ジョルジュ・デ・キリコ
エブドメロス
思潮社 1970・1994
Giorgio de Chirico
Hebdomeros 1929
[訳]笹本孝

 父親の目をした不滅の女神。そんな父性的な女神の巨大なマネキン彫像が人っ子一人いない都市の広場に立っていて、そこに遠くから蒸気機関車のバゥッ、バゥッというラッセル音のような驀進音が聞こえてきたら、どうするか。
 ジョルジュ・デ・キリコがひたすら描いたメタフィジック・アートとは、そういう孤絶の彼方からの音信を思わせる。

 ぼくがキリコを画集に見たのは中学生のときのことで、日本画家の叔父の画室の中でのことだった。人間が描かれずに街区とマネキンだけが置かれたその寂寞とした絵を覗きこんでいるぼくに、叔父は肩越しにこんなことを言ったものである、「セイゴオちゃん、ここまで絵を描けるようになるのって、えらいことなんやで」。
 叔父の言っている意味がまったくわからなかったぼくは、「この人、そんなに上手なんか?」と聞いた。叔父は答えるかわりに、こう訊いてきた、「セイゴオちゃんは描きたいものがあるとき、心の中に浮かんだものをその絵の中に入れられるやろか」。うん、と言ったか、わからへんと言ったかは忘れたが、当時、ぼくが尊敬しまくっていた叔父は、さらにこんなことを説明してくれたのだったかと憶う。
 「目の前にあるものを描くのと、心の中のものを描くのは別なことやね。でも、それを一緒にしたってかまへんこともある。ゴッホの絵はそういうもんやろね。そやけど、心の中だけのイメージを描くとすると、どうしたらええやろね」。「いろいろいっぱい描きとうなるやろね」とぼくは答えた。ところが叔父は意外なことを言ったのだ、「そんなに仰山なもの、描けるか?」。
 ぼくはきっと半分泣きそうになっていたのではないかと思うのだが、叔父は平気でこう続けた。「この人はキリコというんやけど、その心の中のものを消して消していったんやな」。そして、画集の中の絵を指して、こう付け加えた、「それで、これは残ったもんや。これ以上は消せへんもんやったんやね」。

 そんなキリコが小説を書いていた。『エブドメロス』という。一介の画家が手慰みに綴った小説だなどと思ってはいけない。絶賛すべき小説だ。
 キリコが『エブドメロス』を発表したのは1929年であるが、その3年前に『技師の息子』をエチュードとして書いていた。ようするに準備万端なのだ。技師の息子とは、キリコのことである。技師とは鉄道線路の付設工事をしていた父親アリュージョンのことで、このことを知れば、キリコがどうしてあんなに機関車を画面の隅に描きつづけたかは、見当がつく。すなわち、機関車とは父のことだったのだ。
 しかし、事は機関車の残響を描くだけではなかったのである。キリコにとっては、この父と子の緊張関係そのものが壮烈で、そのため『技師の息子』にも『エブドメロス』にもこの父性幻想が壮絶なナイトメアとして沸き立った。それは絵にすれば機関車の黒いボディと蒸気となるようなものではあったのだけれど――。

『広場での二人の哲学者の遭遇』1972

『広場での二人の哲学者の遭遇』1972


 最初にちょっとした事実関係のことを書いておくが、キリコの父親はキリコ17歳のときに死んだ。
 それまでキリコはギリシアのヴァロに生まれて、アテネの工芸学校に行っていた。少年キリコに古代都市アテネが細部にいたるまでずうっと見えていたことは、キリコのその後の形象にとっては大きなプラスティック・フォースになっている。
 一方、キリコは異常な予感力をもつ多感多情な少年として育っていた。それだけでなく父の存在というものをそうとう過剰に感受していたらしく、厳格なピュータリニズムを周囲に放つこの父親の言動と生き方に、名状しがたい「危機の到来」のようなものを感じていたようだ。それゆえキリコにとっての父の死は、キリコの内にひそむべき未発の事件を突発させた。
 しかし、キリコにはもともと格別の内観力があったので、父の死がもたらした異常な高揚はそのまま雑多に外に出ることなく、ひたすらそのイメージを想像力の中に沈潜していった。そう、それこそがキリコの絵がのちに極限的なメタフィジック・アートに達する要因になった機関車の蒸気だったのである。
 父を失ったキリコは、どうしたか。直後にアテネを離れてミュンヘンの美術学校に行く。それが1906年である。ここでドイツ浪漫派に出会い、とくにベックリーンやクリンガーの表現主義的な幻想絵画を見てハッとした。なんだ、ここに自分が表現の手段を探してきたヒントがあると思われた。
 しかしそれ以上にキリコをもっと揺さぶったものがミュンヘンには待っていた。それはニーチェの哲学である。ニーチェのツァラストラと超人と悲劇というものだった。こうしてキリコはニーチェを通して、生身の人間を捨てていく。

 マネキンとビスケットと蒸気機関車。それらが古代都市の一角に孤絶すること。1909年にイタリアに帰ったキリコが考え抜いたことは、このことだ。
 念のため、キリコはパリに出て自分のメタフィジック・アートがどのように受け入れられるのか、自分の表象を晒してみた。すぐにアポリネールが絶賛してくれた。たちまちブルトンも瞠目してくれた。それで、わかった。シュルレアリスムとはそんなものなのか。 キリコは自分に浴びせられたこの歓声をよそに、カルロ・カッラを友としていよいよメタフィジック・アートの様式の仕上げにかかる。これは、でも、時間はかからない。すぐさまその仕上げを見届けて、キリコが次に向かったのは、なんとラファエロやルーベンスの「古典の規範」に戻ることだったのだ。
 これには嫉妬深いブルトンが驚いて、非難を浴びせた。キリコには先刻周知のシュルレアリスムとの決別である。が、さあ、ここからこそがキリコの本番なのである。ジャコメッティデュシャンではないが、キリコは新作を制作することなどには目もくれず、しきりに旧作の手直しやその模倣や、ときには日付だけを書き替えることを始める。これはどこか稲垣足穂に通ずるものがある。
 周囲はこうしたキリコの変貌に理解が届かず(いまでも美術史はこのようなキリコをどう評価してよいかわからないままなのだが)、やたらと呆然とするのだが、キリコのほうは平然とこの韜晦にいそしんだ。そうなのである、キリコはすでに「面影という本質」の探求に着手しはじめていたわけなのだ。

 「突然、こうした大気の有様が、その色彩と情感を失したのだった。大空の天井の梁と床板が真横から照らし出され、唐突に現出したのだ」。
 このあと、背景の書き割りが変転してカーテンが上がると、そこには壮麗で知的ではあるが、喧噪と淫乱に満ちた光景がくりひろげられて、そこへ遠方で輝く星座が落ちてきたかのような人工窓枠の登場があって、どんでん返しが続いていく。
 『エブドメロス』にはこういうアーティフィシャルな場面転換が随所に出てくるのである。その外連(けれん)には目を奪うものがある。それなのにエブドメロスは(むろんキリコ自身のことであるが)、たいてい次のようになっていく。
 「エブドメロスはこの場にとどまる道を択び、壁の絵だとか芸術品に心を奪われているふうを装った。むろんきわめて凡庸なものばかりだったが、子供のときから見てきて、エブドメロスのよく諳じているものばかりだった」というふうに。そして、どうなるか。エブドメロスは「見いだされた時間の記憶の揺り籠、夕暮れとか、夕べの霧にけぶる庭、砲兵隊の営舎とか地震などの記憶に、わが身をまかせたのだ」。

 いったいキリコはエブドメロスとなって何を書きたかったのだろうか。ひとつは父のことである。もうひとつは? もうひとつはすべてを「加速して、そして凍結していく面影」として、これらいっさいを凝縮することだ。
 この奇想天外の小説は、次のような場面で終わっていく。これを読めばジュルジュ・デ・キリコが何を書いたのか、ずうっと何をタブロオに描いていたのか、すべてが忽然と了解されるにちがいない。ぼくもまた、叔父が何を教えてくれたのかを、いまではエブドメロスとともに知っている。こんなイメージだ。

ロケットが空に上がっていたが、音はなかった。すべての音が止んでいた。世界の最も非情な姿がことごとくそこにあった。
 例えば、大地の石、人間や動物たちの骨は永久に消え去ってしまった如くだし、豊かで抗しがたい大きな波が、無限の優しさでいっさいの事物を水の下に沈めていた。そして、この新しい大洋の真ん中には、エブドメロスの船が帆をいっぱいに張り、ひとところをじっと漂っていたのだ。
 そのときである、ドアの把手が何者かの得体のしれぬものの手でゆっくりと回され、病弱の老人が冬の夜中で震えていた。
 エブドメロスはとたんに崩れた廃墟の石の上にあご肘をつき、もはや何も考えなくなった。そうしてそのまま暫時、すべての思考が神秘の未知の言葉となって、無垢の白さを誇っていった。

『午後の魅惑』1973

『午後の魅惑』1973

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