デイヴィッド・ピート
シンクロニシティ
朝日出版社 1989
ISBN:4255890420
F. David Peat
Synchronicity 1989
[訳]管啓次郎

 C・P・スノーがこう言ったそうだ。「熱力学第二法則を知らないなんて、シェイクスピアの作品をひとつも読んだことがないのと同じようなものだ」。それでいうなら、シンクロニシティを知らないなんて、フェリーニの映画を一度も見たことがないようなものである。
 われわれにはいつも付き合っている現象がある。それはジェネレーション(発生)とアニメーション(活性)だ。これは自然界にも人間界にもペット界でもおこっている。けれどもわれわれはついつい大数の法則というものに目暗らまされて、すべての現象を平均的な尺度の中に埋没させて見るという傾向ももっている。そこで科学者や小説家やお笑い芸人が、その埋没した現象から「コレとアレとはひょっとして関係しているのじゃないか」と言い出して(最近のぼくはオセロの二人が言い出すことに感心しているが)、なるほどそうかと膝を打たせてくれる。
 これでとりあえずは、暗示的な意味関連がつく。しかし、その関連にはなんらの因果関係がないことが多い。素人目には「なるほど!」と思えても、笑えるものとはなっても、科学になるとはかぎらない

 科学はランダムネス(雑然性)やタービュランス(乱流性)やストレンジネス(奇妙性)といった、直接の因果関係では説明できない現象をいくつも発見してきた。
 たとえば水道のカランを少しだけゆるめると、水はポタポタと落ちる水滴だが、もっとあけると何本もの捩れた水になり、さらにあけると勢いよくスカートを広げて散るように出る。
 これらは同じシリアリティ(系列性)のなかの出来事なのに、その連続性を欠いている。ではそこに外部の手でも加わったのかというと、そうではなくて、そこには何かの非連続の連続の「超越」がおこったのだ。それを相転移とも創発ともいっている。何かが何かの段階を超えるたびにひとつの臨界値を突き出て、次の別の現象を見せるのだ。
 長いあいだ、科学はこのような現象をうまく説明できなかった。きれいな雲がしだいにウロコ雲になってしまうことも、アマゾン河が突如として逆流を始めることも、味噌汁が急にぐるぐる動き始めることも、うまく説明できなかった。
 やがて流体力学やカタストロフィ理論や非平衡力学やカオス論が登場してくると、これらの現象には特異な秩序生成がおこっていることがわかってきた。それはイリヤ・プリゴジンが言うように、熱力学と密接な関係をもって「混沌から秩序へ」向かっていることもあれば、多田富雄が言うように意外な抗原と抗体の関係をはらんで免疫効果を発揮する“スーパーシステム”として機能することもある。
 けれども、それでもアマゾン河が逆流する前日にホタルが群れ飛ぶような、系を超えて何かが同時におこっていることの関係は説明できなかった。

 ヴォルフガング・パウリは量子力学に排他原理(パウリの原理)をもたらした。それでノーベル賞を受賞した。
 排他原理の説明は難しいが、かんたんにいうなら、自然界のすべての物質は二つに大別できる抽象的なダンス(ふるまい)に参加しているというもので、光子や中間子などは対称的なダンスを踊るほうに属し、電子・陽子・中性子・ニュートリノなどは非対称的なダンスを踊るほうに属していて、後者には同じエネルギーをもつ素粒子たちを互いに離しておく(しめだしておく=排他する)という効果が出るというものである。
 しかし、この相互の「しめだし」には何ら互いに力がはたらいたわけではなくて、もしこれを説明したいなら、素粒子の全体群の運動の非対称性がもたらしたパターンだとするしかないだろうと言った。ということは、このパウリの排他原理こそが自然界の多様な化学組織をつくっている原理だということで、これがなければ宇宙はのっぺらぼうなものになっていたということになる。
 この排他原理をもっと深く解釈すると、原子のレベルのもとには何かを非因果的に決定するなんらかの抽象的なパターン・フォーメーションの力がひそんでいるということになる。
 このパウリの推理に関心をもったのがカール・ユングだった。ユングは物質の世界にそのような隠れた秩序を生成する力がひそんでいるのなら、心理の世界にもそのようなことがおこっているにちがいないと考えて、パウリと共同研究に乗り出し、1952年に『自然現象と心の構造』を共同出版した。
 そこに述べられていた主題がシンクロニシティ(synchronicity)なのである。ただし、パウリがもっぱら物質現象におけるシンクロニシティの発見を期待しつづけたのに対し、ユングは物理と心理のあいだにおこるシンクロニシティにその後も関心をもった。

 シンクロニシティとは、そこには何らの因果関係などないはずなのに、まるで似たような意味をもつかのように結びあわされている現象が場面をこえて同時的におこっていることをいう。
 これは、かつてポオやボードレールが「コレスポンダンス」(万物照応)とよんだことといくぶん近いものをもっている。近いものではあるが、今日、シンクロニシティといういうばあいは、そこにコインシデンス(同時生起)あるいはパラレリズム(平行的生起)がおこっているときの現象をいう。シンクロニシティは「非因果的連結」の総称なのだ。
 また、あらかじめ言っておくと、いまのところ科学者はシンクロニシティを“発見”していない。したがって、本書はシンクロニシティという考え方にアプローチするために試みられたもののなかでは、これまで書かれた最も説得力のある一冊ではあるが、それでも「これがシンクロニシティだ」というような指摘はどこにも書いてはいない。
 ではシンクロニシティだなんて言っておいて、何が注目すべきことなのかというと、従来の科学が追求してきた機械論的あるいは還元主義的な分析では説明できない多くの現象を集めていくと、そこには今後はシンクロニシティとでも言うしかないような特徴が顕著になっているということなのである。
 そこで本書では、シンクロニシティの正体の説明に最も近い例として、ディヴッド・ボームの「内蔵秩序」の考え方と、これは科学そのものとはいえないのだが、ユングの「プレローマ」の考え方を強く推薦して、もしもシンクロニシティ理論のようなものが出来上がった暁には、これらが有効な支柱になっているのではないかと暗示した。

 ボームの「内蔵秩序」(インプリケイト・オーダー)については、別に「千夜千冊」でも採り上げようともおもっているが、そうならないかもしれないので一言だけ説明しておくと、ボームは放射性の原子核崩壊のような量子プロセスを研究しているうちに、素粒子は「月水金が物質で、火木土が波動」であるようなそんな性質のものではなくて、そこにはもっと複雑な内部状態があるのではないかと考えた。
 そして、その内部状態がもたらす「ゆらぎ」や「量子ポテンシャル」こそが、それまで説明のつきにくかった多様な素粒子のふるまいを見せているのではないかとみなし、そこにはおそらく「おりこみ」(エンフォールディング)と「ひろがり」(アンフォールディング)とでもいうべき作用をもつ内蔵秩序が隠れているのではないかと仮説した。
 たとえばホログラフィでは、対象(被写体)の各部分からの光情報は感光体(ホログラム)の全体に折り込まれているため、そのどんな一部にも全体についての情報が含まれている。物質の最奥部においてもそのように、やがて顕現すべき情報たちが独自のしくみで内蔵されているのではないか、かんたんにいえばそのような仮説をたてたのである。
 これは科学者としてはいくぶん勇み足をしている仮説ではあったけれど、その後、科学が「情報」を理解し、コンピュータによって大量の計算を高速でできるようになってみると、たしかにさまざまな情報をもつシステムを高速多様に動かしていくと、そこからはそれまでまったく見えなかった内蔵秩序のようなものがあらわれてくることが多く目立ってきた。
 しかし残念ながら、そのような「相転移」や「創発」がどのような共通の内蔵秩序をもった“正体”のせいでおこっているかは、わかっていない。

 一方、ユングは、このような隠れた内蔵秩序がいずれ顕現してくるというしくみは、実は人間の「心」にこそあてはまるのではないかとみなしたのである。
 デカルト以来、物質のふるまいと意識のふるまいはまったく別なものだとみなされてきた。ところが抗生物質が発達し、脳科学が記憶や想起のしくみの解明に着手しはじめると、心や意識や精神が意外にも多くの物質(たとえば脳内物質)のふるまいと密接な関係をもっていそうだということになってきた
 けれどもユングは、何かの一つの物質が何かの一つの心理作用に対応しているとか、意識を励起させたりしているとかは考えない。マインド・スタッフ(意識物質)があるとは考えない。
 そうではなくて、そのような物質と意識の対応関係をもともといくつも含んだ基底状態のようなものが、人間にはそなわっていると見た。いわばわれわれには最初から「無の充満」があるとみなしたのである。
 プレローマとはそのことで、もともとはグノーシス派の神学用語だが、ユングはそのプレローマが、これもユングが名付けた「プシコイド」という元型状態の中にひそんでいると考えたのだった。そこは「コンテクストのない物心未分」のところ、それが何かのきっかけで解(ほぐ)れてきたとたん、そこからいくつもの「物心両用コンテクスト」が解錠されてくるにちがいない。そう考えたのだ。
 西洋的な用語のプレローマは、東洋的用語でいえばマンダラである。ユングはときにプレローマに、ときにマンダラに重心をおきながら、人間の意識をバラバラにせず、また個人のレベルに還元もしきらないで、なんとかプレローマあるいはマンダラ的な原意識として解釈しようとし、パウリから受けたシンクロニシティの正体の謎に迫ったのだった。そこからはたとえば「集合的無意識」という考え方や、また「箱庭療法」という治癒方法が“発見”された。

 以上は、本書のごく一部の紹介であるが、すでに述べておいたように、これらの説明をたくさん集めてもまだシンクロニシティとは何かということはわからないし、仮にシンクロニシティが“実在”していたとしても、その説明に近づいたともいえない。とくにユングの仮説の多くは科学からかなり遠のいている。
 けれども、ではシンクロニシティのようなものは絶対にないのかというと、これまたどんな科学をもっても否定しきれない。
 かつて、二人の数学者によって提唱されたハミルトン=ヤコビの理論は、一つの物質の動きをその背景の全体の動きで数学化するにあたって、多くの功績をもたらしたものだった。湯川秀樹が「見えない中間子」を“発見”したのも、このハミルトン=ヤコビのフォーミュラーにもとづいていた。
 ひょっとして、誰かが高速コンピュータを駆使してコレとアレとのコインシデンスな関係を追ううちに、こうした新しいハミルトニアンが生まれないともかぎらない。

 われわれはついつい“nothing but"(~にすぎない)と言いすぎてきた。それは物質の特性のひとつにすぎないのではないか。それは君の思いこみにすぎないのではないか。それは地球関係が汚染されているからにすぎないのではないか――。
 そうでもあろうが、そうでもないときもある。今度、誰かが訳知りに“nothing but"と言い出したときは、いったいそんなこと誰が決めたんだ、と言い返してやりなさい。それでもまだ抵抗をするようだったら、それが決まったのはギリシア時代なのか、ガウスのせいなのか、アインシュタインホーキングによるものなのか、それとも聖書によるものなのか、聞き返してみるとよい。そんなこと、たいていはギョーカイで通りそうもないというだけなのだ。
 ぼくはシンクロニシティという言葉で、自分の仮説を育てようとはしていない。しかしハナっからシンクロニシティのシの字も認めないという連中の仕事から、何かを得たという記憶もない。そういう連中には縁がない。ぼくはやっぱり「縁側つつぎ」でコレとアレとを考えたい。
 さあ、明日は草月会館で「縁會」だ。久々にあの人ともこの人とも出会いたい。みんなわざわざコインシデンスを求めて来てくれるんだから――。

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