高橋竹山
津軽三味線ひとり旅
新書館 1975 中公文庫 1991
ISBN:4122018293

 二年ばかり一人で門付けをして十九の年になった時、親が嫁を もらえと言った。おらが眼なんぼか見えて一人で歩けるといって みたところで、親にしてみれば心配もあるべし、病気になること もあるべし、おらを案じて早く一緒にさせたかったんべ。
 十九の花婿と十七の花嫁と、小湊で祝言あげてカマドもった。 唄っこうたえる娘だったから、二人して門かけだ。おらが三味線 ひいで、かかあ唄って、米もらって歩いたんだ。

 高橋竹山は明治43年に青森の小湊で生まれた。幼児のころに麻疹をこじらせて失明同然となった。青森が大凶作に打ちひしがれていた時期である。
 小学校に入ったが、3日でやめた。近在のボサマから三味線を教えられ、それからは勝手な弾き方で門付けをし、16歳で独り立ちをすると、また門付けを始めた。「門付けして歩いて三味線がうまくなれるもんでねえ。競争相手もなし、だいいち生活のために困って歩いているんだもの、上手も下手もあったもんでねえ」。「糸切れても代わりなも、ねもんだから、ただ結んでつかってな」。
 飴売りも大道売りもした。昭和6年に「唄会」の一座に雇われ、また北の各地を歩いた。ときに座敷打ちをした。給料はない。三味線はいいものはない。「むかしからずっと人に見られるの恥ずかしいような三味線でやってきた」。唄会一座といってもホイト(乞食行)のようなものだった。宿屋などには泊まらない。小屋に泊まって飯をもらって一日ずつを生きていく。
 戦争が近くなると、どんな仕事も苦しくなって浪花節の三味線を弾いた。「浪花節の三味線はレコードを何回も聞いて一人でおぼえた」。満州には浪曲師の三味線方として渡っている。
 それでもそんなことでは食べていけなかったから、ぼくが生まれた昭和19年には八戸の盲唖学校に入って鍼灸マッサージも身につけた。それが34歳である。5年かかってやっと鍼灸マッサージの免状をもらった。
 だから竹山の三味線が本格化するのは、名人といわれた成田雲竹に師事して戦後に各地を行脚してからである。やっと自立したときは昭和39年になっていた。54歳である。

 竹山は生涯にわたって津軽にこだわった。ピアノはそこを弾けばその音が出るが、三味線はツボ当たりが悪ければ、音が出ない。とくに津軽三味線は同じ曲でも、その音のところでも、津軽の匂いをもてるかもてないかが、いつも異なってくる。
 この「津軽の匂い」に竹山は命を懸けた。のちに高橋竹山が有名になって(本書が刊行されたのと、新藤兼人が1977年に『竹山ひとり旅』という映画を作ったのが大きかった)、竹山の三味線に津軽の泥くささが薄れてきたという批評が出まわったことがあった。このときの竹山の反論のようなものを憶えているのだが(アサヒグラフだったか、音楽誌か何だったか)、竹山は「とんでもねえ」と一蹴した。
 そういう文句を言う奴が、いったいどのくらい津軽をわかっているんだという反論である。土くさい、泥の中を這いずりまわっている津軽だけが津軽ではないんだ、そこには風もあれば、波の音もあるし、雪の美しさもあれば、とんでもない静寂もある。津軽の時間にはとてもゆっくりしか動かないものもある。そういうことを怒って言っていた。
 そのときのインタヴューだったか、「だいたい東京の連中は田舎めいている」とも言っていて、これは傑作だった。食い物だって青森よりうんと落ちるし、味付けしようとしいるのが気にいらねえ。とくに東京の学者の言うことは腹が立つね。そんじゃ津軽の音がわかるには、まず東京の水道の水を飲むなと言いたいね。そんな主旨だった。

 東京渋谷ジァン・ジァン。教会の地下音楽堂。ぼくはここで初めて高橋竹山を聴いた。
 最初が『三味線じょんから』と『三味線よされ』だった。これではやくも陶酔した。「津軽の匂い」はともかくも、あっというまに「津軽」を知らされた。1976年くらいになっていたとおもう。そうだとすると竹山はそのころ66歳で、円熟していたのはむろんだろうけれど、その後も85歳くらいまで三味線を弾いていて、ぼくは70歳代、80歳代の竹山もそのつど聴いたので、最初の66歳のときの三味線が円熟だとしたら、その後の竹山は闌位(世阿弥の言葉)とか、孤峰とか絶顛と言わなければならないのであろう。
 ともかくも、なんというのか凄かった。凍みわたった。そのころ、このような凄さや凍みは法竹(ほっちく)の海童道宗祖に感じたくらいのもので(岡本文弥の新内も武原はんの地歌舞も最高で凍みはあったが、凄いというのではなかった)、なんともほかに比べる才能がなかった。あえて比べるのならジミ・ヘンドリックスやマイルス・デイヴィスだろうけれど、これはやっぱり「津軽」とは比べられない。
 なぜ、こんな凄いものを知らなかったのだろかと、愕然としたものだ。実は、竹山を聞くチャンスはもっと前にもあったはずなのである。第342夜に書いたように、間章(あいだ・あきら)が1972年に高橋竹山を、鶴田錦史や海童道宗祖や木田林松栄とともに新潟現代音楽祭に引っ張り出していた。そこにも書いたように、ぼくはこれをのちにNHKのドキュメンタリーで見るのだが、そうか、ここに竹山は出ていたかと思った。
 ともかくもそれからはレコードが揃ってきたこともあって、竹山を聞く機会がふえていく。しかし、不思議なことにあの凄さがしだいに深さや「もののあはれ」に聞こえてきた。いやいや津軽に雅びな「もののあはれ」じゃあるまいに、これはどうしたことかと思っていたほどだ。

 高橋竹山を有名にしたのは佐藤貞樹だった。本書も佐藤が聞き書きをした。間章も新藤兼人も竹山を有名にしたが、なんといっても佐藤の功績だ。この人は1955年に青森県芸術鑑賞協会の設立にかかわって、1981年までその事務局長だった。こういう人が地方の芸能を根本で支えているのである。
 ごく最近、その佐藤が『高橋竹山に聴く』(集英社新書)を綴って、さらに竹山の内奥を掘り出してくれた。久々に竹山が蘇ってきた。蘇ってきただけではなく、この新書をちらちら読んでいてハッとした。やはり竹山は「もののあはれ」とは言わないまでも、「津軽の匂い」を美しさの極北に導こうとしていたことが、少しかいま見えたからである。こんなふうに言っている。

津軽の泥くささというが、三味線もあの匂いは消されねえけれ ども、そのなかにちょっときれいな、みんなが聴いてくれるものを勉強してつくっていきたいという、わたしはそういう気でやっています。

 このくだりは、三味線はそれを弾く一人一人によってすべて音が違うこと、だから汚く鳴らせば汚くもなるし、泥くさく鳴らせば泥になる。端唄にすれば端唄になって、浪花節にすれば浪花節にもなるものである。そういうことを語ったうえで、最近の津軽三味線が間違って拡張しつつあることに警告を発しているくだりだった。
 とくに津軽三味線は津軽しか知らない者が弾けると思ったら大間違いだと言っている(吉田兄弟、よおく聞いていろよ)。とりわけ速い曲は楽だから、あんなものばかりを弾いていると、いずれ津軽三味線の魂がどこにあるかが見えなくなっていく。実は津軽三味線は音への思いが一途にあれば、誰だって入っていけるはず、アメリカ人だって芸者さんだって弾けるはずなのである。
 ただ、そのためには一曲を何度も弾くことだ。何曲もおぼえたとか、たくさん弾けるとかということを誇りなさんな。三味線の奥の奥にある静かな鳴りや深いものに向かわなきゃいけない。もっと言うなら、「型」に色や匂いを感じ、それが音色に出るのが津軽三味線だと思えなきゃ、これは津軽三味線だって廃ります。
 こう、言うのである。すでに高橋竹山にして、日本の没落は予感されていたようだ。
 では、どうするかといえば、もう一度時間をかけるしかないだろう。津軽三味線の静かに深まっていく、シネやスネに落ちていく音を聴くことである。かつて同じ青森の棟方志功がこう書いていた。津軽三味線は「オドロイても、カナシンでも、アイシても、しきれない想いなのである」と。そして、さらにこう書いた、「高橋竹山は溟命を弾打する」と。溟命(めいめい)――。そうなのか、「もののあはれ」じゃなくて、「溟命」なんだ。つまり剣が峰から聞こえてくる音なのだ。

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