素ながら、やっとホッケを紹介することができた。ぜひ『文学におけるマニエリム』上下(現代思潮社)とともに耽読されたい。その『文学におけるマニエリム』の訳者でもあった種村季弘が「あとがき」で、画家のファブリツィオ・クレリチとともに来日したホッケのミラノのタクシー運転手めいた陽気な人物像にふれているのも得がたい感想である。 文中にとりあげた書名の出版社は次の通り。クルツィウス『ヨーロッパ文学とラテン的中世』(みすず書房)、ハウザー『マニエリスム』全3冊(岩崎美術社)、若桑みどり『マニエリスム芸術論』(ちくま学芸文庫)、サイファー『ルネサンスの四段階』(河出書房新社)、プラーツ『綺想主義研究』『官能の庭』『ペルセウスとメドゥーサ』(いずれもありな書房)、ロバート・エヴァンズ『魔術の帝国』(平凡社)、サイモン・シャーマ『風景と記憶』(河出書房新社)。

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