秋山祐徳太子
泡沫桀人列伝
二玄社 2002
ISBN:4544020379

 こういう本がいつかは出てくると思っていた。ご同慶の至りだ。次から次へと泡沫アーティストを列挙しようというのだから、この審判委員長を誰がつとめるかが最大の問題になるのだが、秋山祐徳太子なら誰もが顔を見合わせて納得をする。書かれたほうも、読まされたほうも。
 それよりなにより、読んでいて、だんだん心が温まってきたのに驚いた。むろんプッと吹き出しもし、唖然ともし、ちょっと集中ができなくて困ったものだと思いもしたが、それ以上に並々ならぬ人間美術の温泉に浸かった安心感のようなものに包まれ、すっかり満足してしまっていた。いや、読む前はこんな満足な気分になるとは予想もしなかったのだ。これはいったいぜんたい、泡沫アートのせいなのか、それとも海より深そうな著者の愛情のせいなのか。

 この温かい気分を、さて、本書を紹介することで伝えられるかどうかは自信がないが、ともかく登場する泡沫アーティストの顔触れを書かないでは説明にもならないので、多少は書いておくと、まあこんな感じだ。
 安いケント紙を道路に並べ、その上を自動車が走り去っていった跡のケント紙を展示するタイヤ・アートの石橋別人(痕跡走破する重力)。全国どこでも鐘のある寺の鐘をついている須田鐘太郎(ゴーンとgone)。やはり全国いろいろなところに行っては、そこから石ころを送ってくるストーンアートの岩倉創一(石の意思)。上演時間が近づくと劇場の観客にお茶やお煎餅が配られ、なかなか舞台が始まらずについに2時間ほどたったころ「本日は存在演劇にお運びいただきありがとうございました。これで存在演劇を終わらせていただきます」と本人が挨拶する「存在演劇」の蒲生和臣(無為の徹底)。美術集団クロハタを一人で結成して、必ず無届けデモをしていた松江カク(どこにも展示会はある)。
 誰にでも最敬礼をするのだが、その姿がみごとな永久敬礼美術の村山次郎(本当のコミュニケーション)。かつては先鋭的な批評で鳴らして、いまは京都九条山の自宅の前に土方巽神社をつくったヨシダ・ミノル(黙礼)。自分では個展を開かないのに他人の個展に現れて美術している野田勝太郎(借り物芸術か主張芸術か)。死こそは最終美術だというので葬儀に駆けつける山形葬太郎(この人の本名はわからない)。自分の結婚式ですらウンコを三方に載せて神社の回廊を走ったゼロ次元の上條順次郎(新婦は実は神主の娘だった)。世界中を旅行をしていて、その自分の位置を世界白地図はがきに赤い点を打って送ってくる栗山豊(ぼくもこのハカギを何枚も貰った。その後、「岡倉天心の逆襲」といって天心のコスチュームを着て上野を歩いていたが、先だって亡くなった)。

 いやいや、これはまだほんの一部分の泡沫紹介である。
 ほかにもたとえば、何をもって、どこをもって美術というかは定かではないのだが、こんな顔触れが紹介されている。
 永寿日朗はもともとは「血源」という劇団をつくって全国巡業していたのだが、あるとき新宿ゴールデン街に「発狂の夜」という怪しげな店を出した。著者が行ってみたところ、ちょうどカウンターで女性が放尿している最中だった。この店はあえなく潰れたが、さすがに(何がさすがかは明確ではないが)、同じ店名の店を青山に開き、騒然と賑わっていたのに、これは燃えた。
 風倉匠は個展会場で著者にポツリと「君に万年筆を送る」と言った。送られてきた万年筆はなかなか立派なものだったが、ペン先が壊れていた。著者はこれに脱帽した。ぼくも感心して見ている榎忠は、銃弾の薬莢を山のごとく積み上げたり、鋳物で象った自動小銃を二百丁ほど整然と展示したりしている軍事芸術家である。宮本和雄はいっときは久が原の遺跡の調査に乗り出して、そのまま痕跡のような克明なアートを作り出し、著者によって「かさぶた芸術」の権威とよばれている。
 芸大出身でフランス語が堪能な真島直子は、腐敗したラーメンやソーメンを床にばらまいたり、ヒノ・ギャラリーの個展では内蔵表現に挑んだりしていたのだが、これはぼくも見たのだが、鯉のオブジェで人気が上がり、ついにバングラデッシュのビエンナーレでは脈動する鉛筆画を描いてグランプリをとった。
 いったい何を泡沫とするかがわからないところもある人選ではあるが、行商美術の木村昭平、皿踊りの湯川保、飴細工の坂入尚文、単に都知事選に立候補したというだけの窪田志一・鈴木東四郎・吉田浩といった、一発芸というのか、瞬間と普遍を自身の生きざまをもってつなげたというのか、そういう忘れ難い泡沫芸術家も軒を並べている。

銘仙のきもの

木村恒久
『光速列車の客』(1992)


 意外なのは、風倉匠や真島直子もそうなのだが、ぼくが尊敬してやまないグラフィックデザイナーの木村恒久、『おジュネ』で感服させられたダンサーの石井満隆、堂々たる画家で人格高潔であった平賀敬なども“泡沫入選”していることで、このあたり、しだいに泡沫とは仮の名で、実は秋山祐徳太子によって泡沫芸術に律せられることのほうが、うんと難しいことだということがだんだんわかってくる寸法である。
 最後の最後に、伝説の神々の中に君臨する“ダダ・カン”ことイトイ・カンジ、「ゼロ次元」の総帥の加藤好弘、1958年にはジャズバンドをバックに過激なアクションペインティングを見せて、いままたボクシングペインティングを披露する篠原有司男、アリと猪木の格闘技決戦ををプロモートし、ネッシー探検隊を組織し、『家畜人ヤプー』の出版のために都市出版をおこした康芳夫の、この4人が並んでトリをとっているところを見ると、これはやっぱり泡沫入選は法外な栄誉だということはミエミエなのだ。
 ともかくも目出度いことである。前衛美術の底辺がどのように形成されてきたかも、よくわかるようになっている。もっともサブタイトルは「知られざる超前衛」となっているが。
 しかし、そんなことより、最初に書いたように、この一冊がもっている温かさは何なのだろうということが、ぼくをウキウキと混乱させたのだった。
 それについては巻末に赤瀬川原平、山下裕二、秋山祐徳太子による泡沫研究座談会が組まれているのだが、ここにも雪舟から岡本太郎までが、瀧口修造からオノ・ヨーコまでが泡沫議論の訴状にのぼっていて、ますます用意周到に混乱させられるようになっていた。
 ところで、ガリバーこと安土修三は、ここには入れないのだろうか。入れないのだとすると、彼は本人の意向に反して、立派すぎる世界的芸術家になっているということである。

コメントは受け付けていません。